第五十八話 鉄の輪
離宮に滞在するのもあと数日という頃にはカマルものびのびと過ごせる環境を気に入ったのか、くつろいだ様子が見られるようになった。
伯爵家の屋敷では母屋に移ってからハルゥの家やニケの生家を訪うことができず、窮屈な思いをさせてしまっていたことを申し訳なく思いながら、夫と共に遠乗りへ向かう可愛い養い子の後ろ姿を見送る。意外にもカマルは馬の手綱を取るのが下手だった。
「ネグロペルラ夫人、あまり外に出られてはお体に触ります」
「そうですね、戻ります」
女官の言葉に頷いて、ゆっくりとではあるが自分の足で歩き出す。
温泉の力か足に負った傷はもうすっかり癒えてきており、車輪のついた椅子にも昨日別れを告げたところだ。それを一番に喜んだのは夫で、今朝方に日頃あまり感情の浮かぶことのない端正な顔に喜色が滲んでいるのが分かってしまったニケは、早朝から面はゆい気持ちになった。カマルは一度くらい椅子に乗ったニケを自分が押して動きたかったと喜びながらも複雑そうだったことは、あとあと義父に話したい思い出の一つになるだろう。
近衛を率いる地位にある夫が都から離れたこの離宮に滞在している間、ほとんど近衛の伝令が日を置かず都と往復して伝令を務めていたが、さすがに私的な手紙を彼らに託すことはできない。そう思っていたのだが、明日は伯爵家の使用人も別に離宮へ来る手筈となっており、ニケも夫と共に屋敷の近況を聞くことになっていた。その際に生家への手紙を託す許可も夫には取ってある。
(本当はお義父様にも手紙を書きたいけれど、お忙しいなら負担になるかしら)
離宮に来て以来、就寝前にはニケの部屋で暖炉を囲いながら夫やカマルと話すことが半ば習慣のようになりつつある。
その中で、都に残った義父の話を聞くこともあった――夫に気を遣わせているのは重々承知の上だがニケも、カマルも義父のことは気にかかっていたので止められない――が、一時の忙しさほどではないが登城することも多いという。
真に危うい情勢ならば夫が都を空けることは決して認められないだろうから、国の中枢としては北方がしばらくの間落ち着いていると判断しているのだろう――ただ、ニケが学のないなりにそう考えたとしても、果たして真実そうなのかは分からないし、ニケが夫に訊いてよいことでもない。
そのあたりのことを考えるならば、義父への手紙は差し控えた方がいいだろう、と少し寂しい気持ちになりながらも冷静に判断して、ニケはひとまず両親宛ての手紙を書くためにあれこれと考えを巡らせていった。
都から家人がやって来たという報せを女官から告げられたのは太陽が天頂を少し過ぎた頃合いで、ニケは午前中に書き上げた手紙を携えて隣室――夫の滞在している部屋だ――を訪れた。
遠乗りから帰ってきてさほど時間は経っていなかったが一度湯を使ったらしく、さっぱりした様子の夫は立ち上がるとニケの手をひいてカウチに導いてくれる。
離宮に来て以来、こうして夫はニケに躊躇いなく触れることが多くなった。最初こそ少し恥ずかしさもあったが、夫がそうすることでニケの胸の内には暖かいものが広がったし、ニケから手を伸ばすことも、少しずつだができるようになってきた。
暖炉近くの、一番大きなカウチに腰を下ろせば夫もこぶし二つほどの間を空けて隣に腰かける。
「今日はどちらまで行かれたんですか」
「……ここから北に一里ほど行ったところに鉄細工の有名な街がある。実用品が多く武官には好んで使う者も多い」
「そのようなところが? 知りませんでした」
都からの家人もすぐには来ないだろうと夫に遠乗りの話を振れば、ニケの知らない街の名が挙がった。
大きな街ではないと言って夫は目を眇める。
「……カマル、にセラピア隊長や義兄殿方への土産を選ばせた。手紙と共に運ばせるつもりだが、構わないか」
「私の家の方にですか……お気遣いいただいてありがとうございます」
「選んだのはあの子だ、後で話を聞いてやるといい。今は寝ているのか?」
「はい。湯あみをした後には舟を漕いでいましたので、寝かしつけました。」
