第三十八話 苦い疑念
ニケが急に夫に呼ばれ母屋に赴いたのは、もう夜も遅くのことだった。
あまりに急な呼びたてに義父も流石に顔をしかめていたが、カマルが夜中に置き出した時のことを頼んでニケはショールを羽織って、使用人に先導されて夫の私室へと向かった。
離れから母屋のわずかな距離を歩いただけで体は冷えてしまったが、それも母屋の中に入ればそこかしこで暖炉に火が入れられているおかげでかなり和らいだ。裕福な貴族だからこそ出来る秋から冬にかけての贅沢といえるだろう。
底冷えのしないように敷かれた絨毯に、足元に気をつけていたニケの視界に闇によく紛れる黒い布が飛び込んできたのは唐突だった。
「ニケ」
「アルトゥーロ様」
「後はいい、下がれ」
帰宅した時のままであろう、黒い近衛の隊長服を纏ったままの夫の姿にニケが足を止めて驚きに目を見開いている間に、夫はニケを先導していた使用人を下げさせた。そのまま近付いてくる夫に何と声をかけたらいいのか思案して、ニケは無難な言葉を口にする。
「お勤め、お疲れ様でした。先程お戻りになられたのですか?」
「あぁ。……急に呼び立ててすまない」
夫からの詫びにいえ、と首を振るニケの肩にそっと上着がかけられる。布に残っている温もりからそれがつい今しがたまで夫が羽織っていたものだと知れて、ニケは夫の顔を見た。
「女人は寒いのが苦手だと聞いた……羽織っておけ」
素直にその心遣いに甘えることにしたニケは肩に手を伸ばして上着の位置を直す。武官の憧れであるこの黒い隊長服をまさか自分が身に付ける日が来るなんて、きっと下の弟達はうらやましがるだろうと考えて、そこで少しニケの心は和んだ。近いうちに自分の自由になるお金のうちから何枚か服を仕立てて、弟達に送ってあげようと思ったところで肩に触れた感触にニケは顔を上げる。
部屋に、と予想していたよりもかなり近い位置から聞こえた声に動揺するニケをよそに、夫は力強くニケの肩を抱いたまま自室へと足を進める。背の違いから必然と二人の歩幅も違っているはずなのだが、ニケが普通に歩くのと変わらない歩調なのもまた夫からの心配りなのだろうと分かってニケは内心で首を傾げた。
先日二人で市に行った時にはニケはまだ夫に合わせて少しだけ早足にならざるを得なかったのだが、今日は格段に夫が女性に対する心遣いを心得ているような気がする。ニケもさして上品な育ち方はしていないのでこういった扱い方をされると――もっとも今日会ったばかりの兄はこういう風に唯一の妹を甘やかすのもしばしばだった――くすぐったいような気持ちになるのだが、夫が今まで比較的貴族の男性としては鈍感だった面に急に鋭くなったのが気にかかった。
(これはつまり……そういうこと、なのでしょうか)
何となくもやもやとする思考がわずらわしく、気がつけば二人は夫の私室に入っていて、ニケは夫に促されるままカウチに腰を下ろそうとして途中で姿勢を正した。
「あの、お茶の準備を……」
「使用人に……いや、頼む」
夫の了解を得たところでニケは控えの間に用意されていたカップやポットを取り出し暖炉の火で湯を沸かす。
正直なところ、思い至ってしまった可能性のおかげで今すぐに夫と二人きりで顔と顔を突き合わせる状況というのは避けたかった。少しだけ、自分の中で思考を整理する時間が欲しい。
今まで女心や気遣いに疎かった男が急にそういうのに気がつくようになるというのは、浮気以外何物でもないのよ、と達観していた顔で嫁入り前のニケに語った近所の女性の言葉をひとしきり反芻して、ニケもまたつまりはそういう可能性があるということだろう、と結論付けた。
