第四十七話 夜更けに
その日の夜遅く、珍しく騎馬で帰宅したアルトゥーロは身支度もそこそこに妻の私室へと向かった。不在の間屋敷を取り仕切っていた母や家宰もそれに不満を覚えることはなくその背を見送る。
普段使う共寝のものではなく、その近く、妻一人のために用意された私室の前で寝ずの番をしていた家人が屋敷の主人の姿に気付いて部屋の中に控える侍女に声をかけ、ドアが開かれるとアルトゥーロはその間に滑り込んだ。膝を曲げ礼を取る侍女に彼は口を開いた。
「容態は」
「今は眠っておられます。医師の見立てでは傷が熱を持つかもしれないからしばらく寝苦しいだろう、と」
「必要ならば氷の手配をとフォンスに伝えろ……しばらく下がれ」
「かしこまりました」
家宰への伝言を承ったまだ若い侍女は主人の命令に従おうとしたが、一つ大事なことを思い出しておそるおそる旦那様、と口にする。既に寝室へと続くドアに手をかけていたアルトゥーロは――珍しいことに――苛立ちを露わに振り返る。
近衛の隊長を務める軍人とあってその眼光は鋭く、侍女の体は竦んだがそれでも彼女には主人に報告しなければならないことがあるのだ。
「その、今寝室には奥様以外にあの、獣人の子どもが……」
「ニケは怪我人だというのに何をしている」
「申し訳ございません、大旦那様もご不在であの子どもを落ち着かせることができず、奥様からも気にかかるゆえ側に、と」
妻がいたく自分の連れ帰った獣人の子どもを可愛がっていることはアルトゥーロも承知していた。元よりあの子どもは妻の慰めになるかもしれぬ――あわよくば父と過ごす時間が減ればと一旦連れ帰ったということもあり、思惑通り妻があれこれと日々構っているのはアルトゥーロにとっても望み通りの展開であった。しかし怪我であるとはいえ病床の妻の負担になるようならば流石に看過することはできない。
険しい面もちでアルトゥーロはひとまず家宰に伝言をと侍女を部屋から出し、自分で妻の寝室への扉を開いた。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りの中、寝台のほど近くに取り急ぎ設置されたのだろう小さな台の上で起き上がってこちらを見る一対の琥珀にアルトゥーロは向き合う。この子どもの名前はなんだったか、と記憶を探りいつか妻が口にしていた短いその名前を引き出す。
「確かカマルだったか」
「……かかさまの、だんなさま?」
「……そうだ。アルトゥーロという」
アルトゥーロの肯定に警戒を解いたのか子ども――カマルは肩の力と抜くと寝台から降りておぼつかない足取りでアルトゥーロの元まで歩み寄る。
腰ほどの高さのカマルはアルトゥーロの記憶にあるよりも随分と背丈が伸び、頬もふっくらとしていた。これも妻の努力の賜物だと思えば誇らしいような気もしないではない。
「アルトゥーロ……かかさまは、ととさまねって」
「好きに呼べばいい。ずっと起きていたのか」
「かかさま、カマルが守るの。じーじと約束したの、じーじがお外の時は帰ってくるまでかかさまお手伝いして、守るって」
じーじ、と呼ばれるのが己の忌み嫌う父であることが分かってアルトゥーロの眉間に皺が刻まれるが、カマルがその言いつけを守って痴れ者に抵抗しなければ妻の怪我はもっと重いものになっていたかもしれないと思えばまあいいと思える。
カマルはじっとアルトゥーロを見上げており、どう接すればいいのか分からない間にすんすんと鼻を鳴らして首を傾げていた。
「おうちの近くと……かかさまに、たまにこのにおい、した」
カマルの言葉にアルトゥーロはしばし沈黙し、言葉を絞り出す。
「……ニケには言うな」
「……? ん、分かった」
こてんと頭を倒したままカマルは了承し、また寝台の方へと歩いていく。寝ていないのかその足取りはおぼつかないものの、獣人だけあって足音は立たない。アルトゥーロもそれにならって足音を殺し妻の眠る寝台に近付いた。
ゆらゆらと揺れる灯りに照らされた寝顔こそ普段のそれと変わらないように見えるが、その額にはうっすらと汗が浮いている。傷が熱を持ち始めたのか、と懐から手巾を取り出してそっと汗を拭ってやるアルトゥーロにカマルは唇を尖らせた。その手に近くに置いてあったのだろう濡らした手巾が握られているのを見て、黙考の末カマルに場所を譲れば、薄暗い中でも白い尾が揺れるのがアルトゥーロにはよく分かった。
慎重な手つきでカマルはニケの汗を拭ったが、やはり冷たく濡らされた手巾の感触のせいかふるりと睫毛が震え、翡翠のような深緑の色が現れる。
手近な椅子に腰を下ろしたアルトゥーロはじっと待つ。
「カマル……アルトゥーロ様……?」
「まだ傷は塞がっていない、そのままで」
何度か瞬きをした後、信じられないといったニケが起き上がろうとしたが、アルトゥーロはそれを制した。傷が塞がるまでは安静にしておかなければ怪我が長引くことはよく分かっていた。
「今日は帰られないものと……」
「……またすぐに城に戻るが……足を斬られたと」
「はい、あちらの手元も狂ったようで、幸いなことに」
幸い、と口にしたニケにアルトゥーロの心中には形容しがたい感情が湧き上がる。だがそれを養生しなければならない妻にぶつけるほど狭量ではなく、呑み込んでからアルトゥーロは手を伸ばしてニケの頬に添えた。
「幸いなものか……しばらく屋敷の警邏を増やす。療養中は母屋で過ごすように手配しておいた、必要なものがあれば遠慮なくフォンスに言いつけるように」
「それは……」
「カマルと……あの人も母屋に戻す。確か新しい使用人を、とフォンスに言っていたようだな。フォンスの面談を行うならばすぐにでも迎え入れて構わん。傷が塞がればセラピアの兄君や弟君たちを呼べばいい」
アルトゥーロがニケのためにしてやれるのはそこまでだった。屋敷に暴漢が忍び込んだ以上、警備のことを考えるとしばらくあの離れに三人を置いておくことはやめておかなければならない。それにニケが足に怪我をして自由がきかない間、残る二人の世話をする人間が必要だった。
隣のカマルは心配そうにニケの肩のあたりに頭をこすりつけていた。睡魔に抗いがたくなってきたのか時折はっとした様子を見せている。そんなカマルを心配そうに見ながらも、ニケはこくりと頷いた。
「出来るかぎりお前の意に沿うよう取り計らおう……養生するように」
「はい。……申し訳ございません旦那様、ご迷惑を……」
目を伏せるその様子に、たまらずアルトゥーロは上体を屈めてニケの唇を奪った。
鼻にかかった声が聞こえて妻が怪我を負った以上これ以上は、と理性を働かせて体を離せば、それこそ最上と目される翡翠のようにてろりとした光沢を帯びた緑が揺れていた。
「……カマルも、いますのに……」
「……案じるな、寝ている」
いつの間にか眠りの世界へ落ちてしまっているカマルを一瞥して、アルトゥーロはもう一度、今度は触れるだけの口づけを落とす。
これほど城へ戻りたくないと思うのは、アルトゥーロはにとって滅多にないことだった。