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第五十七話 一歩



 離宮の中でも奥まったところにある一角には、温水が湧きだす場所――温泉があり、逗留しているニケも療養の一環として二、三日に一度は身を浸している湯がある。少し独特のにおいがあるせいか、カマルは最初の一度きりだけこの場所に来てからは近付こうともしないが。

 今日も不服そうな顔でニケの部屋に残ったカマルに見送られ、ニケは湯につかりに来ていた。女官達の手を借りて薄絹を纏ったまま身を湯の中へ沈めれば、何とも言えぬ心地よさに包まれる。気を抜けば変な声さえ出てしまうのではないかと思いつつ、ニケはゆっくりと足を伸ばす。

 傷を覆っていた瘡蓋も取れ、ひきつれたような桃色の痕が走る脚だが、もう歩くことには支障がない。たまにひどく冷え込んだ日に痛みを感じる程度だ。むしろ無意識に怪我した方を庇って動いてしまうせいで、無事な方が疲れてさえいるかもしれない。

 湯のあたたかさに疲れがほどけて消えていくような心地で目を閉じた。


 ――今朝方の朝食の席で、離宮に戻ってきた夫の口から都に戻る具体的な日取りを告げられた。何事もなければ、夫もニケやカマルと共にゆっくりと帰路につく手筈で進んでいるそうだ。

 かつて都と離宮とを結んでいた街道があればもう少しこちらに留まることもできたがと話した夫に、ニケは初めて行きに通った街道が遠回りであったことを知った。なんでも、最短で都と離宮とを結ぶ街道が夏の終わりの大雨で道が崩れたまま、雪の季節を迎えたために今年は封鎖されているのだという。単騎駆けならばともかく馬車が往来できるようなほどの道幅はないようで、行きは少し逸れた経路を使ったらしい。

 街道が無事であれば馬車でも一日かかるかかからないかといった距離なのだそうで、また来る機会があるのなら、今度はそちらの街道を通ってみたいものだとニケは思う。というのも、かつての寵姫のための離宮とあって先王陛下はここにいたる街道までも美しく整備されたのだそうだ。ニケはついぞ知らなかったが、貴族の間では婚約者や想い人と遠出するのには外せない場所だという。これは夫ではなく、ニケに一番年の近い女官が教えてくれたことなのだが。


 湯あみを終えて、冷たい外気で体が冷えぬようにと念入りに肌に残る水を拭い去り、毛織物や毛皮に身をくるまれて、また滞在している部屋に戻るべく歩みを進める。もうほとんど椅子を使うこともなくなってきていて、温泉の効果はあったといえるだろう。

 長い回廊は柱だけでなく壁もある、回廊というよりは室内といった風の造りをしているおかげで、直接風や雪に襲われることはないものの、毛織物の上からもするどい寒さが身を襲ってくる。それでも毛織物などが敷かれており、足元から這い上がってくる寒さを抑えていた。鈍く響く足音が、ずっと奥の音まで響いては消えていく。――広い離宮とはいえ、今ここに滞在しているのはニケ達だけというこのうえない贅沢な「療養」に、まったく思うところがないわけではない。


 政治のことには疎いどころか遠い暮らしを送ってきたニケでも、この時期に夫がわざわざ都を離れた離宮に、それも妻の療養への付き添いなどという名目で滞在することの不自然さくらいは理解できた。きっと、活気づくやもしれぬ残党をおびき寄せることができれば上々、程度の思惑はあるのだろう。ニケはいうなれば疑似餌、といったところだろうか。


(単体では、弱すぎる餌なのでしょうけれど)


 ニケが餌としての価値を持つのは「近衛を預かるネグロペルラ隊長の妻」としての役どころでの話だ。子が生まれない限りは、それくらいの利用価値しかない。だからこその夫の同行だったのだろう。

 このことを承諾したのだろう、ひょっとしたら提案したのかもしれない夫をひどいとは、どうしてか思わなかった。屋敷でただ過ごしただけの二年間よりも、今の方がよいとさえ感じるのは不思議な、おかしな話だ。


