第五十五話 告白
ニケの言葉に夫はなにも返さない。沈黙が何よりの答えだった。
――平民同然ともいえる暮らしをしてきたニケにとって、名門であり権勢も備えた伯爵家の暮らしにはすぐに馴染むことができなかった。
息をするように人を使うことも、当然のこととして与えられた豪奢な品々も、ほぼすべてが。
以前のように朝早くに起きて母と共に朝食の支度をして家族を送り出し、当直から返ってきた家族から汚れ物を受け取って一度では干しきれない量の洗濯を日に何度もこなし、繕い物を片付けては小遣い稼ぎとして請け負っていた刺繍やレース編みをして、弟達のうち誰かを連れて市場に買い物に行って、あっという間に次の食事の準備をして。
時間に追われていた数年前までの暮らしとは正反対の、少女達が好む恋物語の主人公のような暮らしに、ニケだって憧れたことがなかったわけではない。
けれど伯爵家に馴染むことができなかったのは、居心地が悪かったのは貴族としての責務に否応なしに向き合わされたからだ。
セラピアの家は男のほとんどが軍に仕官していくが、それは決して貴族の責務を感じてというのが理由ではない。むしろ、明日の食い扶持を稼ぐためにはそれが一番手っ取り早い手段だから、国のためというよりも自分や家族のために男達は剣を取り、女はそれを支えていた。
反対にネグロペルラの家は国のため、貴族としての責務のために文武で王に仕えるのだという気概が、はっきりと言うことはなくとも端々からそれが滲み出ているような家風で、張りつめたその空気にニケは息がつまりそうだった。
婿であった義父に変わって屋敷を取り纏めていた義母の存在があるからと、伯爵家に馴染もうとする努力しかしなかった。所詮平民同然の育ちだからとどこかで自分を卑下して、遠慮しているような体で、逃げたのだ。
生家が弱小貴族であるニケが婚姻を結んだ夫のためにできることは、貴族の妻らしい行いをしていくことしかなかったというのに。有力貴族の娘なら、婚姻を結んだこと自体に意味がある。ニケでは決して夫に捧げられないものだ。ニケにできるのは夫を支え、夫が守ろうとしているネグロペルラの家を盛り立てて、繋いでいくことだ。
果たして自分にできるのかも分からない。
――それでも、今のニケの望みはその先にあるような気がしていた。
「アルトゥーロ様」
囁くように、ニケは夫の名を口にした。婚姻から三年以上も経って、ようやく呼べた名前を。
共に寝台に横たわっている今なら、吐息に限りなく近い声でも夫の耳には相違なく届いたことだろう。応えの代わりにかひんやりとした指がニケの頬をすべる。伯爵となる身でありながら傷やタコの目立つ節くれだった夫の指が、夫の積んできた研鑽と、払ってきた犠牲の証なのだと思えば閉じていたはずの唇の合間から息が零れ落ちる。
ひどい人だと思ったことがないと言えば、きっとそれは嘘になっただろう。
「……ずっと、お聞きしたいことがありました。どうしてアルトゥーロ様が、私を妻にすることにしたのでしょうかと。酒の席の、父の戯言を拾い上げられたのかと。婚姻のあとも、それがずっと不思議で、でも、お聞きできなくて」
かつて、ほんの一時だけ自分の上司であった男の戯言など、一蹴したところで何の害にもならなかった。むしろ場所が違えばニケの父の方が不敬だと咎められたかもしれないような、そんな類の戯言を、ニケを嫁にもらわないかだなんて戯言を、夫が拾い上げたその訳が、ニケにはずっと分からなかった。
「怖くて……夢を見てるんじゃないか、なら覚めないで欲しいと」
迎え入れられた伯爵家で、好きにすればいいと夫に告げられ、忘れ去られたように置き去りにされて、自分から歩み寄る勇気もなく。ならいっそ、ぬるま湯のままでと願っていた。
――それを変えるきっかけをくれたのが、カマルと義父だった。
離れでの三人の暮らしはそれこそ夢の延長にあるような箱庭のようなもので、あんまりにもそれが幸せだからこそ、ニケはその幸せが薄氷の上に成り立っていることを意識せざるを得なかった。
今のままではダメになってしまう先が見えて、踏み出すしかなくなった。
「だから今更ですが一つ、教えていただきたいのです。私は、ニケはアルトゥーロ様の妻としてお傍にいてもいいのでしょうか。家族になりたいと願うことを今更、」
そこから先は言葉にならなかった。
ニケの身体は引き寄せられて夫の腕の中に収められ、そのおかげで顔も夫の胸に押し付けられてしまったからだ。
