第八話 子供の名前
体を拭いた後すぐに獣人の子供が寝付いてしまい、ニケと義父の二人で済ませた夕食を下げようとしたところで義父が唐突に口を開いた。
「――――ニケ、明日にでも友人に会いに行くから供を頼む」
「はい。……あ、」
義父からの頼みに頷こうとしてニケは咄嗟に口元に手を当てた。
「けれどあの子が……」
「心配ない、あの子のことで友人を訪ねる。やはり獣人に詳しい者の話は聞いておいた方がいいだろうからな」
「はい」
穏やかに笑う義父の心遣いに感動しつつ、ニケは明日出かける支度を今日のうちにしておくことにした。念の為にと義父のいる部屋の暖炉に火こそ入れないものの、夕食を作るのに使っていた薪を灰とともに暖炉に入れておく。激しく燃えることはないが、部屋で暖を取るにはこれで十分だろう。
部屋を出てニケの私室に一旦戻れば、部屋の寝台にある毛布の塊――――獣人の子供がぴくりと体を震わせるのが灯りを落としてある薄暗い部屋の中でも分かった。
どうやら人の気配に反応してしまったらしい。
獣人は本当の獣のようにそういうものには敏感だというし、未だ突然この離れに連れてこられて周囲を警戒しているようだから仕方ない、と心で呟いてニケはそっと歩を進めた。
「……起きている?」
「……ん、」
「喉は乾いていない?……どこか痛いところは、ない?」
ニケが尋ねると毛布からもそりと顔を出して子供は首を傾げた。しばらく黙ったままで、ニケが不安になってきた頃ようやくこくりと頷く。
「……おなか、すいた」
「なら温かいミルクを持ってくるわね。食べたいものはある?」
「に、く」
(心なしか目が輝いている気が……やはりお肉が好きなのかしら……けれど、生がいいのか焼いた方がいいのか分かりませんし……)
以前友人が飼っていた犬にうっかり香味野菜の一種と肉を混ぜたものを食べさせたら犬が泡を吹いて倒れたという話を聞いたことを思い出してニケは頭を抱えた。
これからこの子を育てるのだったら食事のことも色々と考えなければいけない。
(……明日お義父様のご友人にこういうことも聞かないと……あとは身の回りのこと、かしら)
「……お肉は明日の晩御飯にしましょう?」
「ん、」
素直に頷いてくれる子供の頭を反射的に撫でて、ニケは気付いた。
「そういえば……名前は何と言うの?」
「名前?……お前、ちび?」
「……それは……いいわ、呼び名がないのも不便だし、何か呼び名を付けましょう」
何がいいかしら、としばらく考え込む。
ペットに付けるように気軽に付けていいものでもないだろう。といいつつ、ニケの名前は父が酔っ払っている時に決めてしまったためにまるでペットに付けるような名前だが。愛称でも略称でもなく、単なるニケだ。けれど大抵名前を一度で覚えてもらえるので割と自分では気に入っていた。
それはさておき、この子供の名前は何にしようか。
いっそ義父に相談しようか。
「……そうしようかしら」
それはとてもいい考えに思われて、ニケは子供に温かいミルクを用意してやるついでに義父にこの子の名前について相談しようと決めた。
少し待っていてね、ともう一度子供の頭を撫でて――――がさがさとした感触に苦笑して、部屋を出る。
離れ全体に暖を取るため残しておいた竈の火に鍋に入れたミルクをかけて、義父の部屋に顔を出した。
「お義父様、少しよろしいですか」
「あぁ、どうした」
「あの子供に名前がないのか……それとも分からないのか、ともかくこれから暮らしていくのに呼び名がないと不便ですから名付けようと思ったのですがいい名前が浮かばなくて……お義父様に決めていただけないかと」
「これはまた大役を、」
くつりと喉を鳴らして義父は考え込むように口元に手を運んだ。
ごつごつとした手は紛れもなく武人の手そのもので、ニケはまぶしいものを見るかのように目を細める。
