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カタカタカタ……。
キーボードを叩く音が、静かな部室にこだまする。
ぼくは、伊達笛礼人。
何十年も前に設立された伝統ある工業高校――明日狩工業に入学して間もない、高校一年生だ。
入学初日、ぼくは心に決めていたこの部の門を叩いた。
もちろん門ではなく、ドアだけど。
計算部――。
正式には、おそらく計算機部、ということになるのだろう。
計算機というのは、当然ながら電卓を示すわけじゃなくて、パソコンのことを表している。
コンピューターはもともと、計算するための機械として生まれたもの。だから、計算機と呼ばれていた。
そんな計算機を使う部だから、計算機部。
なまじ伝統ある学校のせいで、古い名称のまま残っていることも多いようだ。
きっと最初は計算機同好会とか、そんな名前だったものが部へと昇格し、計算機部では語呂が悪いため計算部と略された。
そんなところなのだと考えられる。
時代の流れに合わせて、パソコン部とかに名称変更してもいいのに、と思わなくもないけど。
これもひとえに伝統校の宿命というべきか、規律は絶対で柔軟性に欠け、意外と融通が利かないものなのである。
……計算部の呼び名としては、もうひとつ違った俗称もあったりするのだけど、それはまた後ほど話題にするとして。
そんな計算部に入部したぼく。
最初から心に決めていて入部したわけだし、べつに構わないといえば構わないのだけど、実は少々、騙されて入部したという状況でもあったりする。
☆☆☆☆☆
入学初日。
ぼくはひとり、廊下を歩いていた。
入学式とクラスでの最初のホームルームだけで、初日の学校行事は終わり、放課後となっていた。
そのまま帰ってもよかったのだけど、自分が所属する部を決めるなら、見学くらいはしておきたい。
そんなふうに考えた同じ中学出身のクラスメイトたちから、一緒にいろいろ回ってみようと誘われたのだけど。
ぼくは、すでに入りたい部を決めていたため、それを丁重に断り、ひとりでこの薄暗い廊下を歩いていた。
目指すは計算部。
受験案内のパンフレットには、部活動・同好会の一覧が事細かに載っていた。
少しでも多く新入部員を獲得するため、気合いの入った紹介がされていたりする、そんな紹介文章の中。
真っ先にぼくの目に飛び込んできたのが、この計算部だった。
パソコン好き集まれ! プログラム、CG、ゲーム……好きなことを好きなだけ納得のゆくまで楽しめる部活、それが計算部だ!
そんな(ある意味怪しい)言葉に、ぼくは惹かれてしまった。
もっとも、もとよりプログラム好きで、パソコン関連の部があったら入りたいと思っていたのだから、それ自体は騙されたというほどではない。
計算部の部室は、特別教室棟の一番奥にある。
たくさんのパソコンが用意されている計算機室という教室もあるのだけど、そこからさらに奥まった場所。
廊下の突き当たりの脇にひっそりと存在している狭っ苦しい物置程度の部屋、それが計算部の部室だった。
ノックして静かにドアを開ける。
「失礼します」
そう言いながら中に入ると、そこには――。
「いらっしゃい♪」
にこっ。
――天使が、いた。
ぽ~っ。
思わず見惚れてしまう。
明日狩工業は、伝統校。しかも十年くらい前まで男子校だった。
今では一応、男女共学になってはいるのだけど、それでも工業系の高校ということもあってか、女子の比率は極端に低い。
こんな男子ばかりの高校に来るような工業系女子なんて、可愛いわけがない。といった失礼な偏見すら持っていた。
だけど――。
「あら、どうしたの?」
その天使が、首を軽くかしげながら問いかけてきた。
入り口横には机と椅子が配置されてあったのだけど。
そこに座っていたその人が、スカートをひらりと揺らめかせながら立ち上がる。
「見学に来たんでしょう? ごめんなさいね。今みんな、勧誘のほうに回っていて、部室にはいないのよ」
肩にかからないくらいで切り揃えられたツヤのある黒髪がさらりと音を立て、ふわっとほのかな甘い香りが広がる。
