第五十三話 雪の下で
時は少しさかのぼる。
離宮に戻ったアルトゥーロは仕留めた獲物を付き従っていた従者に任せ、ひょこりと耳を立ち上げて自分を見上げる妻の養い子を見下ろした。
剣の稽古をしていることは密かに知っていたが、弓の訓練をしていることまではアルトゥーロの知るところではなかった。正確な年が分からないとはいえ、同じような体格の年頃の子と比べても弓が上手いと言っても差し支えない腕前であることには素直に驚いたし、ぽつりぽつりと言葉を交わせば、以前にも自分の手で獲物を仕留めたことがあるようだった。
都の屋敷から連れてきた従者達はそんな二人を見て少しばかり驚いた様子であったものの、何も言わずにずっとついてきていた。アルトゥーロが妻であるニケにしか話しかけないのだと思っていたのだろう。
事実、これまでアルトゥーロはそうしてきた。近衛を率いる務めが忙しいこともあり屋敷に戻ること自体が稀な中、どうしても優先するのは実母と妻になる。それに獣人を忌避する向きもあれば愛でる対象とする向きもある貴族社会において、伯爵家の当主である自分が獣人の子どもを構うことで立てられるだろう根も葉もない噂についても考慮しなければならなかった。
ネグロペルラ伯爵家は今のところかつての権勢を取り戻しつつあるが、それも決して盤石と言えるものではない。
「……ニケのところに行く前に、湯を使え。私も後から行く」
「はい」
こくりと頷いた子ども――カマルにアルトゥーロもまた頷いて、迎えに出てきていた女官の一人にカマルを湯殿に連れて行くよう申し付けた。雪と同じ色の回廊へとその姿が消えたのを確認して、帰還の折より何も言わず控えていた男に目をやる。
手で指示して他の者を下げ、狩猟の装いも解かぬまま、男を促すべくアルトゥーロはくちを開いた。
「報告を」
「はっ。先程離宮の外れ、森の方に侵入しようとしていた賊数名を捕らえ、拘束してあります。近衛の方で尋問するとのことでしたので、所持品を取り上げ調べるに留めてあります」
「ご苦労。賊の目的はやはり私か」
「奥方様のいらっしゃる離宮ではなく、狩猟場の方を目指していましたので、おそらくは」
いかめしい顔つきの男にそうか、と溜息をつき、後は尋問でどこまで吐くかだろうと表情を変えぬままアルトゥーロは思案する。
小康状態としか言えない情勢の中、王から近衛を預かる身のアルトゥーロがこれほど長く離宮に滞在しているのには当然それなりの理由がある。
守りの堅い都で、一度屋敷の襲撃に失敗している手勢がもう一度ことを起こすとは考えにくい。ならばあえてその都を離れ、常駐する軍もない離宮に滞在することでかすかな可能性に賭けようとする輩を捕らえ、背後を探る。それが王やリュシオンといった国の上層部で密かに話し合いの末立てた作戦だった。
幸運にもアルトゥーロが身分違いながらも娶った妻を鍾愛しているという話が夜会などを介して広まっており、その妻の療養、という名目は襲撃の失敗に焦っているだろう彼らにとって、それなりのものとして受け止められたことだろう。
実際この離宮には小さいながら温泉もわき出ており、アルトゥーロを狙った賊の襲撃の矛先を向けられてしまったニケの療養に向いていることは事実だ。彼女をも囮とすることに何も思わないわけではなかったが、他にこの情勢の中少人数で都を離れる理由がなかった。
もちろん密かに手配した近衛の精鋭がこの離宮近辺に潜伏し、ニケの周辺に侍る侍従も内々に近衛の者に入れ替えてあったが、狩りの途中狙いが自分であると確信するまではアルトゥーロは気もそぞろな状態だった。
報告を待つだけとなり離宮内で滞在している部屋に戻ったアルトゥーロは身を清めながら、すぐ隣の部屋で今頃養い子と語らっているのだろう妻のことを思う。
あの暴漢が、かつてアルトゥーロが王命により粛清した貴族一派の残党であったことを告げた後も、アルトゥーロを責めることなく多忙な自分を気遣う彼女一人守れなかったことが、ひどく悔しかった。剣の腕を磨き、近衛を統率する身となってもまだまだ未熟であると思い知らされた。
けれど警備の厳重な母屋に戻ることをニケが拒むだろうこともアルトゥーロには察せられた。本当はそうしてしまいたいが、そうした時の妻の反応が怖いという己の臆病さに、拳を握りしめる。
降り積もる雪に覆われた箱庭のようなこの離宮のように、離れから母屋へと、閉じ込めてしまえたら。先程のように気もそぞろになることもないのだろうか。
まだ湿り気の残る髪もそのままに服に袖を通し、ニケの滞在する部屋へ足を向ける。
お帰りなさいませ、とかけられた柔らかな声に、ひどく安堵した。