第四十四話 秋の夜に
ニケが義父の口から、どうやらリエーフが秋から冬の間は都に逗留するらしいと聞いたのは二人がハルゥの家でリエーフと会ってから数日後のことだった。
ここ数日やけにカマルの機嫌がいいことからそんな話になってニケの耳にもようやくその情報が入る運びになったのだが、そういえば話していなかったな、と眉を下げる義父に気にしないでくださいな、と返しつつニケは紅茶を口に運ぶ。
彼の逗留はニケにとっても嬉しいものだ。いたく彼を慕っているカマルに加え、どうやら先日顔を合わせたニケの三番目の兄もリエーフを尊敬しているようなのだ。
かつて軍に所属していた折の武勇伝を父伝いに聞いたらしい兄は、お前に迷惑をかけるかもしれないが、とすまなそうにしながらもリエーフとの繋ぎが取れないかとニケに尋ねてきた。思い返せば兄弟の中で一等寝物語の武勇伝に聞き入っていたような兄なので、強い人には目がないのだろう。
それにニケがリエーフに連絡をつけようとすれば自然、義父も彼と関わることになる。かつての部下との交流は義父にとっても日々のいい刺激になっているようで、夏の暑さで少し減っていた食事量も増えてきており医師もこの調子で、と言ってくれている。
この冬は情勢的に無理でも王宮からの許しが出ればいずれ都を離れた療養地に一時的に行くのもいいだろう、と口にした医師はいくつか有名な地方をニケに教えてくれていた。その中には都から馬車で二日か三日ほどの距離にある温泉が湧き出ている街の名もあり、北方からの隊商の通過地でもあるその地のことをリエーフに聞ければ、と思いながらニケは義父の前にスープの入った皿を置いた。
「どうぞ」
「すまんな」
なかなか寝付けないという義父のために作った夜食のスープを自分も口にしながら、ニケは先程まで手をつけていた編み物に目をやる。
ふかふかとした毛があり寒さには強いのだろうと思われるカマルには必要ないかもしれないが、これからの季節都はひどく冷え込む。ひどい雪はなくとも毎日のように氷が張る冬を迎える前に寒さをしのぐための衣服の準備を済ませておかなければならなかった。先立って完成しているひざ掛けは義父が今まさに使ってくれており、ニケはくすぐったいような気持ちになる。
(さすがに外套は仕立てられないでしょうから、買うか仕立てるかしないと)
手袋に襟巻はどうしようか、と思いながらスープに口をつけ、ぱちぱちと爆ぜる薪の音に耳を澄ます。
二人とも言葉を交わすことはせず静かに時間を共有しているところへ、もう横になっていたはずのカマルがよたよたと姿を見せた。
かかさま、と目をこすりながら近付いてくるカマルを抱き上げたニケはそのずしりとした重みに目を見張る。
ハルゥから獣人の子どもは成長が早いとは聞いていたが、ひょっとしたら春が来る前にニケがカマルを抱き上げることは叶わなくなるのかもしれない。
「目が覚めたのね」
「んー、いい匂い、したの」
くんくんと鼻を鳴らすカマルは成長に見合って食欲旺盛だ。いつも満腹まで食べている姿には義父共々ニケも苦笑するほどで、そんな食欲の持ち主だからか夜食の匂いを嗅ぎつけて目を覚ましてしまったらしかった。
笑いをこらえる義父を横目にニケはカマルを抱いたまま椅子に腰かけ、膝の上に乗せたカマルに自分が口をつけていたスープを差し出した。
「熱いから気をつけるのよ」
「ん!」
ふうふうと息を吹きかけながらこくりと頷いたカマルに笑って頭を撫でれば、冬毛に生え変わった、もふもふとした感触が手のひらに伝わる。毛が生え変わりきるまでは掃除が大変だったことを思い出してしまいながらしばらくそうして頭を撫でていると、黙っていた義父が口を開いた。
「ニケ、明日はどうするんだ」
「カマルの勉強を見てやりながら編み物を完成させてしまおうかと。お義父様は出かけられるのですか?」
「生憎しばらくは冷え込むから慎めと言われている。軍から回ってきた書類に目を通さねばならん」