水色のリボン飾りがついたヘアピンで髪を留めているのも可愛らしさを強調しているし、右目の目尻の下にポツンと控えめに存在するホクロも、なんだか色っぽさを際立たせている。
「でも、歓迎するわ。わたしは二年生の蘭香よ。もしよかったら、部室の中を見ていってね。狭くてちょっと散らかってるけど……」
そう言いながら、そっとぼくの両手を握る蘭香さん。
ドキドキと、胸が高鳴る。
そりゃあ、一応は共学校なのだから女子がいないわけじゃないし、中学までは普通に市立の学校に通っていたのだから、ほぼ半数が女子だったわけだけど。
こうやって女の子に手を握ってもらったことなんて、フォークダンスくらいでしか記憶にない。
二年生だから先輩ではあるけど、たったひとつ年上なだけなんて、全然問題にはならないよね……。
若干パニック気味にそんなことを考えながら、ぼくは部室の中へと招き入れられた。
ぐるりと周囲を見回してみる。
蘭香さんの言ったとおり、確かに狭い上に物がごちゃごちゃと置かれているようだ。
入り口にあった机と椅子の他に、長い会議テーブルとパイプ椅子が並べられ、部室の端っこに備えつけられた棚には、ソフトウェアの類だろうか、たくさんのパッケージがこれでもかというほど押し込められている。
ついでに加えれば、部室内はかなりホコリっぽく、カーテンも締め切られているのでちょっと暑苦しい。
電気は点いているものの、点滅している蛍光灯もあって、若干薄暗さを漂わせている。
蘭香さんからはほのかな甘い香りが感じられるけど、この部室全体には、なんとも言えない臭気が充満していた。
ひと言で表現するならば、くさいのだ。
伝統のある工業高校で年季も入っているし、しかも男子が圧倒的に多い状況だから、はっきり言って学校内のどこにいても、微妙に気になるニオイを感じたりはするのだけど。
それを上回る臭気――悪臭と言ってもいいだろうニオイが、鼻をついて襲いかかってくる。
ともあれ、そんなニオイが気にならなくなるほど、ぼくは目を奪われていた。
すぐ手前にあるテーブルには、数台のパソコンが乗せられている。
起動しているのは一台のデスクトップパソコンだけだったけど、これって有名メーカーの最新式……というほどではないにしても、なかなか高スペックなパソコンだったはずだ。
他に並べられてあるパソコンも、省スペースのためかノートパソコンが多いけど、それなりに高性能な機種ばかりで、ゲーム用なのだろうかコントローラーのようなものまで接続されている。
よくよく見てみれば、棚に並べられているソフトウェア類も、ゲームソフトやらセキュリティーソフト、教育用ソフトに加え、プログラム言語用の統合環境なんかまで、様々なジャンルにわたって揃っているようで、その数もかなり豊富だった。
ああっ! あれは、お小遣いを貰っている高校生の身分では到底手の出ない、高価な3Dモデリングツールではっ!?
プログラマー志望のぼくには関係ないものも含め、多種多様なソフトウェア類の山に、ぼくは文字どおり飛びついていた。
棚にかぶりつき、尻尾を揺らして興奮する犬のように、はぁはぁと荒い息を立てるぼくは、相当怪しい様子だったに違いない。
「ふふ、興奮しちゃって、可愛いわ……」
そう言いながら、蘭香さんはしなやかな動作でぼくの背後に近づいてくる。
そして――。
ぴとっ。
「え……? ら……蘭香さん……?」
ぼくの体を包み込むように背中から前へと両腕を回し、ぎゅうっと抱き締めるようにしてその身を預けてくる蘭香さん。
しかも肩にアゴを乗せる形でぼくの頬の辺りにまで顔を寄せてきていて、長い髪の毛が目の前でさらさらと揺れている。
さっきも感じた甘い香りが、直接ぼくの鼻先を――いや、鼻腔の奥を刺激してくる。
「うふふ……」
微笑む蘭香さんの吐息が、ぼくの頬を撫でる。
ぼくの背中には今、蘭香さんの体がぴったりとくっつけられ、温もりが直接伝わってきている。
「あ……」
鼓動が速まる。
ただ……微妙な違和感。
背中に感じる温もりに、足りないものがあるような……?
