第四十五話 初雪
吐いた息が白くけぶるのが当たり前になった頃、ニケはとうとうカマルを抱き上げてやることがなかなか叶わないようになった。日に日に背丈も大きくなり、それに応じて重くなっていく我が子を抱き上げてやることが出来ないことにニケは落ち込んだが、当のカマルはニケの腰にしっかりと抱きつくことが出来るようになったことが嬉しいらしく、ニケの家事の合間を見てはぴったりとくっつくのが常だ。秋の間はニケも夜会などに呼ばれて離れを空けることが多く、寂しい思いをさせてしまったのだろうとそれをとがめることもない。
今日もそうしてカマルを腰につけたままで庭で収穫した香草や薬草の仕分けをしていると、不意にカマルがぴょこん、と大ぶりな耳を立てた。
「カマル? 何かあったの?」
余分な根や葉を手で落としていたニケが手を止めてカマルの視線の先を見れば、窓の外でちらつく白いものが見えた。あぁ道理で今日は寒いのね、とひとりごちてニケはカマルに微笑む。
「庭に出たいなら出てもいいわよ。ただし、マントをちゃんと着て、あまりここから離れないようにね」
「ん!」
ニケの腰に回していた腕を解くと大きく頷いて、カマルは足早に自分の部屋へと駆けていく。ふさふさとした尻尾が大きく左右に振られているのが分かって自然とニケの唇も綻んだ。
都は内陸の方にあって、雪はそれほど多くは降らないが時折ひどく冷え込む、そんな冬になる。雪が積もるにしても地面をうっすらと覆う程度が常で、数年に一度多く積もった時には兄弟達と一緒に雪遊びをしたものだった。もっとも、いつの間にか兄弟達は雪合戦を始めてしまうのでニケは早々に母のところに逃げ込む羽目になっていたのだが。
昔のことを思い返しているうちに部屋からマントを取ってきたらしいカマルが足音を立てて戻ってきた。首元が開いているのに気が付いたニケが手招きすると、少し不満そうにしながらも素直にボタンを一番上まで止められるのを受け入れる。カマルには窮屈かもしれないが、走り回るのでもない以上こうしておかなければ風邪をひいてしまう。
「もういいわよ」
「ありがとかかさま」
くるりと踵を返して庭へと走り去るカマルの身のこなしは軽い。同じような体つきの人間の子どもと比べてもカマルの方がずっと早いだろう。
ハルゥの子供のうち一番年長のマァはまだ十五、六だが体格は普通の人間の大人ほどはあるし、力もずっと強い。猫はそれほど力が強い種族じゃないとハルゥは言っていたが、なら犬だろうカマルはどれくらいの力を持つのだろう。
獣人の成人は体格が出来上がったら、というのを基準にするなら、おそらくカマルもあと五、六年でしっかりとした大人の体つきになるだろう。ハルゥは先に体だけ出来てしまうから中身が追いつくまではまだ子供さ、と笑っていたが、ニケはもうすぐカマルが大人になってしまうのではないかと少し寂しい思いだった。
(あっという間に独り立ちしてしまったら、寂しいけれど)
いつまでも一緒にいてやれないと、ニケは分かっていた。幸い獣人の成長は人のそれよりも早く、カマルが大人になるまでは何が何でも自分があの子を守ってやるのだという気持ちはある。だからこそ、早い成長は喜ぶべきなのだ。
けれど。
――あまりにこの離れでの日常は、優しすぎた。いつまでも続けばいいと、そう願ってしまうほどに。叶わない夢を見てしまいそうになる。
ニケも、カマルも、義父も。今こうして三人で離れで過ごせているのは偶然と気まぐれが重なった結果なのだ。
ニケは夫の妻としての役割を求められる。
カマルも獣人が生きるにはこの都は窮屈すぎる。
義父も病状や、国の情勢に左右される身の上だ。
いつ終わりが来てもおかしくはないのだと、お互い口にはしないがニケも義父もとっくに気付いていたのだろう。
