記憶 黄金の旅 その五 占い師
占い師というのは妙な職業だ。預言者や巫女とは違って神の言葉を告げるわけでもなければ無料での奉仕もしない。あくまで見料をもらって、その報酬に対して客の質問に答えることを生業にする。
商売であるから対価を要求するし、手持ちも無く入荷の予定もない商品は売らない。即ち対価に見合った満足は顧客に与えなくてはならないし、その上で答えられない質問には答えられないと伝える。
この商売が難しいのは、顧客が何を尋ねたいのか自分でわかっていないことが多いということだ。例えば何の商売を始めれば金が儲かるのかと聞く者は少なくないが、これは質問ではない。元手がいくらあって、どれだけ何を何時買って、それをどこへどれだけ運びいか程で売るのか、その判断を自分でし、実行に移す気があるかどうかによって結果が異なるからだ。
占いをしてもらって、後は家で寝転がっていれば儲けが転がり込んでくる、そんな美味しい話があれば、市場の端にしょぼい天幕を張り、数オボルスからいいところ二・三ドラクマの見料を見込み、日がな一日待ち暮らしているなどという仕事を誰がするものか。
今日最初の客は家族と一緒に野菜を運んで市場へやって来た近郊の村の娘で、相談事は恋の悩みだった。同じ村の男二人から声を掛けられているのだが、どちらを選べばいいのかという質問で、報酬はくすねてきた南瓜一個である。
こういう悩み事にはまず話を聞いてやり、ものごとをはっきりさせる必要がある。そもそも女の婚姻には男から女の家に支払うべき婚資が必要であり、これがなければ話は駆落ちしかないが、その場合は男は女の家の資産を奪ったことになり、同じ村どころかこの近隣にもいられない。だが女の話ではどちらの男も二男・三男でそんな財産は無く、かといって何処かへ移り住む甲斐性も無い。これでは誰が聞いても巧くいくはずがないのだが、要するに女は男が欲しいのだった。
「婚姻をせずに男を作れば石打ちの刑だぞ」
「そんなことわかっています」
女は汚れて灰色になった頭被いの端をいじりながら答える。
「子ができたらばれずにはすまない」
「できないようにします」
声が小さくなり俯く。
「ばれたら石打ちだ」
「だから、ばれないようにするにはどちらの男にすればいいのか……」
「必ずばれるな」
「そんなこと……わからないじゃありませんか」
女は不服そうに下唇を突き出し、微妙に声が荒くなる。
「いや、選ばれなかった男が必ず噂を流す」
女は私の顔を睨み付け、それから南瓜を目の前の卓に叩きつけると、天幕の裾を蹴散らし、怒って出て行ってしまった。やれやれ、あの女は欲望に負け身を滅ぼすだろう。
「ルズさん、いったい何の騒ぎだね?」
昼餉を求めに天幕から顔を出すと隣の店から声がかかった。隣は金物を扱う小店で、地面に敷いた古絨毯の上に鍋釜や銅の壺などが並んでいる。勿論こんな場所であるから、新品より磨き直したり修理したりした中古の品の方が多い。値段は交渉次第だが、私のところの見料とどっこいどっこいな値で売れる品物がほとんどだ。店主は中年の男で太った女房と二人で店を開いている。
「いや、客に本当のことを言ってしまったら腹を立てたらしい」
「そりゃいけないね。女は耳障りの良い話しか聞きたがらない。本当のところなんぞ言ったら、おまんまの食い上げになろうってなもんさ」
店主は辺りを見回し、女房の姿が見えないのを確認してからそう言った。
「おや、こんなところにも同業者がいるとは知らなかったな」
「なあに、商いの上の世間話も占いも、似たようなもんじゃないかね?」
「こりゃ、一本とられたな」
そのとき私の裾を引く者がいた。同居人のアイシャだ。今年五歳の彼女は、何の用事もなければ勝手に市場の中を徘徊し、時々商売の種を拾ってくる。
「ルズ、お腹空いた」
「空いたな。今日は何を食べようか?」
「西通の屋台でアスベンとクスクスを売っていた」
「ほぉ、それはご馳走だな」
アスベンは羊の腸に米とハーブ、韮葱、羊の肉、レバー、心臓などを刻んだものを詰め、半刻ほど茹でてから、焼鍋か石竈で焼き上げる。これに付け合わせるクスクスは粗く挽いた硬質小麦の粉に水を含ませ、小さな粒になるよう捏ねたものを蒸し、先程の腸詰めを茹でた煮汁から油をすくってかけて出す。今日は金曜日なのでアスベンとクスクスの屋台が出ているのだろう。私たち二人は西の通りに向かい、店で大きな葉っぱの上に腸詰めを載せクスクスを盛ったのを買い求めた。
