第三話 変化の始まり
久しぶりに屋敷に帰って来たらしい夫は、相変わらずの整った面差しに若干の困惑を滲ませていた。
普段感情が表情に出ない人だけに、内心珍しいこと、と思う。元々僅かに感情が出る瞳も黒いせいか、ニケにはその色が夫の感情を覆い隠しているような気がしてならない。
若い頃から今まで『黒姫』と讃えられた義母譲りの艶のある黒髪黒目はこの国では珍しいものだった。けれどそれは夫を周囲から浮かせるということはなく、むしろ夫の雰囲気を独特のものにしつつも人の目を引き付けるものだ。
そんなことを考えていると夫が口を開いた。
「私の留守中変わりはなかったか」
「はい」
「そうか」
もう定型句のようになってしまった夫が帰宅した時のやり取り。
何かあったとしても私が知ることも関わることもない間に義母が処理してしまっているだろう。夫もそれは承知なのかいつも同じ返事しか返せない自分を責めることはなかった。
屋敷のことは義母に聞いた方がいいと、分かっているのだろう。
「────話がある」
唐突な切り出しに普段とは違う空気を感じてニケは反射的に姿勢を改めていた。
ちらりと義母を窺うと、どことなく疲れたような顔をしている。いや、むしろ途方にくれたような────
「……父が、倒れた」
「お義父様が、ですか?」
「おそらく前線は退くことになるだろう。後のことは経過次第だろうが」
つまり剣を振るうことはなくなるだろうが、回復の度合いによっては戦場で指揮を取ることもある、ということだろう。
脳裏に義父の姿を思い浮かべてニケは残念なことだ、と素直に思う。
ニケの父もかつては義父の部下だったことがあり、ニケを含む兄弟は今の義父の武勇伝を散々聞いて育った。兄達が武官を志したのは父と共に義父の影響が大きいだろう。
その武勲でのみ一小隊隊長から将軍位にまで上り詰めた、間違いなく国の英雄に数えられる武官が、義父だった。
戦場で名乗りを上げれば敵は剣を捨てて馬の頭を返して逃げ出したという。向かい打つところ敵なし、常勝将軍と民衆に渾名された稀代の名将軍。
そんな義父がもう剣を振るうことがないということを、ニケは素直に残念だと思った。
「それではしばらくは療養を?」
「そうなる。陛下直々に療養をお命じになられた」
まだ若い国王陛下にも義父は重く用いられていると聞く。
そんな義父の一大事に陛下直々に療養の命が下るとは、貴族としては名誉なことだった。
けれどニケの前にいる夫と義母の顔は晴れない。
(お義父様が療養ということは……この屋敷に帰ってこられるということでしょうし)
義母中心に動いているこの屋敷に、その義母と仲の悪い義父が長期間居続けるということは、きっとニケが嫁いでくる前にもなかったことなのだろう。
それで夫も義母も戸惑い、困惑しているのだろう。
そう解釈して私はふと夫に尋ねた。
「旦那様、お聞きしたいのですが」
「何だ」
「お義父様のお世話はどの使用人が?」
夫と義母の表情が目に見えて固まる。
(……まずいことを聞いてしまったでしょうか)
そう、この屋敷ではほとんど全員の使用人が義母の味方で、義父のことを好いていない。
最近雇い入れた使用人はどうか分からないが、そんな新人に当主の世話を任せるわけにはいかないのだろう。伯爵家の名折れになる。
「…………」
「…………」
「…………」
部屋に重い沈黙が落ちる。
ニケは目を伏せてあまり顔を合わせたことのない義父の顔を思い出した。
夫とはあまり面差しの似通わない、濃い赤毛は年のせいか最後に顔を合わせた時には朱色じみていた。それとは対照的に鍛え上げられた戦士の体はまるで衰えを知らないかのようにたくましいまま。
ニケが幼い頃から聞かされた、『常勝将軍』のイメージそのままに。
────その武勲に憧れたのは、兄達だけではなかった。
そして気がつけばニケは夫と義母に申し出ていた。
「その、私がお義父様のお世話をするというのは駄目なのでしょうか?」
ニケは夫の表情がこうも劇的に変わるのを、初めて見た。