第三十九話 華やかな季節
夫に想う人が出来たのかもしれない、ということに気付いた時にニケが感じたのは嫉妬や不安でもなく、心苦しさだった。
もうすぐ三年になるだろう結婚生活の間、ニケは伯爵家の女主人として相応しい行動を取ってきたとはいえない。義母が腕を振るっているのを言い訳にして、分からないことに取り組むのを避けてばかりいた。
こんなニケに夫が愛想を尽かして――仮にも数年連れ添っているのだから情くらいは抱いてもらっているだろうか――、他に愛する人を見つけても不思議ではないのだ。
ニケは社交的とは言い難いし、今だって自分とカマルと義父のことで手一杯で、他に目を向ける余裕も常に持てそうにはない。貞淑と寛容を美徳と求められる貴族の奥方からは程遠いだろう。
普段家事をしているから、この数か月で手も結婚前のように荒れている。ハルゥから手に塗るクリームを分けてもらいそれを使うようにはしているが、水仕事をしていれば手は荒れざるを得ない。炊事はともかく洗濯は見苦しいと諫言を受けて使用人に任せるようにしていたが、これから秋も深まり本格的な冬を迎えようとしているのだから、まず悪化は避けられない。
いくら夫が武官だといっても名門伯爵家の妻ともなれば、普通は白魚のような繊手を持った深窓の令嬢こそが相応しい。ニケのような家事で荒れた手を持った女はまず相応しくないと思われるに違いなかった。
そういえば先日閨を共にした時も、夫はニケの手を注視していたように思える。流石に寝所では夜会の時のように手袋をつけて荒れた手をごまかすようなことはしないから、夫の目にはみっともない手が映ったはずだ。
そう考えてニケは自分の手をじっと見つめた。
爪もこまめにやすりで削って伸ばすこともせず、手肌は明らかに荒れている。庶民の中ではまだ綺麗な部類に入るだろう手も、労働などほとんどしない貴族の中ではみっともないとされる。
ニケは今まで自分の手を恥ずかしいとは一度も思ったことがなかった。それは母もこのような手をしていたし、女は働き者でなければ、というのを母から言い聞かされていたせいだった。たとえ器量よしでなくとも、愛想が良かったり働き者であればいい縁に恵まれるから、と母はよくニケに言っていた。そう言いながらもまだ若いうちはおしゃれも楽しみたいだろうと重い水仕事はニケに任せなかった母のことがニケは本当に好きで、だからこそ自分も母のような働き者になりたいと思っていた。
けれどニケが結婚した夫は、ニケが働き者であることを望まないだろう。
上位貴族とは、そういうものだ。
肩を落としてニケは立ち上がり、今日の家事の予定を頭の中で組み立てる。
なんとなく身に着けていた琥珀の首飾り――市で夫が贈ってくれたものだ――を外して数少ない普段使いの装飾品を閉まっている小さな木箱と共に並べられた、琥珀のはめ込まれた箱の中にそれをしまう。改めて見ても、ニケが普段使うには華やかすぎるものだ。
「……似合わないもの、ね」
そう小さく呟いて、ニケは一度だけきゅっと拳を握ると、深く呼吸する。
――嘆くことはあっても、恥じてはいけない。働き者の手を恥じることは、自分の母をも恥じることだと分かっていたから、ニケはそれきり手を見つめることなく家事に取り組んだ。
「かかさま……」
最近気分が落ち込みがちなニケを心配していたカマルが、その光景を見ていたのには気付かなかった。
気を取り直して家事を再開したニケは、ふと思い立って部屋で剣の手入れをしている義父のもとを訪れた。鈍く光を反射する剣には見慣れていても背筋を伸ばさせるような力がある。ニケが普段扱っている包丁と違うように感じるのは、剣が戦うために作られているせいなのかもしれない。
「ニケか、どうした」
「実はリエーフさんに先日カマルに付き合ってくださったお礼をしたいのですが、お義父様ならどう連絡をすればいいかご存知ではないかと思って」
「あぁ……だがあいつも隊商の一員だ、ひょっとしたらもう北の方に戻っているかもしれん」
「もう、ですか?」
夏の頃に都にやって来たとはいえ、もう北の方に戻るのかと驚くニケに義父は首をひねる。
聞けば、北からの隊商の中には夏の早い頃に都に来て秋のものを売り、その金を持って冬支度を買い込んで秋に入ったところで北に戻る一団もいるのだという。中にはその秋のうちにもう一度都に戻ってきて冬を都で過ごす隊商もいるというが、リエーフの属する隊商がそうかどうかは分からない、とも。
それを聞いてニケは残念さを表情に滲ませる。
リエーフはカマルがいたく懐いている人であるし、義父にとっても親しい人である。特に分別のある義父はともかくまだ幼いカマルにとって彼が北に戻ってしまうのは寂しいことだろう。
ニケもこのところ社交の時期を迎えて頻繁に舞い込むようになったお茶会や夜会の誘いの対応に伯爵夫人という立場上追われており、カマルが願うように外に連れて行ってやることが出来ていない。カマルがリエーフに会ったのも先日送り届けてもらったきりだ。
そんなニケの思いを感じたのか義父が口を開く。
「まだ忙しいのは続くか」
「はい……断りきれないお誘いが多くて、むしろこれからもっと忙しくなりそうです……お茶会にしても夜会にしても昼間に予定や準備が入ってしまいますし……」
抑えきれず溜息をついたニケに、義父も眉間の皺を深くする。
ニケは言葉に出さなかったが、主催のお茶会を開くように義母から仄めかされていることもある。夫が家督を継いでから伯爵夫人としてのお茶会を開いてこなかったのはニケの落ち度なのだが、ここまで予定が詰められてしまってはとてもカマルをどこかへ連れて行ってやることは出来ない。最近はハルゥの家にも連れて行ってやれていないくらいだ。
「ここ最近は寒さもない……明後日にでも俺が連れて行こう。あいつには連絡して、来れるようならハルゥのところに来てもらえばいい」
「あ……でも、お義父様の体調の方は……」
「昨日の診察でもしばらくは大丈夫そうだと見立てをもらった。あまり心配するな」
ハルゥの家なのだから、と念押しされてニケは躊躇いながらも頷く。残念ながら明後日はこれからしばらく出席する夜会に着ていく予定のドレスを何着か合わせることになっていた。おそらく午前中から午後一杯までニケは身動きを取ることが出来ないだろう。
去年まではそうでもなかったのだが、正式に伯爵夫人となったからには、と義母に言われて今年は新しく何着もドレスを仕立てさせる運びになったのだ。綺麗なドレスを見る分にはいいのだが、何着も合わせて丈を直したり意匠が他の夫人達と極力被らないように調べたりと、なかなかに大変なことがニケを待ち構えている。
明後日のことについては義父の体調次第では無理を言って実家の兄弟達を頼ることにもなるかもしれない、と思いながらニケは義父に言われた宛先あてに手紙をしたため、使用人にそれを届けるよう任せたのだった。