第五十九話 帰路半ばで
長くもないが、決して短くもない逗留の間ついてくれていた離宮付きの女官たちに時間の許す範囲で礼を述べて、ニケは自分の足で歩いて馬車に乗りこんだ。座席に腰を下ろすやいなや、離宮で着ていた装いに比べて簡素な旅装を気遣ってか、ニケに続いて馬車に乗ったカマルが分厚い毛織物を膝にかけてくれる。きらきらと輝く髪を撫でて、そのまま隣に座るよう促した。
侍従長と話があるのだという夫が馬車に来るまで少し時間があるからと、一旦馬車の扉が閉められる。ここからおおよそ二日ほど馬車に揺られて都に戻るのだが、午前中の天気がおもわしくないことから出発が遅れたため、都に着くのは三日後になりそうだという。
「帰るまではしばらく馬車の中ね」
ニケの言葉に唇をつんと尖らせてカマルは飾り格子越しに外を見た。鈍い色をした空からはらはらと少し重たい雪が降っている。朝方の真っ白な視界ほどではないが、良好とは言えない見通しだ。ニケの目には少し離れたところで慌ただしく動いている近衛の姿が影のように見えるだけだが、きっとカマルの目にはもっと遠くまで、もっとはっきりと人の姿が見えているに違いない。
髪の中から同じ色をした三角の耳が立ち上がる。冬毛で夏よりもふっくらとした耳に手を伸ばしたくなる衝動をこらえて、ニケは笑った。
「なにか聞こえる?」
「うん。おとさまもうすぐだと思う……さよならして、こっち来てる」
遠くから視線を動かさないままでそう口にすることに驚きながら、ニケは夫の座るであろう向かいの席に手を伸ばし、敷物やクッションの位置をあれこれと動かした。都で使っているものよりも一回り小柄な馬車とはいえ、貴族用ということもあり中は十分に広い。向かいに腰かけていても膝が触れ合うようなことがない程度には離れて座ることもできる。少し腰を浮かせて席を整えている間、カマルは退屈しのぎに適当なクッションを抱きしめてはむにむにと手を動かしていた。
カマルの言った通り、ほどなくしてコンコンという音に続いて扉が開かれ、外套を身に付けたまま夫が馬車に体をすべりこませる。軍靴の少し硬い足音が響く。
待たせた、と抑揚のない声音で詫びる夫に黙って首を横に振り、外套に残る雪をはらう。指先に触れた雪はあっという間に水滴に変わり、外套を湿らせた。
「こうも降られては少し旅程が長くなるかもしれぬ」
「そうですか……近衛のお役目に差し支えるようなら、アルトゥーロ様だけでも先に都へ戻られてくださいませ」
「……もし何かあれば、そうなる」
眉根を寄せて夫は小さく溜息をつく。この時季には珍しい天気の荒れようでは、不穏な北の情勢も動きようはないのかもしれない。離宮は都の北方に位置しているが、見過ごしがたい動きがあるのはそれよりももっと北の、北方最大の交易都市が位置する領地なのだという。国土の最北端に横たわる山脈の裾野に位置する地域では人の背丈ほどの雪が積もることもあるというし、吹雪の前で無力なのは反乱分子も同じなのではないか。
(少し落ち着ける時間があればいいのだけれど)
国王の側近として多忙な夫を思い、ニケは心のうちでそっと溜息をつく。屋敷で待つことしかできないニケがあれこれ無知なりに考えを巡らせたところでどうにかなるような問題ではない。
そうしているうちにごとり、と音がして馬のいななきが微かに聞こえた。雪を警戒してかゆっくりと馬車が動き出す。窓の外は白く染まっていて、あの美しい翡翠の離宮の姿が窺うことはできない。ニケが何度か訪った冬薔薇たちもこの吹雪では凍り朽ちてしまっただろうか。どこか後ろ髪をひかれるような気持ちになりながら、ニケはぼうっと窓の外を見つめていた。
王家の離宮ということもあり、離宮と都とを結ぶ街道は大部分が丁寧に造られており悪天候にもかかわらず馬車は止まることなく目的としていた宿場町に到着した。先王の寵姫も逗留したことがあるという宿は先日離宮に向かう際にも泊まっており、見覚えのある宿の主人が夫とニケを出迎えた。初老の宿の主人が吐く息は白くけぶり、外で待っていたのか、たくわえられた髭にはちらほらと白いかけらが纏わりついている。
「ようこそお越しくださいましたネグロペルラ伯爵様、伯爵夫人様。部屋のご用意は整っておりますし、どうぞ中にお入りください」
「あぁ、一晩世話になる。ニケ、はやく部屋で体を休めるといい」
「……はい」
夫の呼びかけに頷いて、ニケは一歩踏み出す。馬車の中はともすれば暑いと思うくらいだったのに、その汗が急に冷えて、今は足の先から這い上がるような寒さに襲われていた。踏みしめられて固くなった雪に足をすべらせないようにと気を遣いながら夫に手を取られ歩みを進めていく。ゆっくりとではあるが着実に玄関口に近付いたその時、ふと夫が立ち止まった。
「アルトゥーロ様……?」
不審に思って視線を上げたニケにも構わず、夫はニケの手を離して右手の手袋を外す。そして素手になったその手で、ニケの頬に触れた。唐突な行いに驚きながらも、火照った頬には冷たい夫の手が心地よく、ほう、と息がこぼれる。
――そして唐突に夫の手は離れ、身をかがめた夫がニケの膝裏に腕を入れてそのままニケを抱き上げた。
体を持ち上げられる感覚に流石に我に返ったニケが言葉を発する前に、夫が鋭い声で医師を、と指示している。
「あの、」
「妻に熱があるようだ。部屋まで私が運ぶ。案内を」
「か、かしこまりました。ヨーゼフ、ヨーゼフ! 伯爵様をお部屋へ、あとは薬師の手配を」
にわかに慌ただしくなった場で、夫が足早に歩みを進める。その揺れを感じながらニケは途端に体が重くなったような感覚に襲われていた。
(ねつ……?)
