第四十八話 暖かな部屋で
こぽこぽと深みのある茶色がポットから冬薔薇の描かれたカップへ注がれる。恭しく横に置かれたそれに頷きながらニケは手元にある小ぶりの手帳に目を落とす。まだまだ拙い筆跡にはところどころ赤いインクで正しい綴りが書き加えられているが、それも手帳の最初の方に比べれば随分と少なくなっただろう。
今日の課題が終わったご褒美にと林檎の蜜漬けをゆっくり食べていたカマルはもうそれを平らげ終わったのか、ニケの手元を覗き込む。インク瓶に浸した羽ペンでニケが大きく丸をつければその瞳はきらきらと輝いた。
「今日は間違いなし、頑張ったわね」
「ん!」
手を伸ばして頭を撫でてやればふわふわとした髪の感触がニケの手のひらに伝わる。くすぐったそうに笑いながらもカマルがぎゅっと小さな手帳を握りしめた。
ニケが療養に入ってから、外に出る機会がどうしても減ってしまったカマルは時間を持て余しているニケによって本格的に書き取りや計算を教えられている。字の練習にと始めていた日記はもとより、最近ではこうしてニケが口頭で言った言葉をその場で書きとれるまでに成長していた。カマル自身、他にすることがないからと黙々と勉強に励んでいる。
今の状況でカマルにとって特に不便なことを挙げるならば、外に出る機会が減ってしまったことと、どうしても貴族の子弟や見習い執事のような恰好をさせられてしまうことだろう。今日も胸元の詰まった服に時折もじもじと居心地が悪そうな素振りを見せていたが、このところずっとそんな服でいるせいか最近は上着などを着せられていてもその扱いに困ることはないようだった。
じーじにも見せてくる、と義父に会いたがるカマルに控えていた侍女――幸いなことに物珍しさもあってかカマルに対して友好的な少女である――をつけて送り出し、ペンを出したついでにニケは夫への返事を書くことにした。一言そう言えば、年嵩の侍女によってにこやかに美しい模様の入った羊皮紙が用意される。新たに取り出した黒いインクにペン先をひたしながら、ニケは出だしの文言を考え始めた。
仕事が忙しいのか、夫は最初の夜以降屋敷に帰ってきてはいなかった。けれど忙しい合間を縫ってニケの下には頻繁に夫からの手紙が届けられるようになっていた。
体調に変化はないか、不便なことはないかと言葉は少ないながらもニケを気遣うその手紙が届けられる度に、ニケは面はゆい気持ちになりながらもありがたくそれを受け取り、返事をしたためた。
昨日の夜に届けられた手紙にはある程度仕事の目途が立ってきたとあり、ニケはいったい何日ほど経ったのだろうかと試しに指を折って数えてみたが片手どころか両手でも足りないほどの日にちが経っていた。その間にニケと夫との間を何通の手紙が往復したことだろうか。以前にもないことだと改めて驚きながらも、ニケは用意された羊皮紙にペンを滑らせる。飾り文字はそう目を見張るほどに流麗な訳ではないが、育ちの割に端正な文字を書くと作法を教えてくれていた夫人に褒められたこともあり、嫁いでからも筆跡のことでなにかを言われたことはない。今になってきちんと教育を受けさせてくれた両親に頭の下がる思いだった。
親愛なる旦那様へ。忙しい中のお気遣い、ありがとうございます。お仕事の方が上手く運ぶように祈っております。怪我も随分とよくなりまして、先生によればおそらく後を引くようなことにはならないようで、私としても安心いたしました。既にお聞き及びかもしれませんが、屋敷の冬支度はつつがなく進んでおります。寒さが厳しくなってまいりましたが、屋敷の者に今のところ病人は出ていないようです。お義母様にもご迷惑をおかけしてしまっていますし、早く快復するよう静養に努めてまいります。ただ、もしなにかお手伝いできるようなことがありましたらお申し付けくださいませ。旦那様も体調にはお気をつけください。
すらすらと文字を連ねていき、最後に名前を書きくわえてインクが乾くのを待つ。その間に丁度良く冷めた紅茶をようやく口に運んだ。ニケの側に残っている侍女は封蝋の準備をしている。緑に色付けされた蝋をニケはいっとう気に入っており、もはや何も言わずともその色が用意されるようになっていた。
「奥様、封筒はこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ……印璽は、」
「こちらにございます」
このところよく使うこともあって印璽もさっと用意され、ニケは羊皮紙を何度か折って差し出された封筒に入れる。紙の重ね目に侍女が燭台であぶって溶かした深緑の蝋を数滴落とし、固まりきる前にニケはそこに印璽を押し当てた。しっかりと印璽の模様が写ったことを確認してからニケはそれを侍女に手渡した。
「旦那様に、差し入れと共にお持ちしてくださいな。差し入れは……そうね、体の温まるようなものがいいわ」
「厨房に言いつけて参ります……では少し失礼いたします、なにか御用があれば控えている者が参りますので」
「ええ」
侍女頭に目をかけられているらしいだけあってそつのない、優美な所作で退室した侍女をカマルと同じように見送って、ニケは小さく溜息をついた。
夫の手配もあって、ニケの寝所の近辺には常に使用人が配置されている。部屋の外に出ないニケは見てはいないが、カマルによればずいぶんと男の使用人が母屋に出入りしているらしい。ニケの周囲に控えているのはすべて侍女で、たまに家宰やその見習いの青年が来るぐらいだ。
(それにしても、四六時中人が側にいるのは落ち着かないものね……)
ニケが離れに移る前はまだこれほど使用人に囲まれてはいなかったこともあって、今の常に誰か使用人が側にいる状況にはなかなか落ち着かない心境になってしまう。自由のきかない身であるので些細なことでも侍女に頼むことには流石に慣れざるを得なかったが、それでも一人の時間がこうしてごくたまに訪れると肩の荷が下りるかのような気持ちになる。
ほっとした心地になりながらも休んでいるばかりなのが落ち着かず、ニケは視線を彷徨わせる。寝台での時間を無為に費やすということはなく、手慰みにと義母が贈ってくれた近頃流行りだという詩人の詩集に目を通したりもするのだが、何分時間だけはあるためにそれもほどなく読み終わってしまう。元々この家の書庫にある、ニケにも読めるような書物はあらかた読んでしまっていた。
手の届く位置に置かれた籐編みのバスケットの中からやりかけの刺繍を取り出して、ちくちくと針を刺していく。未だに改まった手紙をしたためる時には力が抜けないが、縫い物は嫁ぐ前からニケの貴重な収入源として請け負っていた仕事でたくさんこなしたおかげか今ではいい息抜きになっている。刺繍を刺すのは久しぶりだが、少なくとも今のところは失敗もなく順調に形が出来上がっている。初めて刺す図案だが、上手くいきそうで良かったとニケは笑う。
手元の布には、森を駆ける鹿の姿が浮かび上がりつつあった。