と、そのとき。
部室のドアが勢いよくスライドされ、ひとりの男子生徒が足を踏み入れてきた。
「そこの新入生! ワシの可愛い部員に、なにをしておるのじゃ~!?」
怒鳴り声を響かせながら飛び込んではきたものの、ぱっと見、怒っているのかどうか判断しづらい顔だった。
なぜならその人の目は、笑っているかのように、山なりの糸目だったからだ。
それに、なんだか喋り方もおかしい。
学ランのボタンをすべて外し、その下から真っ赤なTシャツがのぞいている姿だけを見れば、少々怖い人だと予想してもおかしくない感じではあったのだけど……。
「部長……わたし……」
ついさっきまで背中にぴったりとくっついていたはずの蘭香さんが、今はなぜだかスカートも上着もはだけ気味の状態で床に座り込んでいた。
え……? え……!? どういうこと……???
「おお、よしよし、ワシの可愛い蘭香よ……。つらかったじゃろう……?」
「くすんくすん……」
涙を流し続ける蘭香さんと、蘭香さんの頭を優しく撫でる先輩らしき糸目の男子生徒。
これは、いったいなんの茶番なのだろうか……?
冷めた目で見つめていたぼくだったけど、当然ながら、矛先はこちらへと向けられることになる。
「こんなことをして、タダで済むと思っておるわけじゃあるまいな? まぁ、ワシは寛大じゃからな。許してやらんこともない。この入部届けにサインさえすればじゃがの。ふぉっふぉっふぉ!」
……ああ、なるほど。
意味合いとしては微妙に違うかもしれないけど、美人局ってやつか。ワシの女に手を出したのは、どこのどいつじゃ、っていういアレだ。
そうやって脅して、強引に部活の勧誘をしている、と。
……それってすでに、勧誘の域を激しく超えているとは思うけど。
「え~っと……まぁ、いいですけどね。ぼくはもともと、入部するつもりでここに来たわけですし」
そう答えながら、ぼくはペンを取り出して、差し出された入部届けにすらすらと名前を記入していく。
「お……おお、そうじゃったか。ふぉっふぉっふぉ、怖がらせて済まなかったのぉ」
「いや、べつに怖がってませんし」
山なりの糸目で凄まれても、恐怖心なんて感じないどころか、逆に笑ってしまうのを堪えるのに精いっぱいという状況だった、とはさすがに言えなかった。
「ごめんなさいね、あんなことをしちゃって。部長命令だったから……」
蘭香さんが苦笑を浮かべながら、入部届けをのぞき込んでくる。
「ふ~ん、伊達笛礼人くんっていうのね。可愛い名前。フェレットくんって呼んじゃって、いい?」
「ええ、いいですよ、蘭香さん」
ぼくは素直に答えてから、はたと気づく。
相手のほうから名乗ったとはいえ、いきなり女性を下の名前で呼ぶなんて、ちょっと悪かったのでは……と。
「ごめんなさい、下の名前で呼んでしまって。えっと……先輩、名字はなんて言うんですか?」
「え……?」
きょとんとした表情の蘭香さん。一瞬考え込むような仕草をして、すぐに、あっ、と声を漏らす。
「うふふ、蘭香って、名字のほうなの。だから、そのままの呼び方でいいわ。フルネームは、蘭香兎跳っていうのよ。改めてよろしくね、フェレットくん!」
「あっ、そうなんですか、すみません! こちらこそ、よろしくお願いします!」
ぼくの顔は真っ赤に染まっていたことだろう。
勘違いしたことで恥ずかしかったのと、天使のような笑顔を向けられたことと、どっちが主な原因となっていたかはわからないけど。
「ふぉっふぉっふぉ。ついでにワシが、三年で部長の稲荷山飯綱じゃ!」
「あ……あなたが部長なんですか……」
なんとなく予想はしていたものの、若干めまいがする。
とすると、この人が蘭香さんに命令して、あんなことをやらせていたってわけか。