天幕に戻る道すがら、腸詰めとクスクスを半分近く腹に納めてしまったアイシャは私よりずいぶん早く食べ終わり、珈琲を入れるための湯を小さなコンロで沸かしながら、市場で聞き込んだ噂話を聞かせてくれる。その中にはひどく血腥い話や幽霊などの登場するいかがわしくも恐ろしげな噂もあるのだが、アイシャは平気で耳に入れそのまま話してくれる。
今日のは間男と姦通した女とが、はらわたを引きずり出されて処刑された話だ。町の大通りが交わる広場で行なわれたその処刑をアイシャは直接見たわけではないが、見たという男が話した内容を逐一説明する彼女の話は、まるで自分が見たように詳細に渡っていた。
「それで、大の字に縛りつけられた男の腹を処刑人が切り裂くと、男は叫び始めたんだって。きっと痛かったのね」
「それは腹を裂かれては痛かろう」
「それから処刑人は鉤の付いた道具で男の腹からはらわたを引きずり出して高く差し上げ、見物人に振り回して見せた。その間もずっと男は叫び続けていたってことは、まだ生きてたのよね」
「そうだな。死人は叫んだりしない」
アイシャは平気な顔だが、私といえば腸詰め料理を前にしてこんな話を聞かなければよかったと感じ始めていた。
「食べないの、ルズ?」
「ああ、もう腹がいっぱいだ」
「じゃあ、あたしが食べる」
アイシャは半分残った腸詰めに手を伸ばし、ムシャムシャと平らげた。
「それで、間男されたのは誰なんだ?」
「東の大通りのハッサン・アリ・アブドゥラだって」
「あの爺さんか」
「すっごいお金持ちなのよ」
「年寄りなのに若い女を妻に迎えると、そういうことが起こる」
ハッサンはもう六十を越している。若いうちは商売で苦労し、今では巨万の富を築き上げたが、子を成さずに連れ合いを無くし、跡を継がせる者がいない。後継者を作るつもりでだろうが、今年の春十六歳の妻を娶った。その結果がこの始末だ。女は若ければいいというものではない。
「何でばれたんだ?」
「駆落ちしようとして捕まったんだって」
「ああ、それはどうしようもない」
女も馬鹿だ。黙って隠し通して子ができれば、ハッサンの跡取りとして大事に育てられ、女の身分も安泰だったろう。ひょっとすれば、すべて承知の上でハッサンは姦通を黙認したのかもしれない。六十過ぎた男が子を成すのはなかなか難しいことだからだ。だが事が公になってしまえば、訴え出る以外彼のとる路はなかった。
「どうしようもないって?」
アイシャは専用の鉢ですり潰した珈琲の豆に、銅製の薬罐から沸騰した湯を注ぐ。しばらく豆の粒が鉢の底に沈むのを待ってから、砂糖が入った二つの茶碗に珈琲を注ぎ分けた。
「面子の問題だ。そのまま許してしまえば商売にも差し支える」
姦通を許すことは社会の秩序にも反する。訴え出ることは、神を信じる者の義務でもあった。だが何より、自分の権利を侵されても黙っている男という刻印を押されることは、ハッサンにとって致命的だ。珈琲を飲みながら、アイシャと私はそんな話を交わした。
「ルズさん、お客だよ」
隣の小店の主人が天幕の外から声を掛けた。私が外へ顔を出す間に、アイシャは天幕の反対側の裾をめくり姿を消す。外にいたのは中年の太った男だったが、顔色は悪く目の下には隈があった。
「あんたがエソスのルズか?」
「そちらはどなたかな、お会いしたことは無いようだが?」
「ザィードからあんたに相談しろといわれた。床屋のザィードだ」
ザィードという男は東の通りに腰掛け一つ置き、腰帯に挟んだ剃刀一本で商売をしていた。ゴマ塩頭でいつも露天で商売しているため、陽に焼けている。時々客を送り込んで来るので、その客が謝礼を払った際には心付けを渡していた。
「ザィードなら知っている。だが、あんたは?」
「アリ・ハーメッド・イマッド、ヘイダル通りに店を構えている」
ヘイダル通りは端に獅子の像がある大通りで、そこに並ぶ店はどれも大店ばかりだ。アリの店はは確か油屋、オリーブ油や胡麻油などを扱っている問屋である。
