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死者の書  作者: 立花 葵
千夏
12/13

春菜

 その時から、春菜との関係が始まった。

 互いの心は語らず、ダラダラと行為を重ね続けた。

 春菜と体を重ねているその間だけ、身に降り掛かった悲劇を事を忘れる事ができた。俺の心は一時の平穏を求め、この関係にのめり込んで行った。


 ある時――何時ものように行為を終え、俺の横顔を見つめる春菜が囁いた。

「私ね、我慢が出来なかったんだ。楽しそうにしてる姿を見るのが嬉しくて……。それを見たくて……何時も二人に付いてい行ってしまったの」


「……」

「二人が付き合いだしてからは特にそうだった。何処か寂しげで、物欲しそうな……あの恋い焦がれる瞳を私に向けてくれたらどんなに幸せだろう……。何時もそう思ってた」


「そんな顔してたか?」

「……うん」

 頷いた春菜は悲しげに微笑んだ。

「きっと……バチが当たったんだね。不意に居なくって、私が取って代わる。そんな妄想をしたりしてたから……」


 そして……卒業を間近に控えたある日、春菜の妊娠が発覚した。

 だが、春菜は俺の名を言わなかった。頑として口を割らなかった。

 そして、俺の前から姿を消した。


 春菜の行方は誰にも分からなかった。

 その間、一体何処でどう過ごしていたのかは今もはっきりとした事は知らない。聞く気もない。


 千夏を失い、春菜も居なくなり……俺は一人取り残された。

 愛する者を失い、傷付いた心に寄り添ってくれる理解者を失い……俺は再び陰鬱な時間に飲み込まれた。


 卒業を機に俺は地元を離れた。自分を知る者が居ない土地へ行き、静かに過ごしたかった。

 ……だが皮肉な事に、俺が纏う影は常に誰かを引き寄せ、俺は彼女達に春菜を求めた。


 でも、春菜のように俺を理解し、寄り添ってくれる女は居なかった。忘れろだの前を向けだの……誰も俺を理解しなかった。

 俺は心の傷や穴を塞いで欲しいんじゃない。千夏や春菜が付けた傷を含めて俺なんだ。ありのままの俺をそっと包んで欲しいだけなんだ。



 ――そんなある日、俺の前に春菜が現れた。

「男の子だよ」

 そう言って、胸に抱いた赤ん坊を見せた。

「……あの時の?」

「うん。千夏(ちなつ)亜樹(あき)千明ちあきだよ」


 そして、俺は春菜と三人で暮し始めた。

 春菜は、「私はちーちゃんの代わりだから。黒瀬くんが、ちーちゃんを忘れさせてくれる人と出会うその日まで、ちーちゃんの代わりで居させて」

 そう言って結婚を拒んだ。


「私に縛り付けたら、黒瀬くんが本当に結ばれるべき人と出会えなくなっちゃう」

 春菜は、俺が他の女と何をしていようと咎めるような事はしなかった。

「今お付き合いしている人はどんな人? ちーちゃんよりもいい人?」


 俺に抱かれながら、そんな事ばかり気にしていた。

「ちーちゃんが恋しくなったら、遠慮しないで私に吐き出してね」

 春奈の心配はただ一つ。最も優秀な千夏の代わりは自分である事。それだけだ。

 俺は千夏の幻影を追い、春菜に甘え続けた。


 やがて――娘が生まれ、俺は昔ほど千夏の事を思い出さなくなっていた。逆に春菜はよく思い出すようで、事ある毎に千夏の話をするようになった。子供らもにも、春菜はよく千夏の事を話していた。


 そのお陰か、千夏の記憶が薄れる事はなかった。

 ただ……俺が思い出す千夏の記憶が正しいのかは自信がない。春菜に聞いた事なのか……俺が覚えていた事なのか……。年を重ねる程に、よく分からなくなって行った。



 ◆



 病室の天井を見つめ、年老いた黒瀬は死の床で千夏の事を考えていた。

 生涯俺を縛り続けた千夏の記憶……それは常に春菜の声で語られる。

 千夏の言葉……それを語る声も、思い浮かべる千夏の仕草……千夏の笑顔……。


 それはらは全て、春奈だ。


 千夏の言葉は春菜の声で語られ、千夏の姿は春菜の姿で語られる。

 春菜は、いつからか千夏になっていた。春菜は、本当に千夏の代わりを努めたのだ。


 俺は、本当に千夏を愛していたのか……?

 いや――、違う。愛ではない。

 あの日、千夏が橋から落ちたあの瞬間――彼女は俺の心を道連れにしたのだ。死と引き換えに、俺の心を連れ去ったのだ。


 そっと握られた手の先に、春菜の姿があった。

「……」

 誰かの代わりなんて、そんな事誰も出来っこない。

 分かっていた。だけど、千夏に心を連れ去られたていた俺は……素直に春菜の気持を受け止める事が出来なかった。


 だから春菜は千夏を演じるしかなかった。千夏が連れ去った心を取り戻すには、そうするしかなかった。そして春菜は成し遂げた。


 俺が愛したのは……、愛しているのは春菜だ。


 もしも時を戻せるのなら……千夏の代わりなどではなく……もっと……もっとお前を大切に……。もっと……もっと幸せに……。

 吹き込んだ風がカーテンを揺らし、サイドテーブルに置かれた本を撫でた。


 闇を切り取ったような、黒い装丁の本――


 あれは……?

 風に煽られ、パラパラと捲られる本が――遠い記憶が呼び覚ました。


 黒い部屋――


 妙な女――


『お釣りは返せないわよ』

 彼女の声が蘇った。


 あれは……夢ではなかった……?

 あの時、俺は……。

 瞼が重くのしかかり、意識が――命が尽きるその時、彼女が耳元で囁いた。



「契約成立よ」



「――」



「――ぇ」



「ねぇ、亜樹!」


 携帯の画面に、千夏が写っている。

「千夏……」

「撮れた?」

 欄干に立つ千夏は眉を寄せた。

 振り返ると、不安げな視線を送る春菜の姿がある。


『貴方の人生と幸せ。本当に良いのね?』黒い部屋で交わした契約……。


「ちーちゃん危ないよ……」

「ねぇ亜樹、もう降りていいでしょ?」

 ああ……、春菜。誰よりも美しく、愛おしい……。

 こんなにも近くに居たのに、どうして俺は彼女に目を向けなかったのだろう……。今度は間違えない。

 春菜は困ったように眉を寄せ、助けを求めるように黒瀬へ視線を移した。


「ねぇ亜樹ってば! ……もう降りるよ!」

 大丈夫だ。もう俺はお前しか見ない。お前が居れば他には何も要らない。

 黒瀬の後ろで、突風に煽られた千夏の体が傾いた

 もうすぐ邪魔者は居なくなる。また一緒に、今度はもっと幸せな人生を歩もう。


 その時――時を巻き戻すように、千夏の体が欄干へ戻った。

「……」

 何故だ? お前はここで……。


『貴方の人生と幸せ――』


 そうか……引き換えに千夏を……。

「……見た?」

 目を見開き、興奮した千夏の声が響いた。

「ねえ、見た……? 今の……!」

 

 俺の幸せは、春菜と共にある……。


「ねえ! ねえってば!」


 お前に邪魔はさせない。


「ねえ! ……亜樹?」



 見開いた春菜の瞳に映る俺は、笑っていた。

2025/12/14微修正

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