第四十九話 気晴らし
未だ静養の身であったニケの下に久しぶりの客人が訪れたのは、太陽も傾き始めた昼下がりのことだった。
「具合はどうだ、ニケ」
膝の上によじ登ろうとするカマルをあやしながらそう尋ねてくる一等ニケに甘い兄に、ニケは笑った。
普段は見苦しくない程度に身軽な恰好を好む兄が、今日ばかりはと近衛に属する次兄に借りたのであろう品のいい服――それはつまり動きにくいということとほぼ同義だ――を着ているというのがくすぐったくもあったが、それ以上に見慣れない姿に対する違和感が大きかったのだ。
「もう大分よくなったわ。あまり寝たきりではよくないからと、こうして立ったり座ったり……歩くことも再開し始めたの」
「そうか……あ、カマルあんまり飾りは引っ張るなよテオに俺がどやされる」
人払いして侍女にも控えの間に下がってもらったということもあってニケの口調は砕けたものだ。兄もそれに合わせて普段通りの口調でニケに話し、カマルに構う。
今日も夫は屋敷ではなく城の方に詰めているが、先日の手紙のやり取りでニケが兄が近々屋敷を訪うことを伝えればよろしく伝えて欲しいとの返事が返ってきた。ついでに家宰にその旨を指示していたようで、あまり仰々しい出迎えはなく兄はニケの部屋の一つに案内された。おそらく怪我の見舞いであることを理由に格式ばった出迎えを省略させてくれたのだろう。機を見たわけではないが、義母も今日は懇意にいているフーランジェ公爵家の方に招かれて屋敷を留守にしていたことも大きいだろう。
ニケの兄弟の中ではなにかとカマルに甘いセラピア家の三男坊は襟元の詰まった窮屈な服装に時折妙なうめき声をもらしながらも膝に座らせたカマルの頭に顎を置くなどして時折ふざけてみせる。それにきゃっきゃと笑うカマルも久々にニケと義父以外に会えて嬉しいのだろう、いつもよりも心なしかはしゃいでいるようだった。
もうすっかり大きくなったカマルを膝に乗せることは、ニケにはなかなか叶わないことなのだが流石に父に似て兄弟一がっしりとした体つきのデニスにとってはまだまだカマルなどかわいらしいものらしい。
そこで改めてニケは兄の服装をとっくりと見た。少し窮屈そうな感はあるが丈が足りていないことはないという今日の衣服を兄は確実に近衛勤めの次兄から借り受けたはずなのだが、当の次兄は兄よりも細身のどちらかといえばなよっとしたくくりに入る青年だ。そんな次兄の服がこの兄の体に合うはずはないと今になって気付いたのだった。
「兄様……テオ兄様の服にしてはずいぶんと大きいものがあったのね」
「ん? あぁ……テオのやつ未だに体大きくなるかもってでかい寸法でもたまに母ちゃんとかに作ってもらってんだよ。それを拝借してきた」
「兄弟の中じゃ細い方なの、気にしてるものね……」
おかしそうに口の端を緩める兄にニケも苦笑する。
自分の体が兄弟の中で細い部類に入ることを気にしている次兄は未だにまだ身長が伸びて筋肉もつくことを期待しているらしく、鍛錬を怠っていないのだがその効果が出たとはニケの目から見ても到底思えないのだった。
「おじちゃ、今日、かっこいい!」
「お、そーかそーか。カマルは正直でいい子だなー。今度こっちの家に来た時におかず余分にやるからなー。あとおじちゃんはいつもかっこいいからな」
にかりと笑う兄は本当にいい兄なのだけれど、長兄の結婚した年を過ぎた今でもなかなか浮ついた話を聞かないのは、ひょっとしたら自分を構いすぎているからなのではという気がしてきたニケは今度それとなく他の兄か弟に尋ねようと心に決めた。
それから三人でニケが先日仕上げたばかりの、カマルの毛糸の帽子の話になった。赤い外套に映えるようにと落ち着いた緑と白の毛糸で針葉樹を象った模様を編み込んだそれをカマルは早くどこかにかぶって行きたいらしいのだ。
だがニケは付き添ってやれないし、怪我をして以降顔を合わせることのできていない義父もまた療養中の身とあってこの状況では外出を控えることにしているようだった。二人ともカマルに付き添ってやれないのだ。
兄もその点を察したのか、また休日の調整はする、と口にしてくれたがそれがいつになるかは分からないとのことだった。
口を尖らせて拗ねるカマルを宥めながら、兄は思い出したようにニケの方を見る。
「そういやリエーフさんにこないだ偶然会ったんだが将軍からお前の話はいってたみたいで、お大事にって言葉を預かったぞ」
「まあ……」
リエーフという名にカマルも顔を上げておじちゃん、と口にする。リエーフに憧れているからその名前が出てそわそわしているのだろう。
だがカマルがリエーフに会えるのも、また先の話になるだろう。
(やっぱり、信用できる使用人は必要だわ……)
義父を気遣い、カマルを普通の子どもと同様に扱ってくれる人の選定を急がなければ。これは家宰だけでなく実家の伝手やハルゥに相談するのもいいだろうと、ニケは兄にカマルを任せている間に近くに備えている紙で簡素な手紙を複数したためることにした。兄に持ち帰ってもらい、ニケや義父の望むような人を探してもらうという心算だ。
そうして屋敷をあとにした兄に手紙を託したニケが侍女に用意してもらった紅茶を飲み、同じ部屋でカマルが行儀よく甘味を味わっている時、心なしか頬を紅潮させたまだ年若い、ニケにとってもこのところよく親しんでいる侍女が足早に部屋に入ってきた。
どうしたのかとニケが尋ねれば、彼女は顔を綻ばせてニケに告げる。
「旦那様が城からお戻りになられました……!」
しばらくは立て込んだ仕事を処理するために城に詰めていると聞いていた夫の突然の帰宅の報せに、ニケの口からは思わずまあ、という言葉が零れた。
身支度を整えたらしい夫は帰宅からほどなくニケの私室を訪った。
普段ならばニケの方がサロンや夫の部屋に呼ばれるのだが、ニケが怪我人であるためか今日はそのままでいいということだった。服装もそのままで、との伝言を受けていたこともあってニケはドレスに着替えることなく、侍女に夫の分の紅茶の用意を言いつけるに止まっていた。
椅子に腰かけた夫は壁際のソファーに移動していたカマルを見て何故か一度頷くと、侍女が用意した紅茶を口に運ぶ。そして一息置いてからニケを見た。
「一段落ついたからと陛下とリュシオンから休むように言われてな……陛下から内々ではあるが今回の件でお前にすまないと、いくつか王家の管理している庭園や離宮を特別に使用する許可が下りている。せめてもの気晴らしに、とのことだ」
「そのような……おそれおおいことです」
王家の庭園や離宮と言えば王族以外普段立ち入ることの許されない場所だ。ニケも園遊会の時に何度か庭園に夫の供で行ったきりだった。
今回のニケに怪我を負わせた暴漢が現国王に対して弓引く者であったという理由は表沙汰にできることでもなく、せめてもの形で誠意を示そうとしてくれているのかもしれないが、ニケにとっては王宮や王家に縁のある場所など天上とほぼ同義で未だに手の届かない場所という認識が強かった。
しかし幼少から名門伯爵家の令息として育った夫にとってはそうではないらしく、ずっと屋敷にいては気詰まりだろうからと二日後に夫とニケと、そしてカマルで王家の所有する狩猟場を有した小離宮に移ることとなったのだった。