 ――心にのしかかるのは、自分のことよりもカマルのことだ。

 巻き込んでしまっていることは確かで、あの子に窮屈な思いをさせないようなのびのびとした環境を与えてやることができたらと、何度も思ったことがある。ニケが今の立場にいる間にそれを叶えられるかは、難しいだろう。


(でもあの子を手放したくはないと思ってしまっている……)


 母と慕ってくれる子どもの手を取らずにはいられない。それはニケの執着だ。カマルと義父とに執着して、依存している。そんな自分を分かっているのに改めることができないだなんて、幼子のようだ。

 箱庭しか知らないままでいられたら、きっとよかったのだろうか。


 否、と心の奥で首をもたげるものがある。


(――いいえ。これは、私の戦いというもの)


 欲しいものは戦ってでも、掴み取る。

 これが、ニケが父や兄弟たちから教わった教訓だ。

 兄弟で唯一の女だからと甘やかされていたが、それでもニケは街育ちの、武官の娘だ。箱庭や温室の花ほど、たおやかな女ではない。


(欲しいから、戦う。あがく。簡単な話で……難しい、こと。でも難しいことが挑戦しない理由にはならない)


 根気強く何かをすることは、苦手ではない。やらなければ守れないというのなら、守って戦って、欲しいものを手にするだけだ。

 いつかの夜会で、たおやかな公爵家の令嬢が浮かべていた笑みを思い出す。きっとあんなに綺麗な「戦い」ではないだろうけれど、ニケの戦場は定まった。


「……足を止めれば、そこで終わり」


 呟いた言葉は、少し震えて、溶けた。





 『近く』で起こった騒ぎに、カマルはぴくりと反応して同じ部屋で椅子に腰かけていた青年を見る。疑問を乗せた視線に頷きが返されたことに、困惑しながらも方角的に母とは遠いことを耳で確認して、椅子から降りた。


「かかさまをお迎えしてきます」

「……侍従を向かわせている」

「目で見ないと、安心できません」


 じじさまの教えを口にすれば、青年――かかさまの『旦那様』なのでととさまだ――は頷きを重ねる。

 この人が強いことは、見たことがないけれども分かる。ハルゥの教えで『研がれた』、獣人の本能がそれを告げている。


つがいのオスが強いということは、メスを守りうるということだ。オスの役目はメスと仔と、縄張りを守ること。それをなしうるのがいいオスだ。


(かかさまがけがをした、のは群れのしっぱいだ)


 オスは強いが、群れを十分に率いることができなかった。群れを率いるオスは、絶対的に下位のオスを従わせなければならない。群れを守るために。乱れた群れは群れの意味をなさない。失敗の末に死ぬのは――弱い個体だ。


(かかさまは強くない。カマルももうすぐ抱っこができるくらいに軽いし、今は『手負い』だもの。群れじゃなくて、カマルが守らないと)


 ゆったりとした袖の、口の部分を握りしめる。邪魔な袖でも、戦うことには支障にならない。自分が『獣人』で、『人』とは違うことをカマルはもう分かっていたし、まだ細い腕がどれほどの力を持っているのかも知っている。


(もう、泣くだけじゃないんだ)

 

 暗くて冷たくて狭いところで体を丸めていた、ぼんやりとした記憶はもう随分と薄れてしまったけれど、カマルの奥底にそれがあることには変わりがない。

 あの時に比べれば、カマル自身まだ一人前だとは言えないまでも随分と力を手にした。


 耳を立てて、神経を研ぎ澄ます。

 床に敷かれた石の反響音は今日のような静かな日にはよく響く。カマルの耳は騒ぎとは遠い方角からゆっくりと返ってくる音のかたまりを捉えていた。


「かかさま」


 ぐっと毛足の長い絨毯の敷き詰められた床を蹴る。蹴るようにして歩き出す――音もなく。


(今度はちゃんと、守るからね)


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