「なるほど、しかし何故私のところへ?」
「ザィードによるとあんたは良い助言をくれるそうだ」
「それが商売だが、まあお入りなさい」
私は後退り、天幕の中にそのアリという男を誘った。
小さな卓を挟んで円座に座り、それから男の様子を観察する。着ているものは大きな店の主人にふさわしいが、少し着乱れターバンまでいくらかずれている。天幕の中のランプだの星辰の掛け図だのを見回す様子も落ち着きがない。折角座ったばかりだというのに、今にも立って駆け出しそうに見えるほどだ。いい年した大店の旦那がこれだけ心乱れるとは、いったいどんな相談事なのだろう? だがそれを本人に尋ねては商売にならない。
私はおもむろにタロの札を取り出す。アリの眼が卓の上で札をかき混ぜる私の手に惹き付けられた。私は一枚の札を取り出して見せる。大アルカナの十七番目、星を現す札だ。
「あんたの悩みは奔放な若い女から生まれたものだな」
次に取り出した二枚は、五芒星の王と九番目の札だ。
「その女は非常な金持ちに嫁いだ」
大アルカナの十八番月と十五番魔王、そして剣の十番の札。
「だが欲望に負け貞節を失い、剣による無残な死を迎え」
最後の四枚は剣の三番、五芒星の四番と五番、それに大アルカナの十三番死。
「今、その父親をも破滅させようとしている」
アリの眼は大きく見開かれ、それから視線を落として俯く。指先を震わしながら卓の上の札に触れようとするが、触れる前に力なく引っ込められた。
「あんたの言ったことは、街の噂を聞けばみんなわかることばかりだ」
「どんな噂だね?」
「ハッサンに嫁いだ娘が姦通し処刑された、あわれな男アリ。それがわしだ」
「娘さんの悲惨な死だけではまだ終わらないと?」
「水に溺れかけた犬は石で打たれるというではないか! 奴らはまだわしから毟り取ろうというのだ!」
「どうやって?」
「アミラの婚資を返せというのだ。三十タラントだぞ! それでいてあれの寡婦財産はハッサンの物だという。強欲過ぎるだろう」
一ドラクマは六オボルスだが、百ドラクマで一ミナ、そして六十ミナリで一タラントである。場末の下働きなら一日の労賃が一ドラクマでもおかしくないことを考えると、三十タラントは婚資として破格すぎると言える。
「いくら歳の差があるとは言え、ハッサンも随分張り込んだものだな。大店の店一軒丸ごと買い取れる金額だ」
「あいつに三十タラント返せなければ、わしの身代もろともあいつのものになってしまう」
「返せばよかろう」
「それができないのだ。その金は来年のオリーブ油の買い付けに、ほとんどつぎ込んでしまった」
アリの話では、オリーブというものは何年かおきに不作と豊作が巡ってくるものだそうだ。ただ他の場所では不作の年に、豊作になる地方というのがあって、その地方のオリーブを予め買い占めておけば当然高値で売れ、莫大な利益を得ることができる。今までは資金が無くてできなかったが、この度はハッサンから得た婚資で大部分の畑の収穫を予め買い取ることができた。だがオリーブの収穫は来年であり、当然現金は手元に無い。ハッサンに要求された三十タラントをそろえるなど、とうてい無理なことだった。
「なんだかきな臭い話だな。その買い占めの計画を誰かに話したことは無いか?」
「そう言えば、アミラとの婚約の話が出る前に、ハッサンには話したような気がする。資金が無いばかりに、実現不能な儲け話として……」
「金を借りるつもりだったのか?」
「ああ、何しろ身代を倍にするチャンスだったからな」
だが何の義理も無い間柄で貸してくれるわけが無い。何故なら相手が異教徒ならばまだしも、同じ砂漠の神を信じる者同士では利息を取ることが許されないからだ。そういう意味ではアリは、娘のアミラを形に金を借りたようなもので、姦通という形でその値打ちが失われた今、婚資を返せというハッサンの言い分も納得できるものだった。
「はめられたのかもしれんな」
「だがどう証明すればいい? それに町の法務官もハッサンの味方だ。娘が駆落ちなどしなければ、こんなことにはならなかったと言われればそれまでだ。庭師の息子と一緒に逃げ出すなど……妹たちを路頭に迷わす結果になることがわからんかったとは思えんのだが……」
