第五十六話 慰撫
北の離宮に比べればまだ温かいとはいえ、都にも雪は降る。
吐いた息が白くけぶるのに寒さを感じた自分に、サイードはため息をつきたくなった。かつては髪や髭さえ凍る北の戦場で剣をふるっていたというのに、年月の流れは残酷なものだった。一度病を得て以来、老いというものを感じるようになった。
ニケが都を発つ前にあれこれと差配して寄越した暖かな上着に袖を通し、迎えの馬車を待つ間に外套を羽織る。落ち着いた深緑のそれはカマルと揃いの布で誂えたものだ。
「お、大旦那様、城からの迎えの者が門に参りました」
少しのおそれか、怯えを滲ませてまだ見習いを経て日の浅いだろう侍女がサイードに迎えの到着を報せにきた。ニケが息子――近衛隊を預かるアルトゥーロに恨みを持った勢力の標的になり、足に怪我を負った日から、サイードも離れではなく母屋に戻っているが、相も変わらず腫物に触るような扱いだった。
(腫物は腫物に違いないが)
心の鼓を悪くしなければ、きっと今でも屋敷に寄りつくことはなく城と宿舎と、育ての母が守る小さな家とを往復する日々を過ごしていただろうという確信がサイードにはあった。二十年以上の年月でも埋めることのできない溝だ。
びくつくまだ若い侍女に頷いて見送りなどはいらないと命じ、サイードは歩き出した。かつて妻の父が使っていた部屋は奥まったところにあり、すぐには門までたどり着けない。伯爵家が所領に居城を置かず、都の屋敷を本邸としていることもあって他の貴族に比べてもネグロペルラ伯爵邸は広い敷地を有し、館そのものも大きい。
使用人の手で埃一つなく整えられた廊下で、ほとんど殺した足音がかすかに反響する。石を敷いてあるために今はわずかに響く音も、土の上なら獣人の耳でもない限りは聞こえないだろう。
そのせい、だろうか。
もうずいぶんと久しく顔を合わせていない妻に廊下の曲がり角で出くわした時に、彼女が嫌悪よりも意表を突かれたような、強張った顔を浮かべていたのは。
「…………あら」
「あぁ」
正直なところ、サイードは妻と話すのが得意ではない。
元々口数の多い方ではないとはいかないまでも、下町で育って軍でもまれたたたき上げだ。地の口調は、なんだかんだ貴族としての教養も仕込まれていたニケにもきっと驚かれるだろう程度には悪い。処世術としてとりあえず黙っておけと数少ない育ちのいい友人たちにも口を揃えて言われた程度には。
だからこそ、生まれながらに由緒正しい伯爵家の、血を辿れば王家にも繋がるのだという妻の前では不用意に口を開くまいというのが二十数年前に決めたサイードの基本方針でもあった。
「……」
「……ごきげんよう」
「あぁ」
干潟に取り残された貝のように、一瞬口を開けてまたぴったりと閉じるサイードに気分を害したのか柳眉がひそめられる。
年の割には、という形容を使うまでもなく妻は美しい女だった。どこまでも貴族的な。まだ少女だったあの頃と同じく人形のような面差しは歪めぬままに、苛烈な性情を唯一反映した黒曜の瞳がうっすらと赤を映す。
「……城はあなたには息苦しいのではなくって」
「……まぁ、二十年近く詰めれば慣れるものもある」
つい、と細められた目に相変わらず何が気に障るのは読めない女だと思いつつサイードはため息をついた。そう言えば普段は妻の周囲には数人侍女や他の使用人が控えているはずだが、今日は珍しくその姿が見えなかった。
ニケの一件以来息子は屋敷の警備を強めてはいるが、不用心だった。
「部屋に戻ったらどうだ」
「わたくしの屋敷であなたにそう言われる覚えはないのだけれど」
「それは確かに。……今晩は戻らん予定だ」
顔を上げた妻にサイードは首肯する。
子育て中の母親しかり、気の立った女に下手に近付けば割を食うというのはよく知られた話だ。それ以上に息子が今は離宮へ赴いていることもあってどうも近衛が浮ついている。まだ若い国王や他の側近が御しきれないということもなかろうが、旧知の軍部大臣から要請があって訓練場の視察をすることになっている。帰りは遅くなることを考えれば、無理はせず城か宿舎あたりで一泊するのが良策だった。
一応は気を遣ってそう口にしたのだが、妻の目は不機嫌さを表すかのように眇められるばかりだ。この点では温厚な性情の義理の娘が恋しく思われる。
きし、と悲鳴を上げたのは妻の手に握られた扇だ。視線を妻に戻せば、紅の引かれた薄めの唇が歪む。
「ニケさんが不在の間とはいえ……慎まれてはどうです」
そう言い捨てて妻はくるりと踵を返して、サイードが立ちすくむ間に適当な部屋に入ったのか姿が見えなくなる。
(この場合の慎む、はどういう意味だ……?)
