表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/62

第四十六話 春は遠く

久々すぎてすいません…

 じーじ、と不安そうに頭を垂れるカマルの頭を撫でながら、ニケはそっと空――正しく言えばその方角にある城だが――を見た。

 常日頃療養中であることを窺わせないほど生気に溢れた義父は久々の召集が下ったために急遽まだ陽の昇りきらないうちから登城していた。それは義父だけでなく夫も同じようで、ニケは朝から二人の見送りに追われた。軍事に携わる二人の緊急招集には嫌な予感しかしないものの、それをカマルの前で出すほどニケは愚かではなかった。

「体の具合は良いと昨日先生も言っていたから大丈夫よ……きっと。でも今日の夜帰ってこられるかは分からないわね」

「稽古、約束した……」

「急なお仕事だもの。母様のお手伝いは嫌かしら?」

「んーん」

 約束していた剣の稽古を先延ばしにされてしまったこともあってか朝からカマルの機嫌はなかなか浮上しない。しかしそれでもニケの問いかけには即座に首を横に振ってくれるのを嬉しく思いながら、ニケはそっと刻んで砂糖で煮たジンジャーを器に敷いた目の粗い布に包んだ。鼻から下を布で覆ったカマルにそれを渡すと、カマルはそれに木の棒を使って力を加え、汁を絞りだしていく。

 東の国から輸入しなければならないジンジャーは値が張るが、寒い冬を乗り切るにはいい食材なのだとハルゥに教えられてからニケはこうして定期的に調達してきたジンジャーを日頃使えるように加工していた。今日はシロップを作ることにして、余った絞りかすは焼き菓子に混ぜ込むつもりだった。

 この秋から冬の間に何度かニケを手伝っているカマルはもうすっかり慣れた手つきで熱い液体をシロップと絞りかすに分離させている。鼻の感覚を鈍くする塗り薬を鼻の辺りに塗ってもまだ足りないと、顔の下半分を布で覆っているのも様になりつつある。そう思いながらニケは鍋を片付けてカマルの手元を注視した。

「火傷しないように気をつけてね」

「だいじょー、ぶ!」

 義父もニケも決して口数が多い方ではないこともあってか、カマルは見かけの割に言葉遣いの幼い、というよりも言葉を発することの少ない子どもだった。付き合いのある三つ子たちやニケの甥姪が活発な子だったため影響されるかとニケは思っていたのだが、春からこの方一向にその気配はない。

 慣れた手つきでシロップを絞り終えると、カマルは絞りかすの残った巾着と化した布をニケに手渡す。それを後で焼き菓子に混ぜるようにとよけておきながら、ニケは何かを言い出したそうなカマルに苦笑した。

「……味見をしないといけないから、棚からカップと……そうね、暖炉のところから牛乳を二つ取ってきてちょうだい」

「んっ!」

 こくりと頷いてカマルは矢のように食器を置いてある戸棚へと向かう。ジンジャーのシロップを温めたミルクで割ったものは毎晩寝る前に飲む、カマルのお気に入りだった。牛乳を温めるために別の小鍋を取り出そうとして身を屈め、また立ち上がろうとして――目を見開いた。手から小鍋が滑り落ちる。床に落ちた鍋がけたたましい音を生む。悲鳴を、かき消すように。



「――かかさま?」





 久々に公式の場で揃うこととなったネグロペルラ伯爵家の前当主と現当主、不仲が噂される二人がそろい踏みしていることに召集された面々は妙な居心地の悪さを味わっていた。しかしそれも朝から、おそらくは事態の収集まで緊急招集が続くだろうと思えるほどの事件を前にしてはそれどころではなくなっていた。


 王も臨席した極秘の御前会議で発表されたのは近頃懸念されていた北の情勢ではなく、反乱勢力が未だ燻っているという情報だった。

 現国王は若い。未だ盤石とは言うことのできないその地位を奪取せんと目論んでいるのが、先王の庶子が臣籍に下って開いたとある公爵家の一派だ。元々現王は父であった前王太子が早世したために王太子となり、祖父にあたる先王の逝去後国王となった時にはまだ二十歳にも達していなかった。あまりに年若い国王に不満を持ったのが現王にとっては叔父にあたる公爵であり、彼は自分こそが王位に相応しいという考えを公言こそしなかったものの公の場でもそういった態度を崩そうとはしなかったのだ。


 だからこそ、現王は即位して間もなくに叔父の勢力下にある貴族を徹底的に調べ上げ、付け入る隙があれば容赦なく罪を問うことで公爵の力を削いできた。しかし、未だ公爵は玉座への野望を諦めきれないらしく王都に治世をおびやかすための不穏分子を密かに送り込んでいる、というのが今回もたらされた情報だ。

 当面城、特に国王の身辺の警護を強化することが近衛の責任者であるアルトゥーロから発表され、同時に市中警邏を担当している常備軍からもそういった者たちが流入しやすい地区の取り締まり強化が提案される。念を入れるに越したことはない、と綿密に城と王都の警備計画を定めていく会議の最中、アルトゥーロは険しい面持ちで入室し自分に近付いてきた家人に眉を寄せた。極秘会議に割り込んでくるとなれば、相当な緊急事態が発生したと見て間違いはない。同じことに気付いたのか、テーブルを挟んでちょうど反対側にいたサイードも家人の動向に少し注意を割いているようだった。