聞けばアリには、アミラの他に十五と十二の娘がいるだけだという。本来であれば婿をとって跡継ぎを生ませなければならない長女を嫁に出したことからも、いかにこの買い占めにこの男が賭けていたかがわかる。だが結局、それが裏目に出たわけだ。
「さて、ここからは無料と言うわけにはいかん。手付けに百ドラクマ、その後あんたが返す金額が十タラント減るごとに成功報酬として百ドラクマもらおう」
「それでは全部で四ミナリにもなる」
「身代を全部失うのと、どちらがいいかね?」
結局アリは百ドラクマ置いて天幕から出て行った。ザィードから相場を聞いて用意して来たに違いない。成功報酬を値切ろうとしたので、それでは引き受けないと脅したら泣く泣く証文を書いた。他に頼むあてがあれば私のところになど来るはずがないのだった。
天幕を出た私はザィードのところへ寄り、五ドラクマ渡す。奴が取る床屋賃は普通一オルボだから、悪くない儲けだろう。ついでに奴から街の噂話を仕入れる。
「法務官とハッサンがつながっているというのは本当か?」
「袖の下をもらって、今までも便宜を図っているって話で、今度のことも言わずとも知れたこってしょう」
「ハッサンてのはそんなに悪い奴か?」
「それがそうでもないんで……」
ザィードによると、資産家の義務とも言える貧者への施しも度々するし、礼拝堂への寄付もする、商人仲間の評判も悪くない、決して悪徳商人などと呼ばれるような類の人物ではないと言うのである。
「では今回のことはたまたまか? 姦通されたことへの腹いせに過ぎないのか?」
まあ、ハッサンにしてみれば跡継ぎを生ませるはずの女は他の男と通じて処刑されてしまう。巨額の婚資は返って来ない、では散々と言う他ない。客観的に見れば金を返せと言いたい気持ちもわかるというものである。
街の噂は風より早いと言うが、油商人のアリが背負いこんだ面倒事の処理を私が引き受けたという話は、瞬く間に広がった。だからその日の夕刻、私が店を畳もうとしている頃には、もう訪問者があった。
上背がかなりあって坊主頭、肩から腕から筋肉が盛り上がっていかにも荒事師という外見だ。駱駝色のズボンに皮の腹帯を巻き、裸の上半身に皮のチョッキを着ている。これで大包丁を持たせれば屠殺人と言えないこともないが、潰れた鼻や千切れかけた耳を見れば職業的な格闘家だということがわかった。要するに暴力を生業としている輩である。
「おめぇがエソスのルズけぇ? 俺は気が短いから手短に言う。アリから頼まれた件から手を引け」
「おや、何を占って欲しいのかと思えば、随分なご挨拶だな。お前さんこそ他人の商売に口を差し挟まない方がいい。でないと痛い目を見るという卦が出ておる」
「な、何だとぉ!」
「まあ、まあ、まあ、ちょっとお待ちなさい。親分も、今日は穏やかに話すように言われてきたでしょう」
坊主頭の陰に隠れていたので子分だとばかり思っていた男がしゃしゃり出てくる。『親分』と呼ばれた坊主頭は目をキョトキョトさせて口ごもった。
「俺は……その」
「まあ、親分悪いようにはしませんから、親分の顔は立てますから」
後から出てきた男はどう見ても街の訴訟ごとに口を挟んで金をかすめ取る類の商売をしている三百代言、黄緑色の長衣をひっかけて先の尖った靴などを履いて、顎鬚の先まで尖らせている奴だった。
「さて、ルズさん、ここに百ドラクマ持参しました。これを受け取って今回の件から手を引いて下さい」
「そいつは聞けないな。もう手付けを受け取ってしまったんでね。私も商売上の面子というものがある」
「なるほど、ではもう百ドラクマ上乗せしましょう。これで依頼主に手付けの百ドラクマ返せば面目も立ちましょう」
「あんた、誰に頼まれて来たんだ? 嫌だと断ったらどうするつもりだ?」
「断らない方が身のためだと思いますよ。それに、依頼主の秘密はお互い守らないとね、ルズさん」
「生憎、引き受けた仕事はやり遂げるのが私の宗旨なんでね」
「後悔しますよ、ルズさん」
三百代言風の男はそう言うと坊主頭を促し、立ち去って行った。
少し遅れて家路につく。と言っても帰る先は場末の木賃宿だ。いつもだったらアイシャが一緒なのだが、さっきの騒ぎのせいか今日は姿を見せなかった。
