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第五十二話 呼び名

 夫がカマルを連れ離宮に戻ったのは、ニケが休み休みハンカチの四隅に柊の図案を刺し、野兎の親子三匹に取り掛かっていた途中のことだった。

 汚れを落としてから来たのだろう、近頃見慣れた意匠の服を纏ってニケの滞在する野薔薇の間に現れたカマルは髪が少し乱れていたがどこかに怪我を負った様子はなく、ニケの元に二人の帰還を報せが届いてからそれほど時間は経っていなかった。

 その表情の晴れやかさから手ぶらで帰ることにはならなかったらしいと察してニケは未完成の刺繍を女官に手渡し、カマルを手招きした。


「ただいまかかさま!」

「お帰りなさいカマル。寒かったでしょう」

「んーん。いっぱい動いたから暑かった! カマルね、白い兎とったの。茶色じゃなくて、真っ白な兎」


 興奮冷めやらぬ様子で尻尾だけでなく耳もぴょこぴょこと動かしてカマルはニケの左腕に抱き着いてくる。思えば今までの狩りはずっとハルゥの夫やニケの弟が一緒で、今回はそうした普段の大人達がいない状況だったから喜びもひとしおなのかもしれない。

 それにしても飼いならされた種ではなく野生の野兎で白いものは珍しい、とニケが女官に視線を向ければこの地域には毛皮目的で改良した兎を育てているところがあるのでそこから逃げ出したものが王家の狩猟場にも棲みついたのではないか、という答えが返される。


「雪の中でまっしろな兎を見つけるのは難しかったでしょう」

「……ちょっとだけ。でもにおいでおっかけれらから」


 犬の獣人ということもあって鼻の利くカマルには、雪も圧倒的な不利な状況とはならなかったらしい。王家の狩猟場で罠をしかけるという庶民の狩りができるはずもなく、今日の狩りは弓矢を使ったものになったそうで、話を聞けば猟犬を使ったりして獲物を走らせ、開けたところで弓を射るのが一般的なやり方なのだそうだ。しかし今日の狩りは中心となるのが夫とカマルという二人だけということもあって、あまり大がかりなものではなく少人数で森の中に分け入り、木立の間を縫って獲物を射る方法を使ったのだという。

 まだ幼いながらも獣人の卓越した身体運びを身に付け始めているカマルにとっては、そちらの方がやりやすかったに違いない。雪の中ではあったが日のあるうちに数頭の獲物を仕留めることに成功し、離宮に戻ってきたということだった。


 カマルの話を聞いているうちに一度湯を使っていたらしい夫の来訪が知らされる。元々滞在している間が隣接していることもあり、離宮に来て以来夫がニケの元を訪うことも増えていた。

 まだ髪が乾ききっていないのか、普段にも増して艶のある黒髪が燭台の灯りに照らされてきらきらと黒曜石のように輝いている。いつも後ろに流されている前髪が下ろされているのに、何故か少しどきりとニケの鼓動が早くなった。


(アルトゥーロ様が前髪を下ろしているのはいつも夜だから、びっくりしてしまったのかしらね)


 お帰りなさいませと口にして、暖炉に近い、向かいの席を勧める。言葉少なに頷いた夫が椅子に腰かけるも、ニケには少し大きな椅子も夫が座れば妙に小さく見えて、少しおかしい気持ちになる。

 笑いをこらえきれずくすりと息を零して、ニケはカマルの頭を撫でながら夫の成果も聞こうと首を少し横に傾けた。


「狩りはいかがでしたか、アルトゥーロ様」

「あぁ……雌鹿を一頭と、兎を二羽ほど。カマルが白兎を一羽仕留めていたな。幼いながら見事な腕だった」

「まぁ。雪の中でしたのに……この子もいたことですし、大変だったのでは」


 すらすらと紡がれた夫の言葉の中に、さらりとカマルのことも含まれていてニケは少し目を見張った。半日ほどもない時間であったが、二人で過ごしているうちに距離はぐっと縮まったのかもしれない。

 二人の会話を撫でられるまま黙って聞いていたカマルも尻尾をまるで猫のようにぴんと立てて胸を張る。


「カマルがんばった! おとさまもね、びゅーんってすごかったの。トゥージャししょーと同じくらい弓、上手なの」

「そ、そう」


 カマルの大きな耳を根本から先端へと撫で、長い毛を梳いてやるように指を走らせつつ、ニケの心鼓は早鐘を打つようにどくどくとはやっていた。

 おとさま、という言葉で指されるのが夫であることは、状況的に間違いない。けれどおとさまという呼び名がお父様から来ているのだとすればなんとなくニケは落ち着かない気持ちになるし、まず夫がそれを許しているのかどうか――


 おそるおそる視線を夫の方へと戻したニケは、夫が一見そうは見えないながらも、いささか気まずそうに視線を下に向けていることに気付いた。だが不快に思っているといった表情ではなく、それよりも気恥ずかしそうな、珍しい表情だった。ニケも夫のこんな表情はそう見たことがない。元々夫がさして感情が顔に出ない方だ。

 だからこそ、カマルのおとさまという呼び方がどれだけ衝撃的なものであったのか――そして夫がそれを嫌がっていないらしいことがよく分かって、ニケはとうとう堪えきれずに噴き出してしまった。


「ニケ?」

「かかさま?」


 きょとんとした二人に手のひらを向けながら、ニケは女官たちが紅茶の支度もあって席を外していて良かったと思った。こんなところ、とてもではないが見せられたものではない。

 気のすむまで笑ってしまって、目じりの涙を指で拭いつつニケはカマルと目を合わせた。


「カマルもまた鍛錬を頑張らなくてはね。……おとさまと同じくらい、上手に弓がひけるように」

「ん!」

「っ、」


 迷いなく頷いたカマルに、ぐっと息を詰まらせた夫。ニケは二人を交互に見やって、また笑う。


(してやったり、ってこんな気分なのかしら?)


 穏やかな冬の日に、ほうと息をついた。



 夫とカマルの留守中に、離宮に侵入しようとした賊が捕らえられていたことなど、知ることもなく。


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