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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

コンプレックス・ネーム

作者: 鴉城カホリ

 

 お父さん、お母さん、あなたたちからせっかくいただいた名前だけど、俺、この名前が嫌いになりそうだよ。


 鷺野透は、憂鬱なため息を口から吐き出しながら自分の名前に対する二十四年の人生で、これまた何百回目かになるうんざりを覚えた。

 そもそも透とはとある有名な野球チームで活躍した人の名前で、その選手が活躍した当時を知る野球ファンであればぜひともわが子に名前を……と思うらしい。考えることはみな同じ。

 透は小学生、中学生、高校と同じ名前の人間にいつも遭遇しては、憂鬱な思いを味わった。


 今日も今日とて、いつも感じる名前に対するコンプレックスに苛々と泣きたいほどの情けなさを覚えた。

 まだ大学生である透は、アルバイトで翻訳の仕事をしている。そこで同じ歳ですでに編集の仕事をしている「トオル」という名の人に遭遇した。ちなみに名前の漢字は「達」と書くそうだ。

 名前が被ったときの常套句

「あなたも父親が野球ファンで……?」

 名前の由来を語り合うのだが、このトオルくんの父親は野球ファンでも、わりと洒落た人だったらしく、同じ名前でも漢字は別のものに、ということで「達」。物事を達成することのできる名前にしたそうだ。

 なんとなく、その地点でただファンだから、そのまま漢字も同じにしたという透から見れば負け感が半端ない。

 それも同じ年で、すでにばりばり働いていて、その名前に見合う大人ぷりにめためたにされた気分だ。

 一回、浪人して、その挙句にホモだし、俺。

 自分でもここまで卑屈になることはないだろうとキーボードをぽちぽちと打ちながらため息をつく。

 いや、この二十四年のコンプレックスに、最近は拍車をかける相手がいるせいだ。


「ただいまー」

 帰ってきた。

 透はあえて知らない顔をしてキーボードを打ちならし、仕事に集中してます、の態度を作る。すると、帰ってきた相手はそれがわかっているのにかもかかわらず、後ろから抱きついてきた。

「ただいまー、トール」

「う、おっ……お、おかえり。真田さん」

 抱きしめられて驚いて手が止まる。付き合って二週間だが、真田は透の性格をよくわかっている。集中しているときはこうでもしないと現実にもどってこないのだ。

 どきまぎしながら首だけ動かして、真田を見る。

 整えられた顔、すらりと伸びた鼻先、涼しげな眼……今、翻訳している中世時代のロマンス小説のヒーローみたいにかっこいい。

 今のところ、真田は剣と鎧を身に纏わないかわりに、スーツを着て、鞄と笑顔を武器に毎日、炎天下の中を会社という怪物相手に戦っている。

「……名前は?」

「え」

「名前を呼び合おうよ。そう言ったじゃん?」

「同棲って、ただ、ここ、逃げ込んだだけだし」

 クーラーが壊れて、このままでは蒸されて死ぬと泣く透を気前よく、そして素早く自分の部屋に押し込んだのは真田だ。

 部屋でクーラーをがんがんかけてもいいが、そのかわりに家事の一手を引き受ける。まだ付き合って二週間で同棲をするなんてはじめてで、めんどくさいかもしれないと思いながらもクーラーの魅力に抗うことができなかった。

「……トール?」

 尋ねる視線にどきまぎして視線を逸らした。この地点で自分の負けは決定したようなものだ。

「……トオルさん、おかえりなさい」

「うん、よしよし」

 にっと機嫌よく笑ってトオルさん――真田透が笑う。

 読みも漢字もすべて同じ。ちなみに真田のほうが、四つ年上だ。しかし、名前の由来にしても

「うちの父親が野球選手の西透のファンでね」

 とすべてが同じなのだ。

 このときほどに、透は野球と、そのファンの単純思考を憎んだことはない。

 恋人と同じ名前なんて、それも漢字まで……どれだけややこしいんだよ! 