「そうだな……イクリールは流石に不敬だろうな、ならば――――カマルはどうだ。呼びやすいし、意味もなかなかだ」
「カマル……」
音を確かめるように口にその名前を上らせると確かに呼びやすい。
ニケの家名を合わせれば、カマル・セラピアになる。
「カマル・セラピアという名乗りでいいでしょうか」
「……養子にするのか。籍はネグロペルラではないのか?」
訝しげに眉を寄せた義父に婚家の――――夫の家名であり、義父もまた名乗っている家名を挙げられてニケは苦笑した。
「いえ、嫡出でもなく庶子でもなく、血のつながりもなく種族も違う子を私と旦那様の間に養子に迎えては色々と面倒なことになりそうですので、あくまでも私個人の養子として迎えようかと思っています」
「そうか。ならば私の家名を挟めばいい。カマル・ファーザ・セラピア。いい名前だろう」
「よいのですか?」
普通家名は父から子へと受け継がれる。
特に子が男ならば名前と家名の間に母の家名を挟むのが貴族のしきたりだった。
あの子供はニケ個人の養子として迎えるために本来貴族の養子ならばあるはずの二つの家名を持たないはずだったが――――義父の家名を貰えるのがいいことなのか悪いことなのか、ニケには判断が出来なかった。
獣人が貴族の養子として迎えられることが全くないわけではないが、蔑視される可能性も大きい。
そんなニケの心配を見越したかのように義父は笑う。
「戸籍にはそう記載して、名乗りの時はカマル・セラピアとすればいい。いざという時に役に立つかもしれない、程度の認識でいいだろう。それに大きくなってからはあの子にどうするか選択させてやればいい」
「そう、ですね……ならば、そのように」
カマル、と口の中で呟いてニケは炊事場へ戻り、すっかり温まったミルクをカップに移す。
それを熱すぎないように薄手の布を添えて私室に戻ると、子供はベッドの上に座り込んでいた。ニケに気付いて顔の向きを変えると、湯気の立ち上っているミルクに気付いて薄暗い中でも分かるほどに顔を輝かせた。
「砂糖はいる?」
「砂糖?」
「……一つだけ入れておこうかしら」
紅茶などに入れる四角形に加工されてある砂糖を一つミルクの中に落として、まだ熱いそれに息を吹きかけて冷ましながらちょうどいい温度になるのを待つ。
じっとミルクから視線を逸らさない子供に苦笑して、心配しなくても取らないから、と言い足せば子供は安心したように笑った。
冷めるのにはまだ時間がかかりそうで、ニケは子供に視線を合わせた。
「あのね、これからあなたはここで私と、お義父様――――さっき見た人と暮らしていくことになったの。痛いことはしないし、多分辛いこともないと思うの。あなたが大きくなってからは自由に、あなたの好きなようにして構わないわ」
「…………」
「それで、これから暮らしていくのに名前がないと不便だから――――あなたを、カマルと呼ぶことにしたの」
「カマ、ル?名前?」
「えぇ、そうよ。あなたの名前はカマルよ」
きょとんとしている子供――――カマルにニケは苦笑して、ちょうどいい温度になったミルクを差し出した。
ミルクと砂糖の甘い匂いを確かめるようにくん、と鼻で嗅いでからカップを口元に運ぶカマルは、夢中になって甘いミルクを飲んでいる。あっという間にカップは空になり、嬉しそうに笑っているカマルにニケまで笑顔になった。
「これから毎晩甘いミルクを作ってあげるわ」
「ほんと?」
「えぇ。けれど歯を痛めないように寝る前には口の中をゆすぐのよ。さぁ、ゆすいでしまって早く寝なさい」
「……ん、」
毎晩ミルク、という言葉に相当惹かれたらしいカマルが素直に頷き、ニケはカマルを毛布にくるんで抱き上げた。まだ汚れているカマルは臭うが、それ以上に可愛らしいと思う。
(これが親バカというものかしら)
そうしてカマルを寝かしつけた後、ニケはようやく明日の準備に取り掛かった。