最近ちょっとした揉め事があった一本小路に差しかかった時、前の薄暗がりから二つの人影が姿を現した。よく見ると大きい方の人影は何か動くものを抱えている。
「やあ、ルズさんまた会いましたね」
あの三百代言風の男が口を切った。
「こんな暗がりで私に何の用だ?」
「さっき言い忘れたことがありましてね」
「何だ?」
「月夜の晩ばかりじゃないってことですよ」
「ほう、私をどうにかできるとでも?」
「どうですかね? 親分!」
そのとき大きい方の人影、あの坊主頭が抱えていたものから片手を離した。それまで口をふさがれていたのだろう、半分悲鳴のような声が発せられた。
「ルズ! ごめんなさい!」
アイシャの声だった。三百代言風の男は短刀をスラリと抜き、アイシャの喉に突きつけた。
「さて、どうしますかね? あの件から手を引いてくれるでしょうね」
「嫌だと言ったら?」
坊主頭はアイシャを男に渡し、私に向かってこようとした。二人の目が私の方に向いたその隙に、アイシャが紐で首から下げた小袋を懐から引っ張り出す。素早く紐を解くと、袖で自分の眼を被いながら、アイシャは袋の中味を二人の男の顔に向かって投げつけた。
ギャッというような声を上げ、二人は顔を掻きむしりながら地面を転げ回る。私は息を止めて、素早くアイシャの身体をすくい取り、離れた場所まで運んだ。
「息を止めていたか? 粉を吸い込まなかったか?」
そう聞くと、アイシャは黙って頷いた。
「宿へ帰って手を洗うまで、顔を触るんじゃないぞ」
もう一度頷く。私はまだ顔を掻きむしっている二人の方へ近づき、様子を伺いながら言った。
「帰って水でよく顔を洗うんだ。運がよければ、三日もすれば目が見えるようになるだろう。これに懲りて、小さな女の子をかどわかすような真似はやめるんだな」
そうは言ってもこの辺りは不用心な裏小路だ。月夜ではないのだし、目の見えない二人が無事に帰り着ける可能性は薄かった。
宿へ帰ってアイシャに事情を聞くと、私に言われた通り私が油商人のアリから仕事を請け負ったという噂を流している最中に、あの二人に捕まったのだという。
「それは、危ない目に合わせてすまなかったな」
「ううん、捕まったあたしがドジだったの。迷惑かけてごめんなさい」
「アイシャは二人とも自分でやっつけたじゃないか」
「ルズにもらった目潰しのおかげよ」
前に一本小路で襲われた後、アイシャの護身用に持たせた目潰しが今回役に立ったというわけだ。それにしても何と言う胆力だ! 大の大人でもあんな風に落ち着いて対処できるものではない。私は改めてアイシャの勇気に感心した。
私が東の大通りにあるハッサンの屋敷を訪れたのは次の日の午前中であった。玄関に出てきた召使は、裾のほつれた私の長衣や薄汚れたターバンを見て鼻先で扉を閉めようとしたが、私は相手の胸を突いて中へ押し込んだ。
「ご主人にエソスのルズが来たと伝えろ」
私がそう言って召使に顎で屋敷の奥を指し示すと、奴はあわてて逃げ込むように姿を消す。しばらくすると贅沢なガウンに身を包んだ恰幅のいい男が現れた。髪や髭は真っ白だが、まだまだ衰えてはいない男振りだ。
「わしに何の用だね、エソスのルズさんとやら?」
「用があるのはあなたの方ではないのかな? 昨日使いの者が私を訪ねてきたのだが」
「はて、心当たりが無いが」
「ヘイダル通りのアリにも心当たりが無いか?」
「アミラのことなら話は別だ。アリに頼まれて来たのか?」
「今さら結納金を返せとは無理難題ではないかな」
「姦通し駆落ちするような娘にそれだけの価値があると思うのか? 価値の無いものを高額で売りつけるのは騙りというものだ。結納金の返済は法務官の裁定でもある。不満であれば宗教裁判所に上告することもできるぞ」
宗教裁判所が姦通した娘の父親に味方するとは思えなかった。
「旦那様、お下がりください。その男は危険です!」
ふいに横手から声が掛かった。姿を見せたのは中肉中背の若い男で、身なりから考えるとハッサンの家の召使頭か番頭といったところだろう。顔色を変えて主人と私の間に割って入ろうとするその男を、ハッサンが静かに制した。
「マジッド、どうした? この男がどうしたというのだ?」
