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第六十話 雪の下で芽吹くもの

 ほんのりと頬を紅潮させたまま、ニケは宿の方で用意されたミルク粥をすすった。とろとろに炊きこまれたそれは喉を腫らしていても食べやすいようにか十分に冷まされていて、器の中身が半分ほどに減ったところで匙を下ろす。

 一晩寝ただけで熱の方はかなり下がったと自分では思っていても、まだ普段よりは具合が悪いのだからと一行は予定を引き延ばして宿に滞在している。――もう二日長くなりそうなら、夫は先に都へ戻ることになる。朝方そう告げられた時にはかしこまりましたと頷いただけだったが、やはり夫の足を引っ張ってしまっていることには気が重くなる。

 ちょうど様子を見に来ているカマルに気取られないよう小さく息をついて、ニケは添えられていた林檎のジャムを口に運んだ。こちらも手間のかけられたことが分かるなめらかさで、上品な甘さが口の中に広がる。

 ベッド脇の椅子に座っていたカマルがちょこん、と首を傾げる。


「かかさま、おいしい?」

「ええ。カマルもジャムをもらったのかしら」

「ホットミルクに溶かしてもらった」


 これ、と飴色のカップをかかげたカマルが一口ミルクを飲み干し、宙ぶらりんの足を揺らす。足癖の悪いところはカマルのなかなか直らないところで、人前ではしないようにと言い含めているのだが、今はニケしかいない部屋の中だ。それにこの雪では外に出て体を動かすこともままならない。カマルにとっても窮屈な一日を過ごさせてしまっているのだろうと、ニケは交互に揺れる足を見なかったことに決めた。

 あまり飲みすぎるとお腹を壊すから飲みすぎないようにね、と笑ってニケは膝の上に抱えていた粥やジャムの乗った盆をテーブルの上に置く。テーブルはカマルの真横にあるだけに、まだ中身が残っていることもカマルに気付かれてしまう。だが少し腫れた喉では柔らかく煮た粥でさえ、すべてを飲み干すことは厳しかった。


「……くるしい?」


 気遣わしげなカマルの声に、ニケの眉も下がる。


「いいえ。でもそうね、ちょっと喉が痛くて、たくさんは食べられないわね」

「ミルクなら、飲める?」

「あとで冷たいミルクを、少しだけなら」


 カマルが持ってくるね、という返事に笑って、ニケは背もたれ代わりのクッションに体を預ける。声がかかったのは、ちょうどその時だった。


「――ニケ」

「どうぞお入りください、アルトゥーロ様」


 すぐに人を呼べるようにと、少しだけ開けてあったドアのところに立つ夫の姿に、ニケは背筋を正そうとしたが、目線でそれを押しとどめられる。略装に身を包んだ夫の黒髪に、ちらほらと白い粉雪が纏わりついていて、直前まで外に出ていたことが察せられた。

 

「……医師が隣村から戻ってきている。食事をしたばかりだが、こちらに通してよいか」

「はい。カマル、これからお医者さまがいらっしゃるから、一度隣のお部屋に戻りなさい」

「……じゃあ、ととさまと一緒に待ってていい?」


 唇をつん、とさせたカマルの視線はニケではなく、夫に注がれている。わがままとも言えないようなかわいらしい要望だが、夫の都合が合うかどうかはニケにも測りかねた。

 だが夫は特に迷うそぶりもなく、首を縦に振った。


「医師の診察の間は隣で待つつもりだ。見立ても聞かなければならない。遊んでやることは出来ないが……話すくらいならば」

「……カマル、ととさまを困らせないようにね」


 ニケの言葉にふぁさりと白い尻尾を揺らしてカマルが椅子から降りる。そして胸を張ってみせた。


「カマルももう一人前のおとこだから、だいじょうぶ!」

「あら、もう大人になったの?」

「大人じゃないけど、一人前なの」


 むふふ、と鼻を鳴らすカマルはいつになく得意げで、きっとニケにまだ話していない、なにかいいことがあったのだろう。


「後でまた、なんで一人前になったのか教えてちょうだい」

「うん。……でも、かかさまのお熱が下がったらで、いい」


 最後の最後で、誇らしげな表情から一転、寂しそうに零して、カマルはくるりと夫の方へ向き直る。立ち上がった耳がひくりと動く。


「お医者さん、来たみたい。声が聞こえるから」

「……そうか。ニケ、後は女官に任せるが、大丈夫か」

「ええ、大丈夫です。薬湯を飲んで、体も少し楽ですし」


 肩にかけていた織物がずれ落ちるのを直しながら、ニケは答える。夫には言わないが、実家にいた時はこの程度まで熱が下がれば、後は食べて寝てを繰り返して治すようなこともしていたのだ。最近はこうして寝台の住人となってしまうことが多いとはいえ、元々貧乏貴族の出であるニケは生粋の貴族の令嬢よりも体力はある方だという自覚もある。

 ただ、風邪もこじらせると長引くというし、早めに医者にかかれるのならそうするにこしたことはない。

 無理をするなと言う夫に曖昧に頷いて、ニケは医師の訪いを待つのだった。




「遅くなって申し訳ありませんんっ、えっと熱と、あと喉が腫れているとかっ。あああ昨日雪だからってあっちで一泊したばっかりに悪化してたらっ」


 女官と共にやって来た医師は赤ら顔の、義父よりも幾分か年少だろう人だった。ここ最近関わる医師といえば、王宮や離宮に勤める経験豊富な――老医ばかりで、正直ここまで若い医師が来るとは思っていなかっただけに、ニケは驚いてしまった。手伝いにとやってきてくれていた女官も同じような顔で医師を見ており、それを気にしてか、落ち着かないが、腕は確かなのでと宿の主人の妻が口添えする。

