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第五十四話 ささめきごと

 兎と鹿が晩餐に供された夜、ニケは城から派遣された医師の診察を受けていた。本来ならば昼間に行うそれが、どうしてか今日ばかりは夜にずれ込んだことを不思議に思いつつ、女官らも付き添う中でニケは裾を上げて脚を医師の手に預ける。

 既に剣で負わされた傷は塞がり、そこを覆っていたかさぶたも剥がれ落ちている。ただ少し筋が傷ついていたこともあり、車輪のついた椅子を使うようにと言い渡されていた。完全にはいえていないそこは桃色の筋となってニケの左足の、ふとももを斜めに走っている。場所が場所だけに出血は多かったものの、後を引くことはないだろうとの診断を受けていることが幸いだった。


 時折ニケに脚を曲げ伸ばしするように指示しては骨や筋の具合を確認し、医師はこくりと頷く。国王の侍医の一番弟子なのだという彼は夫とも顔見知りであるらしく、彼の方が十近く年上であったもののよく話している姿を見ていた。

 仕事場になど出入りできるはずもないニケが、夫にとって幼馴染同然であるリュシオン以外と夫が親しくしている――決して仕事上の付き合いだけではないだろうと窺える、という意味で――相手を直に見たのは初めてのことだ。

 ニケがついつい医師の顔を見つめてしまっている間も彼の目は傷跡に向けられ、ほどなく彼が身を引いて立ち上がった。診察が終わった、という合図に控えていた女官がニケの夜着をさっと下ろす。足首まですっぽりと覆い隠された両足に、それでもまだと言わんばかりに分厚い毛織物のひざ掛けが重ねられた。

 身支度が整えられたところで、カマルと共に続きの間で診察が終わるのを待っていた夫が女官に続いて寝室に入ってくる。カマルの姿がないのは、待っている間に眠ってしまったのだろう。無理もない時刻だった。ニケの枕元に置かれたカウチに腰を下ろして、夫は医師の顔を見る。


「経過は」

「順調です。もう椅子を使わなくとも少し歩く程度ならば問題ないでしょう。長い時間立ち続けたり、怪我を負われた左足に負担をかけ続けるようなことはしばらく避けるのがよいでしょうが。夜会は欠席されるのがよいかと」

「あいわかった」


 いかめしく頷いた夫に何故か苦笑して医師はニケに礼をして部屋を去る。女官も一人を残して、共に部屋を出て行った。残る一人が紅茶の用意をするために一度席を外し、部屋にはニケと夫の二人だけになる。

 晩餐を終え、簡素なしつらえの服に袖を通している夫の顔は、何故か険しい。都からよくない報せでももたらされたのかと思い、ニケは少し重い口を開いた。


「アルトゥーロ様、今日はお疲れのようですし、早くお休みになられては」


 医師の診察を受けることと、この時間ということもあって既に夜着を身に纏っているニケと異なり、夫は略装ながらも常服であった。寝台に入るとなればもう一度湯を使うか、そうでなくとも着替える必要がある。それを考えるとあまりこの部屋に長居するのもよくないだろうと思い、ニケはそう口にしたのだが予想に反して夫はいや、と首を横に振った。

 紅茶を載せたトレイを手に女官が部屋に戻ってきて、二人の間にある小さな丸いテーブルに紅茶を置く。彼女が下がろうとするのを夫が呼び止める。


「今夜はここで休む。支度を」

「かしこまりました」


 まるでなにか摘まむものを、とでも申し付けられたかのように一切動じることなく首肯した女官と、静かに紅茶を口に運んでいる夫との間をニケの視線が行き来する。あまりに二人が平然としているせいで、聞き間違いでもしたのかと思いたくなるがどうもそうではないようだ。

 するするとまた部屋を後にした女官を見送る。ニケの滞在している間では床に絨毯が敷き詰められているため、足音は響かない。代わりにかちゃりとカップとソーサーがぶつかる音がして、ニケは夫の顔を見上げた。


「……」

「……寄り添って眠るだけだ」


 少しの沈黙の後、ぽつりと夫から発せられた言葉に何故かニケは体が跳ねたような気がした。わずかばかりとはいえ気まずさも感じてしまい、それをかみ殺すようにぐっと唇を引き結ぶ。一度ニケも紅茶を口に運んで、乾いた口内を潤した。