「まったく……。部長、もうあんな勧誘はやめてくださいよ? 強制的に入部させたって意味ないじゃないですか。すぐに逃げられちゃいます。だいたい、女性にあんなことをやらせるなんて、セクハラですよセクハラ!」
きっと蘭香さんは部長に押し切られてイヤイヤやっていたのだろうから、代わりに強く言ってあげないと。
なんとなくそんな気になって、語調を荒げるぼくだったのだけど。
そこで再び、ドアが開いた。
「ち~っす! ……おっ、今年の犠牲者は、キミってことかな?」
男子生徒がキザったらしく前髪をかき上げながら部室に入ってきた。
その言葉から察するに、計算部の先輩なのだろう。
「犠牲者……ですかね、一応。でも、女性にあんなことをやらせるなんて……」
ぼくは部長に対してだけでなく、新たに加わった先輩も含めて、非難を込めた言葉をぶつける。
「フッ……、威勢がいいな、一年生。だが、これだけは言っておこう」
それに応じて放たれた言葉は――。
「蘭香は、男だ」
………………。
黙ったまま視線を向けてみる。
蘭香さんは女子の制服に身を包み、いや~んと恥ずかしそうに頬に両手を当て、身をよじりながらスカートをゆらゆら揺らめかせていた。
にわかには信じ難いけど……否定しないってことは、事実なのだろう。
それならば、さっきの違和感にも納得がいく。
あれは……。
「そっか……だからさっき背中にくっつかれたとき、胸の膨らみがまったくなかったんだ」
「う……フェレットくん、ひどい……」
男であるはずの蘭香さんは、どういうわけだか涙目になって、頬を膨らませながらぼくを睨みつけてくるのだった。
ちなみに、キザったらしく前髪をかき上げていたあの人は、二年生の堂島鉄狼先輩。通称『ウルフ』と呼ばれているらしい。
さらには去年、初日に入部していた蘭香さんによって、バッチリ騙されて入部させられた、れっきとした犠牲者第一号だったとか。
そのときの話を詳しく! と頼んでみたところ、聞かないでくれ……と項垂れてしまった。
ウルフ先輩にとっては消したい黒歴史のようだし、深く追求するのはやめておいたほうがよさそうだ。
ただ、
「去年のウルフはすごかったの。なにせ、蘭香とキス――」
部長が面白がってそこまで言ったところで、ウルフ先輩は容赦ないみぞおちアッパーを食らわせていたから、まぁ、なんとなく状況は察しがつかなくもなかったけど。
……蘭香さんは蘭香さんで、頬を赤く染めていたし。
う~ん……大丈夫なのだろうか、この部活。
そう思わなくもない、今日この頃……。
とまぁ、そんなわけで。
以上三名の先輩方とぼくが、今のところ、この計算部の主な部員ということになる。
実際には、部長と同じ三年生の部員がもうひとりいるとか、他の部と掛け持ちの二年生がふたりいるとかって話だけど。
狭い部室から予想済みではあったけど、規模としてはあまり大きくなさそうだ。
しかも、隣が計算機室になっているとはいっても、授業で使うパソコンを使わせてもらえるはずもなく。
ぼくは今日も今日とて、この狭くてホコリっぽい静かな部室で、キーボードを叩いている。
「こんにちは、フェレットくん!」
「ち~っす! 蘭香、今日も可愛いな!」
「ふぉっふぉっふぉ! 部長様のご出勤じゃよ~!」
「うふふ、それじゃあ、とりあえずティータイムにしましょうか♪」
「フッ……、さすが蘭香、いいアイディアだ」
「ふぉっふぉっふぉ、そうじゃの!」
三人の先輩たちがやってくると、一瞬にして静けさはなくなってしまうのだけど。
「ほら、フェレットくんも、お紅茶をどうぞ!」
「はぁ……どうも……」
この人たちがまともに部活動をしているところって、まだ一度も見たことがないような……。
ぼくはこの部に入って、本当によかったのだろうか?
後悔の念が残る、入学一週目、金曜日の夕暮れだった。