熱があるようだと夫は言った。ならばこの今感じている火照りや悪寒は風邪の時のものなのだろうか。暑くて寒い。夫に言われた途端、頭まで重くなったような気がして、ニケはそっと夫の胸元に顔を寄せた。
目を閉じれば慌ただしく人の行き交う音が聞こえる中で、ためらいがちに後ろから小さな足音が続いてきている。大人ばかりの一行の中で、そんな軽い音になるのはカマルしかいない。突然体調を崩したニケにきっと心配しているだろう。何か言ってやらなければと思うのに、瞼は重く、口の中も乾いて舌が回らない。
けれどニケも気付いた足音に夫が気付かないはずもない。
「……カマル。ニケは具合が悪い。今宵は別の部屋で待て」
「かかさま……」
「そう熱は高くない……医師が参るまでは、私と共に横にいておいが、夜は別だ。よいな」
「はい、おとさま」
心細そうなカマルの声に、自分のふがいなさを情けなく思いながらニケは体から力が抜けていくのを感じていた。
荒い息を吐きながら寝込む妻の頬に指を滑らせて、アルトゥーロは目を細めた。ようやく足の怪我の療養も終わったところだというのに、急に冷え込んだせいか熱を出した妻の額には汗がじんわりと滲んでいる。熱病ほどの高い熱ではなく、薬師の調合した熱さましを飲んで少し落ち着いたが、気がかりであることに変わりはない。
しかも不幸なことに、信頼できる医師が一つ向こうの村落に往診に出ており、呼び戻そうにもこの吹雪では帰りは明日の朝になる。養い子はすでに隣室で休むようにと言い含め、アルトゥーロ自身も今晩は別室で床に就くことになっているが、その前にと様子を見に来ていたのだ。
ふるりと睫毛が震えて、濃い翡翠がアルトゥーロの影を捉える。
「アルトゥーロさま……申し訳ございません、ご迷惑を、」
「気にせず、養生に努めよ。明日には医師も参る」
「はい」
体がつらいのか、ほどなく少し落ち着いた寝息が聞こえてきたのに安堵しつつ、アルトゥーロは扉の方に注意を向けた。中を伺う気配からして、近衛の配下の者だろうということは分かっている。
妻を起こさないように足音を殺して寝室を出ると、次の間で見慣れた男が頭を下げていた。視線で言葉を促して、後ろ手に扉を閉める。
「……隊長、夜警に出ていたものたちが戻ってまいりましたので報告に参りました」
「残党か?」
「いえ、そちらの気配はないようです。……どうも野犬の群れが近辺にいるようでして」
「野犬?」
この北方にか、という疑問に部下も眉をひそめている。
決して北の山岳地帯に近いわけではないが、小型の狼という可能性もないわけではない。今回アルトゥーロたちが夜間に街道を行くことはないとはいえ、警戒はすべきなことに変わりはない。
「……医師の診察待ちになるが、明日か明後日まではこちらに逗留することになるだろう。必要なら討伐に兵を割いても構わん」
少人数とはいえ、反乱分子への警戒もあり近衛の精鋭が揃っている上に、離宮で侍従に紛れていた兵たちも一行から少し遅れて後に続いていく手筈となっており、合流するという選択肢がないわけではない。都へ戻る日は予定していたよりも二日か三日ほど遅れることになるだろうが、今のところ許容できる範囲の遅れで済んでいる。身動きが取れない間に野犬の対処程度ならばこなせるだろう。
アルトゥーロの指示に頷いて、部下は部屋を出ていく。宿の使用人にニケを任せ、アルトゥーロも自分の寝室へと足を向けた。