ちなみに真田は目下透のコンプレックスで、憂鬱の原因だ。


「ごはんは?」

 後ろから抱きしめたまま尋ねられて透は困惑しながら答える。

「冷やし中華作ったといた、冷蔵庫にあるから、とってくるね」

「いいよ、いいよ。キリのいいところまで書いちゃって。用意だけなら出来るからさ」

 そういって立ち上がる真田に透はため息が漏れる。

 強引だが、触れてはいけないところまでは触れない。さっと飛び立つ鳥のようにあとを濁さない。

 パソコン画面に向かうふりをしながらちらりと横眼で彼の背を見つめる。

 いい男だよな、真田さんって……

 顔もそうだが、性格だっていい、すらりと伸びた背丈に、スーツをきている姿は仕事ができる男だと体全体で言っているようなものだし――実際仕事も出来る人だと思う。


 透が真田に出会ったのは、二週間前の、ゲイ専用のバーだ。

 その日、こっぴどく失恋して、ヤケ酒を飲んで、カウンターで管を巻いていると、横に真田がやってきた。

「ひどい飲み方だね。お酒がかわいそうだ。ほら、これで勘弁してあげなよ」

 そういって最後の一杯といってビールを奢ってくれた。

 笑顔と言葉に毒気を抜かれ、相当酔っていたのも手伝って素直に頷いた。

 酒の威力とともに彼の気の抜ける笑顔に今まで張り詰めていた糸がぷっつんと切れ、意識を手放した。


 翌朝、隣に昨日のビールを飲んだ相手がいたのに正直、驚いた。今までハメを外してしまうことは何度もあったが、気が付いたら知らない人が隣にいた、という経験ははじめてだった。

 貞操観念が低いゲイであるが、透は自分でもそこまでお手軽な人間だとは思っていなかった。今までは……俺、すごくお手軽かも。

 あまりの現実に頭を抱えて、自己嫌悪に陥っていると、相手がもぞりと動いたのに狼に食わそうなウサギのごとくその場から慌てて逃げた。

 もう会うことはないだろうと思ったが、再会はその日のうちに訪れた。

昨日のことも気になって、バーに顔を出してママに聞こうと思ったのだ。むろん、要件が済めばさっさと逃げ出す気満々だった。

幸いにも彼がいなかったのとママがずいぶんと親切にしてくれたのにカウンターに腰かけて、あれこれと聞いていると、ぽんと肩を叩かれた。ぎょっとふりかえると、昨日の彼がいたのだ。

「な、なんで」

「ママにお願いしておいたから」

その言葉に驚いてママを見ると、にやりと笑って親指と人差し指をあわせて円を作った。

 つまりはお金をいただいて、売られたのか、俺は。

 あまりのことに唖然として、罠にかかったウサギよろしく怯えきている透に彼は笑った。

「昨日のこと覚えてる?」

「いえ」

「じゃあ、はい。名刺、真田透っていうんだ」

「え」

「同じ名前で、ついでに漢字も同じだよ。透くん」

 にやりと笑う真田に、自分は酔いに任せてどこまでしゃべったのか曖昧な記憶では怖いと思いながら、いい男だとつい見とれたのも真実だった。

 昨日、自分はあらかたのことを真田に語っていることが判明してまたしても奈落に落ちるような自己嫌悪にとらわれた。

 幸いだったのは真田がさっぱりとした性格だったことだ。

「同じ名前ですね、けど、真田さんのほうがいい男だし、え、高学歴で、エリートなんて、うわ、自己嫌悪とコンプレックスが刺激されるぅとかいいながらがんがん飲んでたよ」

 笑顔でそんなことを語られて顔から火が噴きだしそうだった。

「それで彼氏は透という名前のやつに浮気したとかも聞いたよ」

「ひ、ひいいい」

「じゃあ、君、フリーなんだよね」

「は、はいいい」

「あははは、面白い。俺たち付き合おっか」

 あまりにもあっさりと提案するのに思わず「ひゃいいいい」と返事をしてしまい、それを承諾と受け取った真田は本当にすごいと思う。


 実際、真田透はすごい人だった。

 名門のS大学の出身、これまた誰だって名前を知っている大手企業の企画部の主任をしている。いつもさっぱりとしたスーツに、笑顔、整えられたさらさらの髪の毛、高校時代は野球をたしなんでいたとかで身体は引き締まっているし、甘いコロンの香りはそばにいるほぉと意識が酔ってしまうほどに魅力的だ。

