第四十話 注文と茶会
義父とカマルが出かける予定の日、念入りに義父の健康状態を確認して平素よりもむしろ具合がいいことを確かめたニケはハルゥの家で待ち合わせるのだという二人を送り出し、その後急いで母屋に与えられた自室へと足を運んだ。
ニケの好みからすれば華やかなものの、他の部屋に比べればまだ落ち着いた色合いで纏められた内装を見るのは十日に一度か二度程度だ。それも大抵は夕方を過ぎてからの時間帯で、今日のように窓から日差しが差し込む明るい室内を見るのは新鮮だ。
王宮ほどではなくとも屋敷のニケの私室にも控えの間はあり、今日はその控えの間に商人を呼びつける手筈になっている。まだ商人が来るまでは時間があり、ニケは義母に采配されたのだろう侍女達に流されるまま滅多にしない化粧を施されたり、普段摘まむことの少ない手の込んだ茶菓子を口にしたりして時間を潰すこととなった。
ニケの私室には離れに置いてあるのと同じく獣人の鼻でも大丈夫な香草を使った肌の手入れの道具が置いてあり、こちらで過ごす時もそれを使っていたからか侍女達はかつてのように流行りの花の香りのものを使うことはない。
そのことに安堵しつつも、ドレスを合わせる邪魔にならないようにと髪を高く結い上げられたせいでこめかみの当たりが引っ張られる、慣れない感覚にそっと眉間に手をやった。普段も家事の邪魔にならないよう腰まである髪は結っているのだが、今日のようにぎゅっと引っ張って編み込むような髪型にすることはほとんどなかった。
侍女達が張り切ってニケの支度をしているのは、普段屋敷で華やかな装いをするのが義母しかいないからなのだろう。夫も質はほぼ最上級のものを着ているのだろうが、武官という性質上あまり派手な装いはしていない。近衛の隊服に元々意匠として装飾が付けられていることもあるのだろうが。
そんなことを思っているうちに家宰に案内されて商人が控えの間に到着したとドアの向こうから声がかかった。それに応対しつつ、実際ニケが控えの間に出るのは商人が持ってきた布や見本を広げてからになるので、ゆっくりと支度を進める。侍女もそのあたりは心得たもので、特に忙しく動く素振りはみせない。
「今日の商人は、いつもと同じなのかしら」
「はい。旦那様が先日侯爵家の夜会のドレスを注文した商人を、と申されて。大奥様もよくご存じの商人でございますので、いいのではないかと」
「……旦那様が?」
夫が商人を指名した、と聞いてニケは自分でも訝しげな顔をしたのが分かった。妻とはいえ一々ドレスを仕立てさせた商人を覚えているものなのだろうか。確かに揃って夜会に赴いたのは稀なことだったが――。
ニケの疑問に何故か侍女は晴れやかな笑顔で頷く。彼女にしてみれば妻が自由にドレスを仕立てる夫は鷹揚さを兼ね備えた好人物以外の何物でもない。
「はい。好きなように仕立てさせて構わないと。後日他の商人をお呼びになることもお認めなさったそうで」
「そうなの……」
今までになかった気遣いにニケが戸惑っている間に支度も終わり、ドアの向こうからも準備が済んだと知らされる。
少しばかり憂鬱な時間の始まりに、侍女達には気取られぬようニケはそっと溜息をついた。
結局その日ニケは商人に三着のドレスを注文した。
エメラルドよりも濃い色合いの緑の布を、ひだの美しい意匠で一着。これは形の美しさが大事だからと特に刺繍を入れないことにした。二着目はワインのような深みのある赤色の布に、何枚か薄布をかさねてシルエットをふわりとさせたもの。既婚者が着るには少し派手ではないかとニケは思ったのだが、侍女達の華やかな色を、という声に押されてこれを選んだ。他の候補が淡い色合いの水色やピンクだったのもある。三着目は白いドレスで、形に特筆するところはないが表面に銀糸と真珠を使って細かい蔦の刺繍を施すこととなった。
大きく胸元の開いたものなど今もてはやされているという、ニケには少し着るのが気恥ずかしくなるようなものにならなかったことにほっとしつつ、採寸を済ませたニケは後日仮縫いを終えたドレスを一度合わせるために持ってくるという商人に了承の意を示して私室へと戻った。
商人から見せられた色とりどりの布や見本のドレス、果ては小物などを先ほどまで手に取っていたせいか、心なしかニケの世話をする侍女達の頬も紅潮している。お伽噺の主人公の姫君もかくやという品揃えだったのだから、そうなるのも無理はない。流石社交界の華と謳われ続ける義母が贔屓にしている商人だと言えた。
そこではた、と思い至ってニケは控えている侍女に声をかける。
「今日お義母様は屋敷にいらっしゃるのでしょうか」
「はい。先程の商人の親が大奥様のところに参っています。そろそろ大奥様も注文を終えられた頃合いかと」
「そう……」
侍女の言葉にニケはそうだろうか、と思った。義母のように着飾ることに妥協しない人ならば、ニケの何倍も時間をかけてドレスを選ぶだろう。ひょっとしたらもう既に大まかな注文は済ませていて、今日は細かい調整だけなのかもしれないが。
だがそうだとしても、社交界のための準備にあてられる今の時期はどこの夫人がこんな意匠のドレスを、だとか様々な情報が商人の口から語られる。ニケがドレスを選んでいた時もニケと近しい年齢の子爵夫人や侯爵夫人がどのようなドレスを注文したらしいと真しやかに話していた。誰かと同じような衣装では着飾る意味がないと、商人から話を聞いて細かい注文を追加するのが普通なのだという。
思えばニケが結婚前近所に住んでいたお針子のおばさんが急に意匠の変更があって寝る時間がないと嘆いているのをよく耳にした。勿論それだけの賃金は商人から貰っていたのだろうが、大変そうだと思ったものだ。ニケも家計を助けるために針仕事を知り合いの商人から引き受けていたが、貴族相手の品は本職のお針子がやっていたので請け負ったことがなかった。
夫が正式に家督を継いだ以上、昨年よりも社交の場に出なくてはならないだろうことは明白で、ニケは元々得意ではないだろうそういった場所で上手くやっていけるのか頭が痛くなってきた。
こういう時には経験者に聞くのが一番だ、とは思うものの、身近で適任なのはおそらく義母くらいなものだろう。離れにこもっているニケがするべき家の些事まで采配しているであろう義母にそういうことを尋ねるのは気がひけるが、背に腹は替えられない。
「お義母様とお茶でも、と思うのですが、都合がいいかお義母様付きの侍女あたりに尋ねてきてもらえますか」
「はい、かしこまりましたっ」
心なしか言葉尻を弾ませた侍女が義母直々の了承の言葉を携えて戻ってくるまでに、そう時間はかからなかった。