 旦那様、と唇を震わせた家人の顔が青ざめていることでアルトゥーロの眉間の皺もより深くなる。しかし、次いで耳元で囁かれた言葉にアルトゥーロは目を見開き、唇をわななかせた。常にないその様子にサイードだけでなく隣のリュシオンも自分の方を見ていることに気付いてアルトゥーロは頭を振る。近衛を預かる地位にある限り、この会議を中座することは許されない。


 ――たとえ、屋敷内に押し入った暴漢によって妻が傷を負おうとも。


 ぐっと堪えてアルトゥーロはこの会議がいつ終わるか考えたが、どう考えても必要な懸案事項を片付け屋敷に戻ることができるのは夜になる。家人も取り急ぎの連絡を、ということで詳しい容体などは分からないまま、家人を下がらせ目を伏せる。

 傷を負う、という言葉を使ったからには命には別条はない、と理解する余地が十分にある。アルトゥーロにできるのは、どうか少しでも妻の怪我が軽いようにと祈ることだけだった。





「――ですから、旦那様は決して奥様を心配なさっておられないなどということはありません」

 寝台の上で上半身を起こしたニケにそう報告したのは家宰見習いをしている家人だった。登城している夫にことの次第を知らせた、その足でニケの私室に訪れた彼は一生懸命にそう訴えたが、ニケとしては正直彼の個人的な推測が入り込みすぎた報告にしか思えなかった。

 三年近く夫の側にいたが、夫は何よりも職務を重んじる人だ。そんな夫が仕事中に暴漢に押し入られたといえども軽傷で済んだニケのことを気にして仕事を疎かにするようなことはしないだろう。他に替えの利かない地位にいるとは、そういうことだ。

「そう……大した怪我ではないから、アルトゥーロ様のお仕事が一段落されたらそうお伝えしてくださいな」

「かしこまりました。お疲れのところ、申し訳ありません」

 背中に棒でも入っているのかと思うほど完璧な礼を見せて家宰見習いが私室を去る。それと同時に悲壮そうな顔で世話を焼こうとするあどけなさの残る顔立ちの侍女を遮って、ニケは口を開いた。

「あの子を……カマルをこちらに連れてきてちょうだい」

「奥様?」

「その、汚れは落ちているでしょう?あれきり会っていないから、せめて一声でもかけさせてくださいな」

 渋る侍女をどうにか説得し、ニケは離れから母屋の自室へとカマルを呼び寄せた。交代の侍女が来るのを待って彼女に離れにカマルを迎えに行ってもらい、私室に招き入れる。幸いにも侍女二人がまだ若く獣人に対してそう嫌悪を抱いていないことも幸いした。目付役だろう古株の侍女は戻ってこないところを見ると義母のところに行っているのだろう。

 扉が開かれるやいなや弾かれたように寝台に駆け寄ってくる白い我が子に、ニケは笑った。

「かかさま!かかさま!」

「大丈夫よ、少し足を怪我しただけだから」

「でも赤いの、血、いっぱいっ」

 ぶんぶんと忙しなく白い尻尾が揺れる。それだけでなくカマルはずっと不安そうに視線をうろうろと彷徨わせていた。

 ――ニケが暴漢に襲われ足にその剣を受けた、その姿を目の当たりにしてしまったのだから、その動揺も無理はなかった。


 あの時振り返ったニケが目にしたのは見知らぬ小奇麗な服装の男だった。だがそのぎらぎらした眼光と、手に持っていた無骨な剣がニケに警戒を促すには十分で、ニケが振り返った途端に剣を振るった暴漢にただの女であるニケが応戦することなどできるはずもなく、ニケは左足に怪我を負うこととなった。心の臓や肺腑を傷つけられなかっただけ重畳だろうと今になってしまえば思うニケに対して、物音と悲鳴を聞きつけ炊事場に戻ってきたカマルは血を流すニケとそうさせたのだろう男を見ることになったのだから、相当な衝撃だったに違いなかった。

 斬られたことへの衝撃と痛みで朦朧としていたニケはよく覚えていないが、侵入者に気付いて屋敷中を走り回り離れへたどり着いた私兵によればカマルはシロップを絞るのに使っていた木の棒で暴漢に応戦しようとしていたらしかった。後からこの事実を聞いたニケは心底ヒヤリとしたものだが、当のカマルはそんなことはどうでもいいのだと言わんばかりに今もニケの右側にぺたりと張り付いて離れようとはしなかった。


 家人がすぐに離れへ駆け込み暴漢を捉えたこともありニケも命に係わるような大怪我を負うことはなく、カマルも何か所か打ち身をした程度で済んだ。しかし流石にこの事態には屋敷中が大騒ぎになり、ニケはただちに母屋へ運ばれてたまたま義父の様子を尋ねにやって来た老医師の弟子によって治療を受けることとなったのだ。

 それ以来侍女によって寝室に軟禁され、実際まだ怪我のため歩くことの叶わないニケはずっとカマルのことが気にかかっていて、夕日が沈む頃にようやくこうしてカマルを呼び寄せることが出来たのだった。

「大人しくしていればちゃんと元のように歩けるそうだし、大丈夫なのよ?」

 慰めるようにふわふわとしているようで硬い髪を撫でても、カマルは唸るように言葉にならない声を発するばかりで、このままカマルを一人にさせておくのは忍びないと思い、そっと部屋の隅で待機している侍女たちを見た。

 彼女たちは困ったような顔で見合わせると、侍女長にお聞きしてきます、と口を揃えた。最悪隣の小部屋にカマルを、と思いながらも二人の言葉に頷いて、ニケはカマルを撫で続ける。





 ニケを襲った暴漢が現王によって粛清された貴族の一派だったとニケが知るのは、もう少し後のことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