少し前に湯を使ってからニケの部屋に帰ってきたカマルは大層興奮していたのだが、それ以上に眠そうだったので、ぐずるのをあやして寝かしつけたのだ。ニケが怪我をする前にはごく普通に独りで眠ることができるようになっていたので、ぐずるのをあやしつける、というのは本当に久しぶりのことだった。
こうして夫の話を聞けば、カマルはニケの父や兄弟に選んだ土産のことを話したかったのだろうと想像できる。カマルが起きたら話してくれるのを待とうと心に決めて、ニケは控えている女官に視線を向けた。
ニケより少し年を重ねているだろう彼女は意図を察したのか控えの間に下がる。そろそろ伯爵家の家人が来てもおかしくはない。夫も頷いてニケの方を向いていた身体をただす。
侍従の先触れに続いて現れたのは、ニケも見知った家宰見習いの青年――フォンスだった。幼い頃は夫の側仕えとして付いていた彼のことを夫は信頼していたし、ニケも伯爵家で暮らすうちに彼が夫に心酔しているのがひしひしと身に感じた。
そんなフォンスを見て、少し夫の口元がゆるむ。
「旦那様、奥様ご歓談のところ失礼いたします」
「よく来た。楽にするといい。早速だが家や屋敷で留守の間なにがあった」
「はい。大奥様と大旦那様、使用人の方に特に変わりはありません。旦那様の不在もありますので、社交の方は大奥様が取り仕切っておられます。大旦那様は連日ではありませんが、よく登城されておられますね」
義母と、義父の近況を報告するフォンスに夫は感情の見えない目で頷く。
国としての情勢不安から今シーズンの社交はやや控えめになるということだったが、春先ほどではないにせよ、やはり年の暮れを目前にすると活発になる。
都を発つ際に見送りに経ってくれた義母からは養生のことだけを考えるようにと言われたものの、申し訳ない気持ちの方が勝った。
「冬の備えは」
「燃料や聖誕祭の祝い支度は昨年と同じように買い付けてあります。屋敷の改装の方も先日終わりまして、万事つつがなく」
「よくやってくれた。蔵に領地から納められた葡萄酒があったはずだ。私が戻る前にそれで労いを」
「かしこまりました」
ニケが口を出すこともなく報告は終わってしまった。ともあれ、何事も起こらなかったのは安心できることだった。
フォンスに書いた手紙と、生家宛ての荷を託す。近衛の伝令と共に街道を馬で駆けて帰るというフォンスは、明日の晩までには都に着くはずらしい。
「忙しいとは思いますが、よろしくお願いしますねフォンス」
「奥様も回復されたようで安心いたしました。お帰りをお待ちしております」
にっこりと笑ってフォンスは部屋を出る。続いて近衛の伝令が報告に来るというので、席を外そうとしたニケを夫が引き留めた。
「アルトゥーロ様?」
上げようとした腰をまたカウチに任せたニケに手を伸ばし、夫が袷から小さな鉄色の塊を取り出す。
夫は指輪よりも大きなそれをニケの手のひらに乗せる。つまみ上げて灯りに近付ければ、鈍く輝く表面には樹木のモチーフが彫られているのが分かる。重さとしては鉄だろう。
ただ、もの自体が小さいためにモチーフが何なのかはニケにはよく分からなかった。
「これは?」
「指ぬきだ。刺繍や……針を使う時にあると便利だと聞いた。菩提樹の模様が彫りこんである」
「私に、ですか?」
「……私には針は使えぬ」
ふい、と顔を背けた夫におかしくなって、ニケは笑いをこらえきれなかった。女官が下がっていて良かったと思う。ニケのこんな姿も、夫の照れた姿も見られずに済んだ。
菩提樹模様の指ぬきを大事に握りしめて、ニケは夫の名を呼ぶ。
また鹿の模様を刺しますね、と告げれば間を置かずに頷きが一つ返ってくる。
(かわいらしい……言えないけれど)
とてもいい気分だった。不思議なくらいに。
こらえきれない笑い声がこぼれていく。
(アルトゥーロ様が好き、ってこういう気持ちなんだと思うわ)
市井で流行の、激しい恋物語のような熱情はなくとも。夫がニケを幸せにしてくれて、ニケも夫にそうしたい。それで十分だ。
「ありがとうございます、アルトゥーロ様」