 こんな相手と恋人になると思うと眩暈がした。

 素敵するというのもそうだが、その分、同じ名前が自分のコンプレックスを刺激する。

 二十四年、この短いけれども長い人生で出会った「透」の名を持つ人たちは、なぜか自分より優秀な人材が多かった。――決して自分の能力が低すぎるということはないと、信じたいのだけども。

 名前の大本である野球選手の透さんにあやかり、見事にその恩恵を受けたのか、はたまた親がよかったのかはわからないが。

 小学のときに知り合った透くんは出来過ぎるほどに優等生だったし、中学生のときの透くんは野球でエース、高校の透くんは生徒会長、大学に知り合った透くんは可愛くて、口説きたくなる子――恋人を思いっきり盗られた。

 本日知り合ったトオルさん――達さんは――同じ歳にして、すでにばりばり働いている。浪人して、今も大学に行きながら、ひーひーと叫んで翻訳のアルバイトをする親の脛をかじりの自分とは天と地の差だ。


 仕事に区切りをつけて、今日のすごい達さんの話を中華めんをすすりながら披露すると、真田はからからと笑った。

「うわ、またコンプレックス刺激されてる」

「……ええ、まぁ」

 付き合いだして二週間とはいえ、単純思考の自分のことを真田はすでにしっかりと把握している。達さんの話をはじめただけで、それが愚痴と羨望であること、コンプレックスを刺激されていることをすべて理解されてしまった。

それを笑って聞き流せるのはすごいとも思う。

 同じ名前なのに……

 名前のことを考えるとまたため息が出てきそうになる。それを麺と一緒に飲み込んで咀嚼し、ごっくんと腹に返す。

「トールは、本当にコンプレックスの塊だねぇ」

「真田さんたちがすごすぎるから」

「あー、また、名字になった。ここにいる間は名前呼びね」

「う……わかってる、よ」

 クーラーが直るまでは一緒の家にいていいけど、そのかわり家事と名前を呼ぶことは絶対と約束させられてしまったのだ。

 同じ名前で名前を呼び合うなんて変じゃないかと抵抗したが、恋人同士だといわれるとぐぅの文字もでない。

 ただ同じ名前を呼び合うのは、どうもはずかしい。そのため打開策として出たのが名を呼ぶとき、少しばかりイントネーションを変える、ということだ。

 真田は透のことをトールと間延びして呼ぶ。かわりに透は真田のことをトオルと語尾をあげるようにした。

 それでもやはり自分で自分の名前を呼んでいるような感覚に陥り、なんともいえない気分になる。

 真田はその辺は気にしないのか、トオルと呼ばれるたびに喜んで、トールと呼ぶ。

「けどさ、それは別にさ、名前だけのせいではないと思うんだよね」

 う、そのとおり。名前だけで能力が決定するはずない。生まれた親とか環境とか、本人の努力があることは知っている。

頭でわかっていても、心がついていかない。

「俺が今まで出会ったトオルって名前の人たちはすごすぎるんだよ」

「ふーん。けど、トールだってすごいじゃない」

「俺が」

 一浪して、その上、小遣い稼ぎともいえないアルバイトをしている引きこもりが――?

「だって、翻訳の仕事してるじゃん。それ、本屋にならぶんだろう?」

「ま、まぁ……けど、これは本当にピンチヒッターとしてだし」

基本的に透は専門家の書いた、用語いっぱいのレポートや論文の翻訳をすることが主だ。それが大学が夏休みになったことをついぽろりと漏らすと、月三十冊を出す海外ラブロマンスの本を扱うララの編集長の耳にどうして入っていて、この原稿を無理やり頼まれたのだ。

