第六話 汚い毛玉
義父と親しく話すようになってから数週間が経った頃、妙に屋敷全体が騒がしいことにニケは気付いた。
義父の所望した南の特産の果実酒を加えた紅茶を淹れて義父に渡し、首を傾げる。
「旦那様がお戻りになられたのでしょうか?」
「だろうな……行ってくるといい」
妻としてのニケの立場を気遣う義父に心が熱くなったニケは、自分が席を外しても不自由がないようにと支度をしてから義父と、今はニケの住んでいる離れを出た。
元々義父の私室は母屋の方に立派なものがあるのだが、居心地が悪いという理由を適当な言い訳でくるみ込んで空いていた離れを義父の療養用にしてしまったのだ。ついでに今まで義父の使っていた当主用の部屋はこの際ニケの夫に全て譲ってしまうらしい。
そのままでは気分が悪いだろう、と義父に改装を命じつけられた執事が義父からの命令だというのに嬉々として従った様子は今でもニケの脳裏に残っている。
(あんなにお優しくて、いい方なのに……お義母様はやはりお義父様の身分が気にいらないのかしら)
ニケが義父の世話をしている間も、義父の口から義母や夫の悪口は何一つ飛び出しては来なかった。
それどころか家族の話すらなく、ニケが聞いたのは義父の部下や、友人、幼い頃世話になった老夫婦の話ばかりだった。悪口でなくとも義母や夫の話が出てこないことは、ニケにとって悲しく感じられた。
少しでも思い出があるなら話にも出てくるだろう。
けれどそれすらないということは――――義父には、家族との思い出がないのだ。
自分を厭う妻も息子も、諦めて受け入れている。『家族』から『幸せ』がもらえるとは、思っていない。
もし無理にでもそういう話を振ったならば、きっと幼いころの恩人である老夫婦を『家族』とみなして話をするのだろう。貧しいながらも大家族で和気あいあいと育ったニケには、それがたまらなく寂しいと感じられた。
(お義父様を寂しい方だと思うことは、失礼なのでしょうが)
それでも幼い頃から聞かされた武勇譚の主人公がこんなに寂しい人であることが、ただただ悲しかった。
やはり夫が屋敷に帰ってきていたらしく、久々に母屋を歩いていたニケは不思議がられることもなく夫の部屋へと案内された。まだ義父の使っていた部屋は改装中らしい。
それにしてもただ夫が帰ってきただけにしてはどこか慌ただしい。
「旦那様、奥方様が参られました」
「…………」
わずかな間に夫は『若様』から『旦那様』になり、それに合わせて自分もまた『若奥様』から『奥方様』になっていた。さしずめ義母は『奥方様』から『大奥様』、といったところだろうかとニケは考えた。
――――こうして、この屋敷から義父の居場所が消えていくに違いなかった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「あぁ。私の留守中変わりはなかったか」
相変わらずの定型句の問いかけに、ニケは以前と同じように答えることが出来なかった。
「……生憎と、私は離れの方に籠っておりますので……申し訳ございません」
「妻として支障がない程度に止めよ」
夫の言葉にニケは頭を下げたままぐっとへそのあたりで体に添えている手をもう一方の手で握り締めた。
今までさして言葉を交わすこともなかったとはいえ、何を言われても堪えることはなかったが――――義父をぞんざいに扱ってよいという風にもとれるこの言葉だ、嫌だと思った。
けれどそれを口に出すことはない。出しても無駄だ、と分かっている。
「申し訳、ございません」
だからニケは自分の感情を押し込めた。
手に爪が食いこむ。痛いとは、感じなかった。
「…………遅いな」
不意に夫が発した言葉にようやく顔を上げると、夫はもうニケの方を見ておらず部屋の隅に控えている使用人になにごとか尋ねていた。誰か待ち人でもいるのだろうか。
(とうとう愛人、かしら……あぁでも、そういう雰囲気ではなかったし……それより私、思っていたより傷ついてないですね)
夫が愛人を持つ、と想像してみてもあまり傷つかなかった。おそらく自分の中での配分に、夫が占める割合が相対的に低下しているからだろうか。けれど流石に一応妻なのだから、これではいけない。けれどどうしたものか。
そんなことをニケが考えている間に夫と使用人の間で話は着いたらしく、椅子に座るよう促される。
(正直、早く離れに戻りたいと思ってしまうのも……いけないこと、なんでしょうか)
「……」
「……」
久方ぶりに顔を合わせても、全く会話がない。
何か話題を振ろうにも、どれを選べばいいのか分からなかった。
最近のニケの話題は義父から聞いた話や義父と過ごしている生活の話で、実父でありながら義父を疎んじているらしい夫に振っていい話ではないだろう。興味があっても貴族の妻であるニケが聞くにはおこがましい内容のものが多い。元々ニケと親しく話そうという夫でもなく、話しかけられることもないニケは自然と無口になった。
沈黙が部屋を支配する中、部屋のドアがノックされる。
(……?)