ニケにそう語った女性は無骨な職人気質の男性と親同士の縁もあって結婚したのだが、数年経って急に夫が気遣いを身につけたのを不思議に思っていたら夫が実は工房に出入りしていた商家の使用人といい仲になっていたのだという。その後は夫と暮らしていた家を出て今はニケの生家の近くで針子として両親と共に暮らしている。離婚の話し合いを今も進めているとこの前ニケも母から近況を聞いたところだ。
そんな女性の別居のいきさつと今の自分の置かれている状況が重なる気がして、ニケは一つ溜息をついた。
よく考えればおかしくはない話なのだ。
ニケは義父の世話という名目で離れにこもっているどころかほとんど離れで居住しているし、さして殿方に好まれるような容貌も気質も持ち合わせているような女ではない。夫のような無口な人間にはきっと社交的で話し上手な女性の方が合っているのだろう。それこそ兄妹で夫と幼なじみだというヴィオレット嬢のような女性が。――もっとも、彼女と夫に関してはそういった感情がないのは傍から見ていても分かった。あの雰囲気はニケと兄が一緒にいる時とよく似ていたから。
ともかく夫に対していささか負い目のあるニケは夫から言い出される時を待つしかないのだろう。
ぐるぐるとうずまくものがあっても体は順調に二つの紅茶を準備して、それぞれ一つずつ真っ白な角砂糖を入れる。優美な文様の描かれたトレーに載せてそれを手に持ち夫の私室へと戻ると、夫はちょうど隊服から夜着へと着替えているところだった。夫の着替えを見るのはあまりないことで、妙な気恥かしさを覚えてニケは目を伏せる。兄弟達のおかげで着替えの光景自体は見慣れていると言っていいのだが、それが夫のものとなると上手く看過できないのは不思議だった。
「……すまない、もう大丈夫だ」
「いえ……」
「紅茶はそこのテーブルに……ありがとう」
視線で促されてニケはカウチに腰かけ、夫も向かいのカウチに腰かける。それぞれが余裕はあるものの一人掛けのこれらはつい先日この部屋に来た時にはなかったものであることに気付いてニケは自分を落ち着かせるために紅茶を口に運んだ。
私室に、一人掛け用のカウチが二つ、それも対になるような意匠、となれば二脚一対で使うものに違いないだろう。しかも夫の趣味にしては曲線の美しい優美なカウチである。単に夫が私室に置くのならもっとどっしりとした重厚な造りのものを選んだのではないだろうかと思ったが、そこまで考えるのは邪推が過ぎると自制する。――疑えるような筋合いは、自分にはないと思えた。
ニケの苦悩を尻目に夫もまた紅茶に口をつけ、一言美味いと言ってカップをテーブルの間に置く。二人の間を遮るテーブルの存在が今更ながらにありがたく思えて、自分から話しかける気にはなれないままニケはカップの持ち手に指を這わすことを繰り返した。
部屋に響くのは暖炉にくべられた薪のはぜる音だけで、音だけならば離れと同じなのにニケにはちっとも落ち着きがない。それに気付いたのか、夫がやや躊躇いながら問いかける。
「……随分と、落ち着きがないな」
「そう、でしょうか」
自分の中でも上手く整理出来ていない理由を話す気にはなれず、はぐらかしにかかったニケに夫はわずかに眉を寄せたもののそれ以上に追及する気はないようで、一度間を置いてから再度口を開いた。
「今日、お前が玄関先で義兄上をお待ちしていたと聞いた。何かあったのか」
「はい。……今日はカマルを実家の方に遊びに行かせていたのですが、連絡がなく帰りが遅いのが心配になって、玄関の方に。……兄弟のうちから誰かがあの子を送ってくれる約束でしたので」
「そうか。セラピアの家の方で何かあったのかと思ったが、杞憂だったようだな」
「申し訳ありません、お忙しいのに瑣末なことで……それに、見苦しい真似を」
「……いや。母上も玄関で私を待っていたことがあったものだ。その程度のことを気にするな」
夫の慰めに小さく頷いて、ニケは少し冷めた紅茶を口にする。砂糖を入れたはずなのに、やけに渋みが舌をついた。茶葉を蒸らしすぎてしまったのだろうと、思った。