 なんでもいつも仕事をしてくれている人が高熱を出してしまい、締め切りまであと一週間しかないのだという。

 レポートや専門書と違うので無理だといったが、押し切られてしまったのだのが現状だ。

 翻訳の仕事といっても、ただ単純に外に出たくないという気持ちが強くて引き受けているだけだしな。

 どうしてそういうマイナス面に真田は目を向けずに、笑っていい面として受け取ろうとするのだろうか。

「出来たところ読んでもいい?」

 食べ終わった食器を片づけ、流しでせっせっと食器を洗っていたのにおもむろに真田がパソコンのスイッチをつけはじめたのには焦った。

「え、ちょ、ちょっとぉ」

「どれどれ」

「わー」

 やめてくれー。

 自分で書いたものではないが、いたたまれない。

「『リラは、それは美しい娘で、オスカーはため息を零しながらその白い肌にむしゃぶりつき』」

「音読すな!」

 タオルで手を拭いながら駆け寄ると、その頭をぺしっと叩く。

「なんでー、せっかくの濡れ場なのにー」

 むぅと唇を尖らせる真田に透は真っ赤になった。

ラブロマンスものは不思議なくらいセックスシーンが多い。今日はちょうど、そのシーンを書いている真っ最中だったのだ。

 この原稿をはじめてから毎日、毎日、飽きもせず、人の翻訳した文を読む真田に本気で困る。とくにこんなシーンを読むなんて!

 文節が悪いということもわかって助かるには助かるのだが、今回だけは勘弁してほしい。

「それに、この毛ってなに、毛って」

「そうやって本文にかいてあったんだよ」

 むすっとして原本を渡すと、真田はああと頷いた。

「陰毛ね」

「そこまでさらっといっていいのかわかんない」

「けどさ、きらきらと輝く森っていうのも、おかしくない」

「うっさい」

「前、城のことを日本のお城みたいにかいてたもんね。宮とかかいちゃって」

「うっさい、知識ないんだからしゃーないだろう」

 真田に読んでもらって助かるのは、透に悲しいほど欠落したこの歴史的時代背景、その他の用語に対する知識だ。

 一応本は読むが、こんな耽美系なんて読んだためしがないため、つい頭を抱えた。時代背景もろくにわからないのでへんな単語が飛び出して内容がめちゃくちゃになる。それを真田は丁寧に読んでなおして、感想までくれる。最高の読み手かもしれないのだが、素直に感謝できない。 

「ちょ、もういいだろう」

「いやいや、すごい情熱的なシーンだし、リラっては処女なのにはしげー」

「あー!」

 思わず叫びあげると、片手をとられて真田の胸のなかにすっぽりと抱きしめられて、額にキスをされる。

「ちょ、なに」

「いや、恋人がこれを書いてると思うとどきどきする。それももしかしたら妄想とか膨らませて、一人で俺のことを考えて、こー、しこしこと」

 ぺちっと額を叩いて透は真田を睨みつけた。

「そんなことしてません。どきどきも、はぁはぁも、しこしことも!」

「えー」

 あからさまに不満な声に透は唸りあげる。

「はは、けどさ、すごいよ。トールは、こういうのちゃんと形に出来るんだから」

 笑顔で手放しの賛美されて悪い気はない。そのままいくつものキスが落ちてくると、ああ、もうと透は心の中でため息をつきながら真田を抱きしめるのだ。


 幸せは長く続かない。

 同棲すると相手のいやなところが見えてくる。とはよくいうものだ。

真田について透はさしていやだと思うところはない。たしかに洗濯物そのままだとか、脱いだ靴下は裏表が反対だとか、ゴミだしはしないとか、ささいなことは目についても、それは全部自分がすればいいことだ。

 それでも小さな苛立ちが、一日中原稿に向かっている鬱憤からまるで大波のようにやってきては、心を落ち着かなくさせる。ああ、もうイラつく。

 その苛立ちの最大の原因は、真田の帰りが遅いということだ。

「夏はいろいろとイベントが重さなるからね」

 弱り切った顔で言われると、反論の隙間なんてない。

 仕事だとしたら仕方がない。

顔を合わせるチャンスもない――泊まり込みはしてなくて、ちゃんと帰ってくるが、朝起きて、原稿をしていると、どうしても夜に疲れが出てしまって起きているのがつらい。一度起きていたが、真田は驚いた顔をして迎えてくれた。喜んでくれるかと思ったが、呆れた目をして

「待たずに、寝なよ」

 そう言われてしまった。

 作った料理には手をつけずに、――仲間と食べてきた――女ものの甘いコロンの匂いをさせて風呂にはいって、寝てしまうのに無性に空しくなった。

 真田にとっては待たれるというのは嬉しいことではないらしい。

 小さな理解が深まるたびに、自分の気持ちがないがしろにされているように感じてしまう。

 だから原稿に向かうことにした。このちくしょうめ。胸板がいいだ、毛があるだろう、小鳥のさえずりだ、お前の愛は月のようだ、アホか!

