第五十話 翡翠の小離宮
秘密裡にニケたち三人が滞在を許された小離宮は、都から北の保養地で有名な地にほど近いところに先代国王が若かりし時造営したものだ。狩猟場をほど近くに有したその離宮は現国王の治世では公的な催しに使用されていないものの、体調を崩しがちな王母の静養にも使用されたこともあって決して格は低くない。
そのような場所に自分が入っていいのだろうかと未だに畏れ多いニケをよそに、夫とカマルの同乗した馬車は門番の敬礼と共に小離宮の門を越え中に進んでいく。
初めての遠出ということもあって興奮気味のカマルはそわそわと耳と尻尾を動かしており、それを静かに見つめる夫という状況にニケの心は南方の都へと飛んでいく。
(あぁ……お義父様は大丈夫かしら。お義母様とお二人で屋敷の方に残られたのは仕方ないことだけれど……)
近頃は落ち着いているとはいえ寒さの身に染みる時分であり、都を発つ折に編み上がったひざ掛けや肩掛け――カマルと同じ蔦模様の色違いだ――を届けてはいるが不安は尽きない。
そうニケが物思いに沈んでいる間にも馬車は進み、石畳の振動で馬車は上下に揺れる。それでも都の通りよりその揺れが小さいのは郊外とはいえ王家の小離宮であることをニケに感じさせ、それがまた気を滅入らせた。
狩猟会などで先王の治世何度かこの小離宮に招かれた経験のある夫は造りを理解しているらしく、そろそろだと言って傍らに置かれていた籠の中から毛織物で仕立てられたローブを持ち上げニケに差し出す。
「ありがとうございます、アルトゥーロ様」
「かかさま、もうすぐ? まだ森の中……」
「じきにここを抜ける。そうすれば離宮だ」
顔を上げたカマルの疑問に端的に答え、夫は紗で覆われた小窓の外を見やる。つられてニケとカマルもその視線を追えば、ずっと続いていた木立が切れその合間から瀟洒な小離宮が姿を覗かせた。
白壁と深緑の屋根の対比が美しいこの小離宮を先代国王は寵姫のために造営したと言われ、幾度となく彼女を伴っては寵臣たちと狩りや早駆けに興じたのだという。北方出身であった寵姫が美しい白い肌と深い翡翠のような瞳を持っていたことからそれになぞらえてこの小離宮は白と緑で彩られたというのはニケでも聞いたことがある有名な話だった。もっともその寵姫は子をなすことなく若くして亡くなり、晩年の先王はこの離宮にこもりきりになったのだが。
先王とその寵姫亡き後も王母の静養地の一つとして手入れが続けられたらしい離宮は美しく、ニケたちを出迎えた侍従や女官たちも王宮に配属された者と比べても遜色のない器量の持ち主たちだった。
「いらっしゃいませネグロペルラ伯爵ご夫妻。国王陛下から伯爵夫人のご静養の件、承っております。王母様と同様に取り計らうようにとのお達しで、我々侍従及び女官一同ご静養が十全なものとなるよう努めさせていただきます」
離宮の入口で整列した侍従達を従えた神経質そうな顔の侍従がこの小離宮の管理を任されているらしく、一歩進み出た場所で腰を折り礼を取る。
それに頷きながら夫も軽く目礼した。王の臣下という位からいっても近衛の隊長である夫の方が離宮の侍従長よりも上に来るようだ。
「あい分かった。陛下のお心遣い、ありがたく受け取らせていただく。妻を休ませたい、先に案内してやって欲しい」
「滞在中、よろしくお願いします」
「かしこまりました、伯爵様は私が、伯爵夫人は女官の長がご案内させていただきます」
侍従長の言葉を受けて他とはお仕着せの異なる年配のにこやかな女官がニケの前に進み出る。その背後には何人かの女官が椅子に車輪を付けたものを準備しており、伯爵家でも使用していたそれと同じものを先だって送っていたが無事に着いていたらしいことが分かってニケはほっとした。足が動かせないわけではないのだが、長く歩き続けることはまだ傷に響くのだ。
女官長に促されたニケは夫に礼をして車椅子に座る。そして見知らぬ人に囲まれ緊張した様子のカマルに手招きした。
「旦那様、この子は私が伴います」
「あぁ。……ニケについて先に行くといい」
とてとてと歩み寄るカマルを安心させるために微笑み、ニケは女官に合図して移動させてもらう。女官長が先導し、それにニケとカマルが並行して続く形だ。
繊細な彫刻の施された石柱の立ち並ぶ回廊や緩やかな弧を描く天井を興味深そうに眺めながらも、見知らぬ人や場所への不安が残るカマルは決してニケから離れようとせずに離宮の中を進む。
王家の所有する離宮では珍しく平屋で、六角形を描くように離れと回廊が配置されたこの離宮の見どころの一つは中庭の薔薇園だ。今は秋薔薇の見ごろの終わりで、ちらほらと冬薔薇の蕾も綻んでいるのだという。そのような説明を随行する女官から聞きながらニケが案内されたのは王の宿所である最北の離れから一つ東にずれた、北東の離れだった。
離宮に招かれた貴族が滞在するための部屋でもっとも格の高い場所が今回ニケや夫のために用意されたらしく、案内された部屋は伯爵家の屋敷の私室と同等かそれ以上なのではないかと思えるもので、おそらく普段は公爵家など王家に連なる高位貴族の滞在に使われているだろう部屋であることが言われずとも伝わって、ニケは眩暈を覚えたがなんとか踏みとどまる。
瀟洒なカウチに車椅子から移動し、カマルもまたニケのものよりやや小さいそれに座ると微笑みを絶やさない女官長が一度礼を取ってから口を開いた。
「このたびは不慮の事故で負われた怪我のご静養とのことで、この北東の離れに医者を常駐させておりますので何かあれば私共にお申し付けくだされば医者を呼んで参ります。またネグロペルラ伯爵の居室は同じくこの離れの、この野薔薇の間の隣、藤の間をご用意させていただきました」
「分かりました」
「何か特別なご要望などございますか」
「この子の食事についてなのだけれど……この離宮の料理人は獣人の食事については心得ているかしら」
「獣人を伴うお方が滞在されることもありますので、その点は既に手配させていただいております」
先程からカマルを奇異の目で見る女官や侍従がいなかったのはそのためか、とニケは内心で思いつつならいいの、と口にする。それから、長く馬車に乗って少し疲れたので紅茶を用意してくれるかしらと言付け、ついでにその用意の間は人払いしてくれるように言えばこの部屋にはニケとカマルだけになった。
その瞬間にカマルはカウチを降りてニケの怪我を負っていない左の方にきゅっとしがみつく。馬車に乗っている間時折外の景色の変化で気を紛らわしていたとはいえ、まだ夫に慣れていないカマルにとっては道中ニケに甘えられないことが辛かったのだろうとニケも心を打たれてそのやわらかな髪を撫でた。母屋に移って牛乳や蜂蜜で手入れされることの増えたカマルの髪や毛は今や、羽毛のように柔らかく銀色に光っているかのような艶を持ち合わせている。
紅茶の準備が整うのを待つ間、ニケはしばしカマルを慈しむのだった。