妻の意を測り兼ねるサイードが、いつになっても門に来ないことを心配した侍女が様子を伺いに来るまで、サイードは首を捻っていた。
心地よい暖かさの中、眠りから目覚めたニケは隣で共寝していたはずの夫の姿がないことに気付いた。目覚める少し前のまどろみの中でも寒さを感じた覚えはなく、おそらくはニケが起きるずっと前に夫は出て行ってしまったのだろう。
それを少し寂しく思いながらも枕元のチェストに置かれたベルを鳴らせば、ほどなく馴染みの女官が寝所に現れる。
ニケよりいくつか年嵩の女官は見事な挙措で寝台の近くに来るとすっと頭を下げた。
「おはようございます夫人」
「ええおはよう。夫はどちらに?」
「朝駆けに赴かれました。朝食を共にと言付かっております」
「分かりました。戻られるのはいつごろかしら」
女官が口にした時刻までには十分時間があるだろうことを確認してニケは頷く。身支度を整えた後に何かするには短いが、ゆっくりと朝を過ごすには少し長いかもしれない。
書庫から書物や詩集のひとつでも運んでもらおうかと思案していたニケの耳に続きの間がざわついているのが聞こえた。女官達の抑え気味な声に交じって澄んだ通りのいい声が混じっているのが分かったニケの口が綻ぶ。
「カマルね」
「今日は早く目覚められたようです。どうなさいますか」
「少ししたら行くと伝えてちょうだい。身支度をしたら行くからと」
一旦退室した女官と入れ違いに何人かの年若い女官が手水や昼間に着用するドレスを捧げ持って入ってくる。形式的な挨拶のやり取りに応じながら、ニケは窓越しにやわらかな光を投げかける冬の空に視線をやった。ここ数日では珍しく雲の少ない青い空が広がっており、夫の帰還もずれ込むことはないだろう。
差し出される水の冷たさに、まだどこかぼんやりとしていた頭が冴えていく。
(さぁ、支度をしなければ)
カマルが待っているし――夫を待ちたい。
自分の考えに面はゆくなりながら、ニケは水を飲みほした。
伯爵家の離れにいる時とは違って簡素な服装で済ます訳にはいかず、朝からしっかりと――ニケの基準からしては、という意味でだが――化粧をし、襟の高い、手首までをすっぽりと覆うドレスを身に付ける。低い位置で編んだ髪を纏め、いつかの翡翠の髪飾りをそこに挿して続きの間に行くまでに随分と時間がかかったような気がした。けれどこれでも療養中の身ということもあって女官達が普段行っている貴婦人の身支度に比べれば簡略になっているのだという。
傷を負った足で無理はしないようにと言われているが、逆に全く歩かずに過ごすのも良くないということ医師から告げられて承知しているニケは、車輪のついた椅子を寝所ではなく続きの間に置いている。滞在中に使っている部屋の中ではなるべく自分の足歩くようにしているからだ。
ゆえに身支度が終わって続きの間に行くのにも一々椅子を運ばせることはせず、女官の差し出した手を取って立ち上がり、自分の足で歩こうとしていた。
しかし、ニケが一歩踏み出すよりも前に寝所の扉が弾かれたように開く。その先にあるのは案の定待ちきれなかったらしい我が子の姿で、足音や衣擦れの音からニケが扉のすぐ向こうに来ていたことが分かったのだろう。
「おはようございますかかさま!」
「おはようカマル」
声を弾ませたカマルの大きな三角耳がぴょこんと立つのが愛らしく、自然と笑みがこぼれる。
屋敷の離れにいる時のように、抱き着いてくることはないが、離宮で手持無沙汰な時はニケの側に――怪我を負っていない方に――ぴったりとくっついているのがカマルの常だ。外に出れないほどではないが、都に比べれば随分と雪が深いこの離宮ではなかなか走り回れるようなこともない。
夏とは違い、冬の寒さは平気なのかカマルは平然としているがもし熱でも出したらとニケがつい過保護になってしまっているせいもあるのかもしれない。ニケ自身、どうにも時間を持て余してしまっていてついカマルに目が行きがちになるのだ。
夫がまだ戻る気配がないと侍女に告げられ、カマルと共に簡単な朝食を取る。北の方から取り寄せたのだと言う赤い根菜のスープは色味の割に口に合い、都でも根菜さえ手に入ればまた作ってみるのもよさそうだった。義父は何年も前の北方戦線を率いた際にこんなスープを食べていたのだろうか。戦場だからと、口にすることはなかったかもしれない。
(お義父さまは体調を崩されてはいないかしら……)
こちらに来てから纏わりつく不安に、ニケは顔を曇らせた。
ニケの負傷以来、カマルと義父も屋敷の母屋の方に移ってはいたのだが、静養のためにとさらに北方の離宮に移ることとなったニケ達とは異なり、義父は今も都の屋敷にいる。それも反国王派の動きに対する懸念もあって、義父は城に詰めている折だ。病を得て療養中の身だというのに、大丈夫なのだろうかと一度首をもたげた不安はなかなか収まってくれず、ニケは目を伏せる。
予定ではあと十日ほど離宮に滞在することになっている。勿論、近衛を率いる夫は何かあればすぐに都に戻る手筈にはなっているが、ニケが都に戻るのは十日後、それもこの雪の降る冬に、多くはないとはいえ護衛を連れ馬車に乗っていく。夫が急げば一昼夜で駆ける街道をおよそ三日か四日ほど余計にかけなければならないだろう。――万が一のことがあった時には不安な距離だ。
(つつがなくお過ごしならば、いいのだけれど)
女官の、夫が離宮に戻ったという言伝に頷きながらニケはカマルのまろい頬をなぞる。
「お父様をお迎えしましょうか、カマル」