ただカマルだけは、まだ終わりに気付かないでいて欲しいとずるい大人達は思ってしまうのだ。
カマルは、ニケと義父が見ている夢の象徴のような存在だから。
ふ、と立ち上がり窓の外を見た友人に、彼は笑う。その視線の先に友人の妻が暮らしているのだと聞き及んでいたからだ。
仲が悪いわけでもないのにわざわざ妻である人を母屋から離れた離れに住まわせ、あまつさえそこに己の嫌う実の父と獣人の子どもが一緒にいることを許容する友人の心中というものが彼には正直なところよく分からない。ただでさえ職務上家に帰れる日が少ないのだから、妻である彼女が母屋にいてくれた方がいいだろうに、と思いながらそれを口に出さないのは友人がそう望めない訳を承知しているからだ。
(女人に嫌われるのが好きな男はいないだろうしね)
友人の妻である人は家格の釣り合わない、ほとんど騎士階級と言っていいような家から迎えられたこともあって特権階級にはつきものの特殊な暮らしにはなかなか馴染めないのだろう。それを分かって無理強いをすることもなく彼女をそっと見守ることにした友人の忍耐は十分褒め称えられてしかるべきものだ、と彼は思っている。まぁ、新婚の頃の放置っぷりは倦怠期のそれと同じではないかと知った時には頭を抱えもしたが、最近は自分の指導の甲斐もあってまずまずではないかと思える夫婦生活だと見ていた。自他共に認める恋多き男である彼にしてみれば今の友人夫婦の状態は初々しい付き合いたての恋人同士かと思わなくもないのだが。
「ニケ殿はお元気かな?」
「……」
「まだ根に持っているのか? さすがの私も君の奥方にまで粉をかけるような真似をしないさ。夜会で女性の装いを褒めるのは少なくとも私にとっては常識だ」
「ニケが美しくないとでも……」
「なんでそう取る、彼女はとても落ち着いた聡明な方だ、騎士にも憧れるものがいるらしいな。今年の夜会に出る機会も多いからそういう騎士もまた増えるだろう」
眉間が心なしか険しくなった友人を宥めながら彼は内心で溜息をついた。
以前夜会で友人の妻を褒めて以来、自分が彼女に近付くたびに無言の圧力をかけてくるようになったのは本当に困ったものだった。確かに自分は女性関係においてあまり褒められたものではないかもしれないが、幼い時からのそれこそ親友ともいうべき友人の妻にまで手を出すような真似は神に誓ってしない。それなのにこうしてあらぬ疑いをかけられてしまうのか今までの行いのせいなのか、それとも友人の心が狭いからなのかどちらか、あるいはどちらもかもしれなかった。
今だって自分の妻をそういう目で見る手合いがいると聞いて表情には出ないものの機嫌を降下させる友人に彼は溜息をこれみよがしにつく。
「アル、心配しなくても君は彼女の夫君というだけで騎士連中には十分な牽制だ。それに先日の夜会でニケ殿がつけていたあの見事な琥珀の首飾り、君からの贈り物だと彼女が笑ってたらしいじゃないか。君もやるね」
「……」
「照れなくてもいいだろう? あれを見ていたご婦人方が『ネグロペルラ伯爵夫婦は仲睦まじいことね』って噂していたからそう君が心配することはないよ」
途端にかけられていた圧力がなくなったことに苦笑しつつ、彼――リュシオンもまた窓の外を見た。都にある貴族の庭にしては珍しく木立のようなものがところどころにあり、その緑の合間に時折ちらちらと目立つ赤色が覗いている。
雪が降っているのに元気なものだ、と思ってからこの屋敷で無邪気に庭を駆け回ることが出来る子供など一人しかいないことに気付く。
「あれがニケ殿の養い子の獣人か」
「あぁ」
友人――アルトゥーロは相変わらず感情の読み取りにくい目で、緑の合間を駆ける赤を見下ろしていた。