 甘いラブロマンスが少しだけ嫌いになりそうだ。現実なんてまったくうまくいかない。あ、だからこういううまくいくお話がみんな好きなのか。


 ■


「ねぇ、食事行きませんか?」

「は?」

 申し出に、透は目を丸めた。

 目の前にいる同じ読み方でも漢字は達というかっこいい、仕事のできる彼が微笑んでいる。


 仕事は本来、メールでのやりとりを一貫している。が、はじめてのラブロマンス小説の翻訳、真田の助けもなくったのに、どうすればいいのかと迷い迷って助けてメールを達に出したのだ。彼はすぐさまに資料となるラブロマンスの本、用語の本を片手に携えて、わざわざ会いに来てくれて時代背景についてもあれこれと解説もしてくれた。それだけでかなり助けられて、寂しさに勝てなくてしょっちゅうメールして、気が付いたら原稿も手渡しするようになってしまった。

 近くのカフェで、お茶を飲みながら一息ついての申し出は、原稿からの解放感も手伝って、つい、頷いてしまいそうになる。

 頭のなかでは、真田のことが掠めたが、今日もきっと仕事なんだろうことはわかっている。原稿も終わったし、そろそろ家から出ていってやろうか。だって、また靴下、脱ぎぱなしだったし。

「いいですよ」

 応じながらも、一応メールをいれておいた。仕事の相手と食事。それだけのそっけないもので、携帯電話の電源を切っておいた。今日だけは俺だって楽しんでやる。


 意気込みがよかったのか、それともエスコートしてくれる達がよかったのか、連れてこられたわざと暗くされた室内、それぞれのテーブルにしきりが置かれて、個室のようになっていて周りに気兼ねすることない。

料理も絶品。達は話題も豊富で、気遣ってくれていて、本当にいい人だ。

 それが透のコンプレックスをじわじわぁと水で浸すように刺激する。それにくわえて今日は真田のこともあって胃がきりきりした。楽しもうと思ったのに、ちっとも楽しめない。どうしても真田の顔が浮かぶ。けど、今日だって相手は仕事が忙しいだろうし。言い訳をつらつらと重ねて、また自己嫌悪。

「楽しめませんか?」

 達にそんな気遣いをされてしまい、ますますコンプレックスが刺激される。俺ってだめなやつかも。

 そもそも、こんなにも気になるならこんなところに来るんじゃなかった。

 寂しいさからあてつけてしまったが、ちっとも楽しくない。

 自分の浅はかさが呪わしい。


 結局、腹を満たしたが、それのほとんどは自己嫌悪によるもので、あまり食べ物がのどを通らなかったし、途中から味もぜんぜんわからなくなってしまった。達にはさんざん心配され、自分の小心者さがとことんいやになった。

 自分の家に戻ろうか、真田の家に戻ろうかと考えて、パソコンを置いてきたことや真田の顔が見たくなったのに猫のように抜き足差し足でマンションに戻り、合鍵を使って中に滑り込むと、なぜか暗かった。もしかして、真田はまだ戻ってないのかと思って電気をつけて寝室にいくとベッドに黒い塊があったのに目を見張った。

 でっかいゴキブリ?

