第四十二話 厄介な大人たち
優雅にカップを口に運ぶ途中で、そういえばと義母が微笑んだ。
「今日はアルトゥーロも早めに帰ってくるそうよ。晩餐を共にするつもりだから、ニケさんも」
そう言われてニケが応じないわけにもいかず、ニケは頷きながら内心カマルと義父の夕食をどうしようかと考えなければならなかった。
おそらくこのまま母屋で夫の帰りを待つことになるのだろうが、そうなると離れに戻って二人の夕食を準備しておくということは出来そうにない。それにニケは今義母と簡単な茶会を共にしているということもあって着飾っており、この格好のままではとても料理など出来なかった。
となれば、ここはハルゥの家に使いを送って夕食を外で取るように頼んでおいた方がいいかもしれない。
後で侍女にそうするように頼もう、と決意しつつニケは義母の話に相槌を打つのだった。
庭で子ども達と戯れるかつての部下の姿を眺めながら、サイードは隣のハルゥへ視線をやった。
「夕飯まで馳走になって悪かったな、今度肉でも持ってくる」
「持ちつ持たれつ、そんな気にするんじゃないよ。ま、肉に関しては上等なのを頼むけどねぇ」
机に頬杖をつく姿はとても五児の母には見えないものの、サイードがそういう目でハルゥを見ることはない。おかげで愛妻家であるハルゥの夫から彼のいない時にも家に入ることを認められているわけなのだが。
年を経るにつれ衰えるどころか艶を増してきた美貌に蠱惑的な笑みを浮かべて、ハルゥはサイードを見据えた。
「で、今日ニケが夕飯作れないのって旦那とあんたの奥さんと飯食ってるからだろ? あの子の口からとんと旦那の話が出たためしはないけど、実際のとこどうなってんだい」
流石のハルゥもニケ本人に尋ねようとは思わなかったらしく、ここぞとばかりにサイードから情報を引き出そうとしている。こうなった時の女は怖い。それを身にもって経験しているサイードは大人しく自分の息子である青年夫婦のことについて考えを巡らせる。
元々息子、つまりはニケの夫であるアルトゥーロとは疎遠であり、あちらからは蛇蝎のごとく忌み嫌われている。ゆえにあちらの心境は分からないものの、ニケは共に離れで寝起きしていることもあり幾分か情報があった。
しかし。
「……そういやニケからそういう話は聞いたことがないな」
「はぁ?」
ハルゥに凄まれてサイードは肩を竦めてみせる。
けれど、確かにサイードはニケから彼女自身の結婚生活に関することをほとんど聞いたことがなかった。
この春先まではサイードも現役の軍人として忙しく立ち回っており、たまに伯爵家の屋敷に帰った時もニケと話すことはほとんどなかった。ニケが結婚してからどのような暮らしを送っていたのかはほとんど把握出来ていなかったのだ。
けれど同じ軍にいた以上、不仲とはいえ息子がどれくらいの頻度で屋敷に戻っていたかは知っている。若くして即位した現皇帝の治世安定のために、その側近である息子は屋敷には必要最低限しか寄り付けなかったはずだ。
サイードが一線を退いたのと時を同じくして、息子にも余裕が出来たのかニケが母屋に渡る機会も増えた。
「あからさまだからお互い深く突っ込まなかったしな……」
ニケが母屋に行くということは、息子に呼ばれているということで――つまりはそういうことだ。
いい年の男がうら若い娘のそういうところを一々訊くのはどうなのかと思うところもあって、サイード自身ニケにそういう話題を振らないようにもしている。
それに加えてニケもまた、そういう話題を口にするような方ではない。
「ニケのことを嫌ってないのは確かだが……」
「ふん、男ってのはいざって時に役に立たないもんね」
ピン、と耳と尻尾を逆立てたハルゥにサイードは返す言葉がない。
ハルゥが彼女なりにニケのことを心配しているのは分かっていた。
「……ニケも伯爵夫人なんて大層なものになったんだ、いつまでもあんたらが今みたいに暮らせるわけないよ」
ぼそり、と零された呟きに目を伏せ、サイードは深く溜息をつく。
言われなくても、と返した声の小ささに我ながら驚きつつ、庭で戯れる白い子ども――カマルに目をやった。
ハルゥの子どもと無邪気に戯れるカマルも、そしてサイードも、いつまでも今のようにニケと共に暮らせるはずがなかった。
ニケは伯爵夫人という立場にあり、今のようにまるで市井の女のような生活を送ることが許される人間ではない。
そこにニケ自身がどう思っているか、どうしたいかということはこの際関係がなく、重要なのは彼女はその身分や地位ゆえに行動を規定される側の人間である、その一点に尽きる。
幼いカマルはもとより、おそらくはニケ自身もその考えに至ったことはないだろう。
少し年長で、いろいろなものを見てきたサイードやハルゥには見える、確実に来る未来の話だ。
「……いずれニケは選ばなくちゃいけないんだ」
このまま三人で暮らすために地位を捨てるか、地位のために今の暮らしを諦めるか。
ハルゥの言うことは残酷で、けれども正しい。
きっと優しいニケは苦しむだろう。
このままでいるためには少なくとも伯爵夫人でいなくなる――つまりは離婚するか、夫が側妾を迎え、その側妾が跡取りを生まなければいけない。要は伯爵家におけるニケの地位の低下ないし、ニケが伯爵家の人間でなくなる必要があるのだ。
けれどニケが伯爵夫人であることで、彼女の生家に伯爵家からかなりの援助がされていることをサイードも知っていた。まだ幼い弟達のことを思えば、伯爵家からの援助が打ち切られてしまうのはニケにとってかなりの痛手でもある。
けれど、サイードもカマルも、そしてニケも、今の三人での生活がとても愛しかった。
血の繋がりがなくとも三人は家族だと胸を張って言うことが出来る。
「……上手くいかないもんだ」
「人生なんてそんなもんさ」
寂寥を滲ませながら、二人は天真爛漫な子ども達を見つめる。
今の幸せが絶対いつまでも続くわけではないことを、大人は知ってしまっている。いっそ子どものようにそんなことに気付かなければ幸せなのかもしれない。けれど、きっと大人には心の準備をするための時間が必要なのだ。
ただ、それだけの話だ。
「じーじ! おじちゃんすごい、よ!」
「こらカマル、そう引っ張らなくても……」
リエーフの手を引いてこちらにぐいぐいと向かってくるカマルにサイードは笑いかけた。自他共に認める孫馬鹿の顔に、リエーフが呆れた顔をしているがそれも気にならない。
「そうか、どうしたんだ?」
「あのね、さっきね!」
きらきらとした瞳で見上げてくるかわいい孫息子に、サイードは目を細めるのだった。