前線から退いたとはいえ退役したわけではない義父の下には、今でも時折城、特に軍からの連絡が来る。盛夏の頃や日に日に冷え込みが厳しくなってくる今の時期は体調を慮ってか登城の要請こそないものの、若い国王を戴いたいまの国の状態がどれほど脆弱かを示しているかのようでニケは気が気でない。
もし何かあれば軍に属している者が動くことになるのは確実だ。
その中にはニケの家族は勿論、義父や夫も含まれている。親しい身内の男といえばほぼ軍属のニケにとって、国が揺らぐ危険性は他人事ではなかった。
そんなニケの胸中を察したように義父は笑う。
「少し北がきな臭い程度だ、軍が大々的に動くような騒ぎにはならんだろう。すまんな」
「いえ、家族といえども話せないことがあるのは承知していますから、そう言ってくださるだけで……」
機密とされる情報を知り得るだろう義父は地方の現状も分かっているのだろうが、それをニケに言うわけにはいかない。いかに身内といえども情報の漏洩を問われかねないからだ。未だ数は少ないものの政敵が存在する義父にとって隙を見せないに越したことはないのだ。
元よりそこまでして安心を得たかったわけでもなく、ニケは義父の心遣いを受け取って目を細めた。もし戦になるとしても、北方と、というならば雪深い冬はおそらく避けて春以降になるはずだ。いかに慣れたもののふであっても極寒と伝え聞く北方の大雪原や山岳地帯を行軍するのは人の身では至難の業とされているのだから。
きな臭い話はそれくらいにしようと決めて、ニケは先日実家に行った時に一番下の弟が随分と要領がよい子になっていたことを口にした。
「……母に聞けば兄弟の末っ子は要領がよくなるものだ、と話していたのですけれど、お義父様はどう思われますか?」
兄弟で唯一女に生まれたこともあってか母や兄の庇護下にあったニケは兄弟間での熾烈な争いを体験したことがない。義父も兄弟はいないと聞いていたので、あくまで身近にそういった話を見聞きしたかという意味で尋ねたのだが、義父から返ってきたのは意外な答えだった。
「まぁ末にいけば要領はいいが……あぁ、軍でも貴族出身と平民出身なら平民出身の方が要領はいいな。手柄、となれば抜け目ない貴族出身もいるが、訓練兵の頃なんかだと平民出身の奴の方がちゃっかりしている」
「そうなのですか?」
「まぁ貴族出身の奴で時間に追われながら次々鍛錬を課せられたりかきこむような飯を強いられるなんて経験をした奴は早々いないだろうからな。あいつ――アルトゥーロも最初の方はなかなか要領が悪かったらしい」
義父の口から夫の話が出たことにも、その内容にも驚いてニケは思わず手を口元にやる。
ニケの膝の上でちょうどスープを飲み終わったらしいカマルが首を傾げる。
「アルトゥール?」
「アルトゥーロ、よカマル。私の旦那様だから、カマルにとっては……そうね、お父様になるのかしらね」
少し躊躇ったのはカマルを養子にする際の手続きでニケが自分個人の養子――つまりはネグロペルラ家とは関わりのない形――として届出を行ったからだ。ゆえにカマルとニケの夫とは書類上の関わりはないし、実際の生活もこうして離れで行っているために顔を合わせたことなど数えるほどしかないだろう。
とはいってもカマルにとって『父』とするに相応しいのは夫以外にいないだろう、と思ってニケはそう言ったのだが、やはりカマルにはあまり実感がわかないようで首を傾げるばかりだ。
「おとうさま……は、ととさま?」
「えぇ、ととさまね」
「ととさまの……ととさま?」
おろおろとしているカマルを宥めるように頭を撫でてやりながら、ニケはその小さな手から器を取り上げてテーブルに置く。そのままカマルを抱き上げて義父を見れば、義父もまた苦笑していた。
「知恵熱が出る前に寝かしつけてしまいますね」
「……あぁ、そうしてやれ。俺も寝るとしよう。火の始末はしておく、そのまま一緒に寝てやれ」
腹が満たされたことで早くもうつらうつらと舟を漕ぎ始めたカマルの体がずしりと重みを増す。それを抱え直して義父に頭を下げ、ニケは寝室へと足を向けた。