第四十一話 黒い貴婦人
取り付けた約束の時刻は夕刻のほんの少し前といった頃合いで、ニケはそれまでに紅茶や茶菓子にどれを使うかを決めるよう侍女達に求められた。幸いにも茶会を主催した経験がないわけでもなく、味わいのすっきりとした銘柄の紅茶と、義母が好みそうな形の凝った菓子を買いに出るよう頼んで、一息つく。
ニケと違い義母は宝飾品を取り扱う商人を午後から呼んでいるようで、同じ屋敷に住んでいるとはいえ目上の立場である義母を招く茶会の準備に時間があって困るということはなかった。
紅茶を淹れるのは上品なクリーム色の夏薔薇が踊るカップにソーサーを、と大まかな指示を出し終えたところで奥様、とニケに声がかかる。
「奥様は首飾りなど、お求めになられなくてよろしかったのですか?」
「えぇ……ドレスも首飾りも、旦那様に贈っていただいたものがありますから。一度も身に着けていないものもありますし、先にそちらを、と思って」
口元に手をやってニケはそう答えた。
実際夫が季節の折に誂えてくれたドレスや装飾品の中にはまだ一度も袖を通していないものがある。普段使いならばともかく、夜会向けのドレスとなれば袖を通したものの方が少ないのではないだろうか。時代遅れと取られるような型のものを着るのは避けた方がいいだろうが、それ以外のものを先に着てしまう方がいいだろう。
「旦那様からの贈り物ですもの、ええ、そう思われるなら新しいものはまた今度でもよろしいかと思いますわ」
少し年かさの侍女は微笑を浮かべ、隣にいるまだ若い侍女も頬をほんのりと赤くさせている。微笑ましげなその様子にどうしたのだろうとは思うものの、少し喉が渇いていたニケは二人にお茶の支度をしてくれるよう頼み、そのことについて深く考えることはなかったのだった。
義母の名は、マルフィール・ソーニョ・ネグロペルラという。
名門ネグロペルラ伯爵家の先々代当主と、王族を祖母に持つ同じく名門のソーニョ侯爵家の令嬢との間に生まれ、幼い頃から父譲りの艶やかな黒髪と母譲りのはっきりとした目鼻立ちから将来を楽しみにされてきた令嬢であったらしい。
上に一人兄がいたが彼は生来病弱で、爵位を継ぐことなく若くしてこの世を去った。その時既に義母は義父と結婚しており、ニケの夫を身ごもっていた。病床にあった義母の父から義父は中継ぎとして爵位を譲られ、つい最近それをニケの夫が継いだ。ネグロペルラの家に強い愛着を持っているらしい義母にしてみれば、それはずっと待ち望んでいた時だったのだろうことはニケにも予想がついた。
不仲だった夫――つまり義父――との間に設けた子ではあるが、義母は自分の父や兄の面差しを受け継いだ我が子――ニケの夫――をいたく溺愛して育てた。血の繋がった唯一の近しい家族なのだから、それは可愛かったのだろう。その子に父親の面影を思わせるようなところがなかったのもそれに拍車をかけたのだろう――ただ一つ、武術の才を除いては。
元々義母は息子に文官となり政治に関わる地位に就いて欲しいと思っていたが、それよりも武官となるのに望ましい才能が息子にはあった。貴族としての乗馬や武術の鍛錬が人並外れた腕前であると知った時、義母の心の内に自分の夫に対する念があったのかどうかは定かではない。しかし反対する義母を押し切って息子は武官の道を選び、一度選んだのだから、と義母もそれきり反対することはなかった。
その一方で、義母は四十を過ぎた今もなお社交界の華と謳われる貴婦人でもある。子をなした貴婦人達の中心は誰かと貴族に問えば、義母の名は三指に入る。フーランジェ公爵夫人とソーニョ侯爵夫人、ネグロペルラ前伯爵夫人――この三人がそれぞれ派閥を形成しているといっても過言ではないという。それぞれが美貌と教養、家柄、優秀な子を持ち、その存在は同年代だけでなくまだ若い令嬢達の憧れでもある。
ニケが夫と結婚することになった時、ニケの友人の中にはあのネグロペルラ夫人の義理の娘なんて、と羨ましがられたこともあった。三人のうち誰かの後ろ盾があれば当面社交界で困ることはないとまで断言した彼女だったが、そう言った後ただニケには向かないんでしょうね、と苦笑していたのをニケは今でも覚えている。
華やかな義母に、ニケがつい気おくれしてしまうのは事実だ。
夫に似た怜悧な顔立ちと、それでいて夫とは違って華やかな雰囲気を持つ義母に向き合えば否応なしに緊張してしまう。母屋で落ち着かない気分になってしまうのは、そこが義母の城だと分かっているからなのかもしれなかった。
「あら、このお菓子美味しいわ」
「夏の花を形取った細工だそうです」
好みに合ったらしい茶菓子にふわりと微笑する義母は本当に美しい人だとニケは思う。感情がそのまま表情に出るのではなく、抑えられた感情が表情に出る。そうさせているのは生来のもの、というよりも彼女自身の誇り高さかもしれない。
自分を律して感情をそのまま露わにしないのはニケの夫にも言えることだが、夫に関しては生来の気質も影響しているように思う。それに比べればまだ義母の方が時折内面の感情が垣間見えているといえるだろう。
幼い時から周囲にそういう気質の人がいなかったため結婚した当初、ニケは夫と義母の冷静さには驚いたものだった。今は流石に大分慣れ、わずかながら夫の心の機微に勘付けるくらいにはなったのではないだろうかと自分では思っている――真実は定かではないが。
「ニケさんは何着仕立てさせたのかしら」
「三着ほど注文させていただきました」
「あら、まだ他に商人を呼ぶつもりなのかしら」
ニケの問いに義母は首を少し傾ける。確かに三着だけでは社交の場に出るには不十分だろう。せめてもう三着は必要になる。伯爵夫人ともなれば招待を受ける夜会の数も去年とは段違いと言っていいくらいになるだろうとは夫からも言われていることだ。
「その、旦那様に贈っていただいたものがまだ他にありますので……」
「そう……まぁそう古い意匠のものはないだろうけれど、早めに仕立て直しや細かいところの手直しは済ませた方がいいでしょう。後で侍女にでも言いつけておきなさいな」
「はい。お義母様はどのようなものを注文なさったのですか?」
「私はそれなりに、といったところかしら。流行りは取り入れるけれどもう流行りを作るような年でもないですからね」
そう目を細める義母だが、秋に開かれる最初の夜会で義母が身に着けたドレスや小物の意匠が今年の流行にかなりの確率でなることは想像に難くない。今でもそうなのだから、往時の時はどれほどのものだったのか、ニケには到底思い浮かべることができそうになかった。
その後も義母が注文したドレスや宝飾品の話を聞きながら、二人だけの茶会の時間は流れていったのだった。