「……そうですか。着替えられますか?」

「いや。今夜はこのままでよい」


 そうですか、と言葉を繰り返し、ニケはまだ紅茶の残るカップをソーサーに置いた。野薔薇の絵付けがされた、細い持ち手の優美な曲線が美しいそれを、夫の無骨な指が持っているのが目に入って、口元が綻ぶ。義母の血を色濃く引いていることもあって一見貴族然とした雰囲気の感じられる容姿の夫の、一番目につきやすい武官らしさの象徴は硬く筋張った指ではないかと、常々ニケは思っている。勿論恵まれた体格や、隙のない身のこなしも武官らしいところではあるのだが。

 それにしてもニケの怪我もあって、こうして二人で同じ寝台に入って夜を明かそうというのは久々のことだった。最後がいつであったかの記憶は定かではないものの、一月近くはとうに過ぎているはずだ。夫が仕事の合間を縫っては以前以上に屋敷に戻ってくることが多くなっていたのもあってあまりそのことについてニケが考えることはなかった。ニケの怪我が完治したわけではないので、いわば添い寝という形になるのだが夫と床を共にするのは少し気恥ずかしいような気がした。


 不思議なことだ、と思いつつもニケは手をついて腰を浮かせ、寝台の奥の方へと身体を移動させる。手前側にぽっかりと空いた場所へ、夫が腰かける。


「……大丈夫か」

「広いですもの、落ちたりはしませんわ」


 二人が横になろうともまだずいぶんと余裕のある寝台の上では、少し端に寄ったところで端から転げ落ちる心配もない。下手をすれば三人か四人が並んで寝ることができるのではないかとニケが思うほどには、寝台は大きいものだった。伯爵家の寝台も、ニケの生家のそれに比べれば二回り以上大きなものだったが、この離宮ではそれ以上だ。

 ニケの身体の上に何枚も重ねられていた毛織物の端を掴み自分の方にまくり上げれば、必要な灯り以外を自ら落とした夫がニケの隣に収まる。いつの間にか、いつも夫が身に付けている護身用の短剣は枕元へとやられていた。

 天蓋から吊るされている薄紗も降りていて、途端に視界が狭くなる。二人とも口を開かないせいで、鳥の鳴く音が遠くから聞こえてきそうな静けさが広がった。


(……気まずい、というわけではないのだけれど)


 添い寝など嫁ぐ前に末の弟や甥姪たちにしてやったくらいで、嫁いできてからはたまにカマルが寝付けない時にすることはあったが、以前のそれに比べれば少ない。なにより、夫のような成人した相手と添い寝することなど、子どもではないのだから経験していようはずもなく――普段とは違う夜の過ごし方に、ニケが戸惑うのも無理のないことだった。

 身体を重ねるよりも恥ずかしいのではないか、と思いつつも、夫がいることで普段よりも暖かな寝台は微睡むのに十分で、羞恥よりも眠気の方が勝ろうとしていた時に唐突に夫の声がした。


「――すまない」


 何に対する詫びなのかと考えることもなく、ニケはいいえと返していた。

 都にいる頃に件の暴漢が、かつて夫が王命によって粛清した貴族の一派であったことは既に聞かされていた。まだニケが夫に嫁いで間もなくの、夫が近衛の仕事に今以上に忙殺されていた頃の勅命だったのだという。治世が安定しているとは未だ言い難い王のため、側近である夫が手を汚すことは一度や二度のことではなかっただろう。ニケも軍人の家に生まれた娘として、それを忌むべきこととするような考えは毛頭ない。

 けれど夫は今回の一件をひどく気にしているようで、王直々にニケの療養に同行するよう休暇が言い渡された、その原因の一つにはそのような夫の気落ちがあったのではないだろうかと、ニケは密かに推測していた。


「私が今も、今までも平穏無事に暮らしていたのはアルトゥーロ様が近衛のお務めをはたしてこられたからこそ、でしょう。アルトゥーロ様は正しい行いをされたのです。……むしろ、私の方が」


 はぁ、と零した溜息が薄紗で四方を覆われた寝台の中で、やけに響いた。

 むしろ悪いのは自分の方なのだと、ニケは分かっていた。



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