 確かにその言葉通り、ひとしきり頭を下げた後は打って変わって真剣な目でニケの脈を取り、しっかりとした話しぶりでここ最近の体調を訊ねてきた。

 持病はないか。ここ最近熱を出したことは。食欲は。ちゃんと眠れているか。頭や喉以外にどこか痛いところはないか――。


 一つ一つ答えながら、ただ足を怪我したこともあって、不調の原因の一端はそちらにもあるだろうことを付け加えると、医師は考え込むように口元に手をやった。


「うーん。先日まで怪我の様子を診てた先生が、離宮付き……可能性がないわけじゃないしなぁ……でもなぁ……」

「……あの、なにかよくないことでも……?」 


 うんうんと唸って顎をこんこんと叩き始める医師に、よもや重い病気の兆候でもあったのかと不安な気持ちが掻き立てられる。居合わせる女官もピリリとした顔つきでじっと医師の言葉を待っているのが伝わってきた。

 短くはない間逡巡していた医師は、気まずそうな顔でニケを見る。


「あー…奥方様? そのですね――」





 ぱちりと薪のはじける音にさえ耳をそばだてる子どもの姿に、アルトゥーロは目を眇める。宿の主人夫婦に連れられてきた医師は、思ったよりも若く――先だって伯爵邸に忍び込んだ、忌々しい輩に背格好がよく似ていた。

 直接相対したカマルにとって、背格好が似ているだけの別人とはいえ、己が母と同じ部屋にいるには警戒すべき対象となっているのだろう。まだ女官や女主人が同じ部屋にいる分、表だって何かすることはなかったが、菓子のためにと用意されていた銀食器を自分の近くにさりげなく寄せているのをアルトゥーロは見ていた。幼いながら立派な行動である。

 かくいうアルトゥーロも略装の胸元を少し緩め、なにかあればいつでも対応できるだけの準備はしていた。連れられてきた医師の体の線は細く、診察のためにと捲りあげられた袖から覗く腕の肉つきも頼りないものだったとはいえ、備えておくに越したことはない。


 ――妻はついぞ知らぬことだが、夕べアルトゥーロが近衛の一部を割いて街道に出ると言う野犬の対処に向かっている間に、宿の付近で不審な影が目撃されていた。かなりの大男の姿を見たのは、宿に残していた部下だ。

 吹雪の、それも日の落ちかけた頃に外にいる影を怪しく思った彼が近付いた時にはもう姿はなく、降り積もる雪で足跡も追うことができない状態になってしまっていた。だが不審な影が目撃されたのは、アルトゥーロ達の滞在する部屋が見える場所だったという。

 このあたりに部下が見たような大柄の男がいないわけではないが、宿の人間が思い当たる男達はいずれも野犬退治に駆り出されており、その時刻にいたはずがないとのことだった。

 一行とは別行動で離宮から都に戻っている近衛の手勢に合流するよう指示を出してはいるが、今アルトゥーロの動かせる兵がすべてこの宿に揃うのは今夜になる。もし不審な人影がこちらの警備の手薄な時を狙うなら昨日から今日にかけてが絶好の機会だった。


(離宮であらかたはおびき出して捕らえたが……残りがいたか)


 妻には自分が先に都に戻る可能性があると伝えたものの、最悪の場合は妻を抱え騎馬で急ぎ帰還することもアルトゥーロの頭の中にはある。都に近付けばマシになるとはいえ、雪の残る道を馬車で行くのは格好の的になりかねない。天候さえ回復してくれれば、別働隊と合流し警備の人員を増やした上で都に戻ることもできるだろうが、こればかりは天に任せるしかない。


「……ととさま」

「どうした」


 互いに隣室へ繋がる扉から目を逸らさないまま、二人は言葉を交わす。


「……かかさま、おいて行かないでくれる?」

「…………あぁ」


 ぽつりと零された言葉に、アルトゥーロはすぐに返事を返せなかった。


 (守ってくれるか、ですらなく。おいて行かないで、とは……)


 ささやかな問いかけだった。

 今この時は、強行軍になるが共に都へ戻る意思はある。けれど、その後はどうだろうか。小康状態なのかさえ分からない情勢の中で、いつかまたこんな時が来るかもしれない。

 近衛である以上は王の傍にあるのが常であり、軍を率いるために都を離れることはそうそうないことだ。しかし、局面によってはアルトゥーロもまた遠征に赴くようなことになるかもしれない。都の屋敷に、妻を残して。

 かつて自分と母が過ごしたように。



「は、伯爵様……奥方様の診察が、終わりました」


 診察に立ち会っていた女官が、心なしか慌てた様子で寝室から現れる。その後ろにはなんとも言い難い表情の医師が続いており、夫の腰かけるソファの前で立ち止まると深々と頭を下げて礼を取った。


「……楽にしてよい。妻の容態、どう見立てる」


 隣村から戻ったままの、くたびれた旅支度の上に唯一清潔な布を巻きつけた医師は、頼りなさげな表情でちらりと視線を奥の部屋に向け、アルトゥーロに向き直る。


「微熱、倦怠感、食欲の減退、浮腫み――喉に関しては、この雪で体調を崩されたことが原因でしょうが、他の諸症状につきましてはですね、おそらくですが、」


ご懐妊かと思われます。


 赤ら顔の医師の顔が、へらりと崩れた。


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