義母に厳しく言いつけられているこの屋敷の使用人はいつもノックの間隔がそういう細工でも仕込んでいるのかというくらいに正確なのに、今のノックの間隔は心なしか乱れていた。自分の耳がおかしくなってしまったのだろうか。
「失礼いたします……」
現れた侍女も、疲れた表情を隠し切れていない。
「いかがした」
「旦那様……その、申し使った獣人ですが、とても私共の手には負えませぬ」
「……」
怪訝そうに顔をしかめた夫に、ニケは内心首を傾げた。
獣人、というのは人間とは違い獣の姿と人に似た姿を併せ持つ種族のことだ。田舎では珍しい存在らしいが王都に暮らしていれば毎日のように見かける存在でもある。ニケも例外ではない。
肉食の獣の種族ならば、屈強な体にとてつもない力を誇り、傭兵として活躍する獣人も少なくないと聞く。反対に草食でか弱い愛玩動物のような種族の獣人は、様々な仕事に従事する他に観賞用に裏取引されるともあるらしい。
ただ人間とは違いすぎるその容貌や生態は恐ろしく、特に貴族の間では獣人を野蛮な種族と疎んじ虐げる者も少なくないと聞く。
軍属である父からは獣人の傭兵について話を聞くことがあったが、大抵の獣人もそういう扱いを受けていることから人間に心を開くことは少ないという。
それはさておき、なぜ使用人の口から獣人、などという言葉が飛び出したのだろうか。
夫はともかく義母は根っからの貴族主義で、聞いたことはないが獣人を厭う可能性がとても高いように思える。義母を大切にしている夫ならば、この屋敷に獣人を入れることはないと思えるのに。それに侍女の口ぶりからして、おそらくその獣人は女か子供だろう。
様々な疑問を抱きながら夫があれこれと侍女に言いつけては使用人達が慌ただしく動いているのをぼうっと見つめる。
(お義父様、大丈夫かしら……)
秋だから冷え込んではいけないと義父の手が届くところに何枚か毛布や布を置いておいたが、足りるだろうか。一番厚い毛布を昨日洗濯してしまったのは間違いだったかもしれない。
一度思えば心配になってしょうがなかった。
早く夫の用件が済まないかと思っていると、にわかに廊下が騒がしくなる。
「挨拶はいい、入れ」
短く命じた夫に使用人が慌ててドアを開く。
その先にいたのは何人もの侍女や従僕と、彼らに抑えつけられている何か灰色の────毛玉のような、ものだった。
思わず目を丸くしたニケをしり目に、夫はつかつかとその毛玉に近付くと襟首らしきところを掴んで持ち上げた。
そこでようやく灰色の毛玉の全容が分かった。
「獣人、ですか」
あまりにもさもさしているので分からなかったが、なにかの獣人らしい。幼すぎて完全な人型を取ることが出来ないのか、肌も目に着くところは毛におおわれている。ところどころ葉っぱや埃まで付いていた。
「任務で獣人の子供の裏取引を摘発したが、コレだけ台帳がなく引き取り手もおらぬ。とりあえず屋敷に連れ帰ったが────手に負えぬか」
警戒心がよほど強いのか、使用人たちは軒並み拒絶されたらしい。今だって夫に摘み上げられて、ぶるぶると震えている獣人を冷たい目で見ている使用人がいる。
それが哀れで、似ても似つかないというのにこの獣人がどことなく義父に重なって見えた。
あのたくましい義父とは似ても似つかない貧弱で汚れた、それこそ毛玉のような獣人の子供。
台帳もなく裏取引されたというからには家族の存在だって怪しいものだ。それにこの屋敷の者からは疎まれて────というのは思考が飛躍しすぎているのかもしれないが。
そこまで考えてニケは心を固めていた。
「旦那様、少々よろしいですか」
「っ、」
夫が呆気にとられている隙に、ニケは立ち上がって夫に摘み上げられていた獣人の子供を抱き上げていた。抵抗されるが、そのまま腕の中に抱え込む。それこそ人間の子供をあやすように。
母曰く、子供を寝付かせたり泣きやませるには抱きしめて心臓の音を聞かせてあげるのが一番手っ取り早いらしい。その教えを実践してみれば、腕の中の獣人の子供は抵抗をやめた。
驚いている夫や使用人に向かってニケは口を開く。
「この子供、私めが貰い受けて構いませぬか」
「……支障はない」
「ならば手続きの書類を後でいただいても?」
「いや、こちらで済ませておく」
「ありがとうございます」
返事は返ってきているが、きっと夫はまだ混乱している。
事務的なやり取りだからこそ、こうして間髪いれずに返答があるのだろう。
「では失礼してもよろしいでしょうか?」
「……面倒をみておけ」
「はい」
そうしてニケはそのまま獣人の子供を腕に抱いて離れに戻り、義父を仰天させた。