「お許しください、旦那様。実は昨日この男の元へ、ラシドと代言人のサルマンをやりました。穏やかに話し合ってアリの件から手を引くよう説得するようにと言いつけ、三百ドラクマ持たせたのです。ところが今朝方、その二人が喉を切り裂かれ、身ぐるみ剥がれて見つかったという知らせが届きました。私が身元を確かめにまいりましたが、ラシッドとサルマンに間違いありませんでした。この男の仕業に違いありません。この男は人殺しです。旦那様が話をするような相手ではございません」
どうやらラシドとサルマンはその三百ドラクマを懐に入れるつもりだったようだが、アイシャに目潰しを食らった後で物取りにでも会ったのだろう。気の毒なことだが私には関わりがない。
「先程も言ったように、その二人らしい男たちなら昨日市場の私の天幕を訪ねてきた。だが、話し合いがつかずに帰って行った。金はもらっていないぞ」
私がそう言うとハッサンが尋ねた。
「その二人を殺したのはお前ではないと?」
「違うとも。私が殺したのでないことは神がご存知だ」
「ではいったいお前は何をしに来たのだ?」
「アリに代わって交渉しに来たのだ」
ハッサンの顔が引き締まり、内心を表さないで交渉にのぞむ商人の表情になった。
「こちらから支払った婚資を返してくれればよい。これは法務官も公正と認めた要求だ」
「寡婦財産は?」
「アミラは離別することなく死んだのだ。寡婦財産は当然わしのものだ」
「離別しなければ婚資を返す必要もなかろう」
「姦通するような女に三十タラントの価値は無い」
「代金を返せというなら、商品も返すべきではないのかな?」
「アミラを裁いたのは神の法であり、わしではない。アミラは神の手にあるのだから、返してほしければ神に要求するがいい」
この様子では法務官ばかりでなく他の法学者たちをも抱き込んでいるに違いない。私は攻め口を変えることにした。
「アリには今、三十タラントもの返済能力は無いぞ」
「では奴の財産すべてを弁済にあててもらうことにしよう」
「それがあんたの良い評判につながるとは思えないのだが」
「ではどうすれば良いと思うね? 少なくともわしは虚仮にされて黙っている様な男ではないぞ」
僅かに見えた眼の光から、ハッサンにとってこれが問題の核心であることを私は読み取った。つまり面子の問題なのだ。ハッサンにとって三十タラントはたいした金額ではないのだろう。だが寝取られ男と謗られ、無駄に婚資を騙し取られたと評されることには我慢がならないというわけだ。
「アリにはあと二人娘がいる。上の娘は今年十五だ」
砂漠の律法では女は十四歳で結婚することができ、上の娘は婚姻適齢期と言えた。
「アミラの代りにその娘をアリが差し出せばあんたの面子も立つだろう」
「婚資無しにか?」
「当然だな」
ハッサンはしばらく考え込んだ。奴が慣れない油問屋の経営に手を出しても直ぐに利益を上げられるとは限らない。かと言ってアリの身代を売り払って、三十タラントの元が取れるかどうかも微妙なところだ。私には奴の迷う心が手にとるように伺い知れた。
やがて腹を決めたハッサンが私の眼を睨み付ける。
「この話、アリは承知しているのか?」
「いや。だが承知する他は無いだろう」
「なるほど」
「ただしアミラの寡婦財産はその娘のものだ」
「よかろう」
私はこうしてアリの依頼を達成した。三十タラントは返さずに済むのだから残り三百ドラクマも私のものだ。アリにはもう一人娘が残っているのだから、その娘に婿を取ればよかろう。
占い師というのは妙な職業だ。預言者や巫女とは違って神の言葉を告げるわけでもなければ無料での奉仕もしない。見料をもらって、その報酬に対して客の質問に答えることを生業とする。商売であるから対価を要求するし、対価に見合った満足は顧客に与えなくてはならない。
ただしその結果は、顧客が最初期待していたような答えになるとは限らない。占い師はあくまで顧客が尋ねた問いに答えるだけだからである。
「記憶 黄金の旅」シリーズ五作目、今回も『マルタの鷹』へのオマージュです。ハメットにはぜんぜん及んでいませんが、ハードボイルドには憧れがどっかあります。いろいろとご意見お聞かせください。