 そう思ったが、違った。

 縮こまった人間、それもスーツ姿。

「トオル?」

 ベッドの上にいるそれが動いた。

「スーツ、皺になるよ」

 返事はない。

 どうしよう。

「トオル?」

「トールは、どこにいってんだよ」

 拗ねた声に目を丸めた。

「えっと、食事……メール、したよね」

「みたよ。家帰ってたら、いなくてさ。俺一人じゃん」

 子供みたいな言葉にますます目を丸める。

「トオル、もしかして、落ち込んでる?」

「寂しかったんだよ。ものすごく寂しかったんだよ」

 丸まったままの抗議に不覚にも可愛いと思ってしまった。今まで心に芽生えていた苛立ちや寂しさがどんどん萎んでゆくのが分かる。そっか、俺だけじゃなかったのか。

「なのに、トールはいないしさ、俺、がんばって仕事終わらしたのに。ごめんねのケーキも買ったのにさ」

「ごめん」

「……本当にそう思ってるわけ」

「思ってるよ」

 またしても沈黙。

 これは行動で示せということか。

 その場に腰を降ろして、ぽんぽんと膝を叩いた。

「おいでよ、トオル」

 その声にがばっと布団から真田が出てきたのにびくりとした。四つん這いになって犬のように唸りながらのそのそと近づいてくると、膝の上に顔を埋めてきた。

寂しかったも、会いたかったも、怒りも、すべてそれだけで示してる。

 だから何も言わずに頭を撫でてキスを落とす。それで許してくれるかなっと思ったら、腕をとられて押し倒されて顔にいくつものキスが落とされる。

「どこいってたんだよ」

「だから、あの出来る達さんとごはん」

「口説かれた?」

「いや、ありえないから。あっちはエリート……んんっ」

 奪い尽くすキスに息を飲む。愛しているという言葉よりも多弁な熱。それがゆっくりと離されてほっとしたのもつかの間、顔にいくつもキス落とされた。

「トールはわかってない、わかってない。かわいいんだよ。ものすごくかわいいんだ。だらしない俺の世話してくれちゃう、かいがいしだよ。もてるんだよ。ものすごくもてるんだ」

「そんなこと、ないって」

 確かに出来るエリートの外面、実はわりとだらしないことはこの同棲中に知った。苛々したけど、それが、あ、かわいいかなとも思った。

「トールの翻訳した、あの本、面白かった」

「え、読んでたの?」

「会社に行くまえに、こっそりとパソコン立ちあげてさ……リラ、幸せになったよね」

 にやにやと笑う真田に驚いていた透は笑って頷いた。本当に読んでいたのか。忙しくて、大変なのに。

 ああ、もう、靴下を裏表反対でほっとくとか、わりとだらしないとか、けどすごく甘えん坊とか、そういうのが全部愛しくなっていく。

 愛されてるんだ。俺。

 愛しちゃってるんだ。俺。

 そう思うと自信がわいてくる。こんな俺でも、真田は愛しているんだ。たった二週間と少しだけ見えた、相手の理解と愛情が俺に力を与えてくれる。

「本当はさ、俺、感想とか書きたいけど、何書けばいいのかわからないし、相談とかさ、のりたいけど、……なんか文字かくのめんどくさいし、メールしようとしても忘れるし。俺が一番の読者で、ついでに相談者だと思ったのに、その出来る達さんのほうにいろいろと相談して、メールしてるみたいだしさ……わりと粗忽者なんだよね」

「それは、一緒に暮らして知ってる」

 実はそれにいらっとして、今日は食事にいった、なんて言えない。

「てか、達さんはお仕事だからさ」

「それでもやなの。達さんより頼られたいの……付き合うみんな、だらしないって別れられてさ。トールのときはどうだろうって……不安でさ、だったら早いうちに知ってほしくてさ。嫌われるの怖いけど、今より好きになってふられるよりはましかなって……けど一緒に暮らして、トールは文句いいながらも面倒みてくれて、ますます好きになった。コンプレックス抱えて、ぎゃんぎゃんわめいて、全部かわいいし。仕事してるのに、その合間に家事ぜんぶやっちゃうし、すごいなぁって」

「ありがとう。俺のだめなところ、そこまで好きなやつはじめてかも。トオルのさ、そういうだらしなさ、見ていていやじゃないよ。あとさ、達さんが俺のことをどうこうとかないない」

「そんなことあるある。わかってないやつは、絶対にばかなんだよ。目がないんだよ」

 力説したあと、また浮気者と寂しかったと泣きながら責めたてる真田に透は笑った。本当に子供みたい。外面はいいのに、なんだよ、こいつ。

 それが可愛いと思う自分はだめなんだろうなぁ。

「今日はこのまま甘やかして」

「いいけど……いまの動き、台所にいる黒い嫌われものみたいだった」

「別に、トールに甘えられるならそれでもいいけど、俺」

 真剣に言い返す真田に透は噴出した。

「もう」

「トール、大好き」

 抱きしめて甘えてくる真田に――ああ、もう、とため息をついて目を伏せる。同じ名前だと、こういうとき、あんまりロマンテックじゃないからいやだと思ってたけど、真田の甘えた声の「トール」という呼び方は、自分だけの特別なもので、まぁこの名前も嫌いじゃないかも、と思う自分はものすごく現金だ。



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