どうしたものかと反射的に身を固めたニケの耳に、息を殺して絞り出したような夫の声が落ちてくる。
「あぁ……あぁ。詫びるのは、詫びなければいけないのは私の方だ。お前を母上のようにはすまいと思っていたのに、政情のために傍にいることもなく屋敷を空けていた。落ち着いた頃には、お前が笑うことも少なくなっていて、選んだ俺のせいなのだと突きつけられているようで、どうしたらいいのかと」
ニケは夫がこれほど一息に長く話すのを初めて聞いた、と思った。元々口数の少ない人ではあるが、ニケと深く話す機会もそうなかった。言葉を選ぶというよりは溢れてきたものを掬い取って零れないように、言葉が流れ込んでくる。
「離れに……あの人と、子と移ってお前がまた笑うようになったのを、見ていた。欲が出て、手が伸びた」
まるで罪人が告解するように夫の声色が張りつめているものだから、ニケはたまらなくなって左手を夫の胸に当てた。夜着越しとはいえあたたかな体温に、張りつめていたものが解けていくのがわかる。
欲が出たのはニケもだった。夫が屋敷に帰ってくるようになって、伯爵家にとっては余計な真似でしかないようなニケの振る舞いを許容してくれて、ニケの話に耳を傾けてくれて。
二年の空白を埋めるかのように、春から夫もニケもひょっとしたら他にもいろいろなものが変わり始めた。
「手を……取ってもいいでしょうか」
深窓の令嬢のような繊手ではないけれど。剣を取る大切な手に指に、自らのそれを絡めたいと願うことが許されるなら。――これから、ずっとあの屋敷で夫が帰ってくることを疑わずに待てると、ニケは自分で分かっていた。
激しい一目ぼれのような恋情も、互いを利するような政略も二人の間に存在してはいなかった。けれどそんなものがなくても、一緒に歩いて行きたいと思えるこの気持ちに、こっそりとなら大仰な名をつけることくらい神様も許してくださるだろう。
音もなく重ねられた手が、夫の答えだった。
冷え込んだ夜に降ったのか、都でも雪が積もった日にサイードは一人身支度を整えていた。
日頃なにかれと自分を気遣ってくれる義娘はかわいい孫を連れて療養のため北に赴いている。年若い現王や息子の策などサイードには透けて見えたが、同時にあの息子なりに妻のことを大切にしようとしているのは今回の一件で思い知らされた。
(ニケの心労を減らすためなら意に沿わなくても俺もカマルも母屋の方に戻すわ、家宰に命じて使用人に統制かけるわ、いきなり一皮むけたというか、遠慮しなくなったというか……つくづく男ってのは惚れた女には弱いというやつは真理だな)
なんだかんだと義理堅いところの見受けられる息子が、かつての上司であったロベルト――ニケの父からの話を断るのもかえって、と流されてしまったのだと思っていたが、このところの様子を見ている限りではどうも渡りに舟だと息子から話に乗っていた公算が高い。経緯を巡って立つだろう悪い噂よりも実を取るあたりはよくも悪くも武官といえる。
互いに疎遠なのを承知している息子よりも短いとはいえ濃い付き合いをしたニケが幸せになってくれればいいのだが、それがあの息子のさじ加減次第なのが気がかりと言えば気がかりではある。頼んでもいないのに息子の話題が寄せられるサイードの元には、意図せずともいろいろな情報があったからこそ、余計に。
真理が真理のままであるならば、きっとカマルのことだって上手くいく。もしダメになりそうでも、貴族社会より獣人に寛容な軍の伝手を使えばどうにかなるだろうとサイードの中の理性的な部分は答えを出していた。万が一カマルがこの伯爵家にいられなくなる日が来ても、次点にはニケの生家であるセラピアの家がある。そして、自分ならば他の場所も用意してやれる。
このところ登城する日が多くあらたまった格好をせざるを得ない日が続いていたが、せっかく登城の必要がない日までこうして襟元の詰まった服を着るのは窮屈極まりないと思いながらボタンを上まで留める。
半年以上療養生活を送っていた体は鈍り、ずいぶんと筋肉も落ちた。
――それだけではない衰えも、サイードには分かっていた。
「半年、なぁ……」
がり、と頭を掻いて宙を見る。
サイードが願うことは数少ないが、その中で叶ったことなど数えるほどだ。
常勝だなんてもてはやされたところで自分がいわゆる運のない方、というよりむしろ幸の薄い方に分類されるのはこれまでの四十年以上の年月が否応なしに思い知らせてくれたのだから。
「頭使うのは俺の仕事じゃないんだが、やるだけやるか」