第三十七話 ふとした疑問
予想もしていなかったリエーフの姿に、ニケはどうして彼と兄、カマルが一緒になったのかと首を傾げる。その説明をしたのはニケの兄だった。
「さっきカマルが知り合い見つけて追いかけてった、って言っただろ?」
「えぇ……」
「それがリエーフさんだ」
「そうなの……」
「久しぶりだったのが嬉しいみたいでな、カマルがなかなか離れたがらなくて……リエーフさんがこっちまで送るから、ってことでカマルも納得してやっと今着いたとこだ」
兄の口調が拗ねているように聞こえるのは、ニケの兄弟の中でこの兄が一等カマルを可愛がっていたからだろう。カマルがリエーフに懐いているのを見て、少しばかり拗ねているに違いなかった。
二人が話している間もカマルはリエーフに話しかけていて、あまり人に話しかけることのないカマルのそんな様子はニケにとっても嬉しいものだった。それに心配が取り越し苦労に終わったのもその一因ではあるだろう。
ただカマルには義父にも心配をかけたことを少し怒らないといけない。
「兄様もごめんなさい、カマルに振り回されたみたいで」
「気にするな。リエーフさんに色々話も聞けて楽しかったし……親父の知り合いみたいだし、今度夕飯でもどうかと誘っといた」
「リエーフさんもお仕事がお忙しいでしょうから、あんまり強引にお誘いしたら駄目よ兄様」
ニケの言葉に分かってる、と笑った兄にほんの少し不安を残しつつも、ニケは改めてリエーフに頭を下げた。
「カマルを送って下さってありがとうございました……カマルも、リエーフさんにお礼を言いなさい」
「ん! おじちゃん、ありがと、ございました!」
「おう……嬢ちゃんも坊主のことが心配だったろうし、今晩は寒いから早く中に入りな」
「はい、ありがとうございます」
「おじちゃ、また、ね!」
尻尾を大きく左右に振るカマルに微笑ましげな表情を浮かべ、リエーフはニケの兄と連れ立ってその場を後にした。また改めてお礼をしなければ、と思いつつ、ニケはその場でしゃがみこんでカマルに視線を合わせる。
「お帰りなさい、カマル」
「ただいま、かかさま」
「離れに戻ったらお義父様にただいまとごめんなさいを言うのよ?」
「……はい」
ニケの言葉に心なしかカマルの耳が項垂れた。
それを見るとニケも少しばかりカマルに甘くなってしまう。
「……その後で、リエーフさんのことをお義父様に話してさしあげて」
「ん! おじちゃ、すごい!」
暗い中でも分かるくらいにきらきらと輝くカマルの瞳に笑って、ニケはカマルに手を差し出す。カマルが首を傾げるのに、ニケはそっと口を開いた。
「母様は足元がよく見えないから、カマルに手をひいてもらえたら嬉しいわ」
「……! カマル、がんばる」
やる気を表すかのように一気に耳と尻尾が天を指す。獣人を愛玩目的で囲う者の気持ちが少し分かってしまったかもしれない、とニケは思いつつ、門番をねぎらうとカマルに手を引かれ離れへと戻っていった。
離れへと戻ると義父はカマルの心配をし、何があったかをニケに尋ねた後少しばかりカマルに説教をして――その後は相好を崩してカマルが嬉しそうにリエーフの話をするのを聞いていた。
昔の部下の中でも特に目をかけ可愛がっていたらしいのがその様子からも伝わって来て、ニケは改めて何故今リエーフが隊商の一員をやっているのだろうかと疑問に思った。義父は贔屓をするような人ではなく、目をかけていたというなら相応の実力がリエーフにはあったということだ。もし今頃軍にいたなら、かなり高位の武官になっていてもおかしくはないだろう。見たところ何か怪我を負って退いたという風でもない。
なんとなくカマルの前でそれを訊くのは憚られて、ニケは興奮冷めやらぬカマルをどうにか寝付かせた後、義父に就寝前のお茶を出した時にそのことについて尋ねることにした。
お茶に口をつける義父の様子をそれとなく窺いながら、ニケは口を開く。
「お義父様」
「どうした」
「リエーフさんはどうして軍をお辞めになられたのか、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「……他人が話してもいいと思える範囲までだけだが」
構いません、と頷いたニケに椅子に腰かけるよう促し、義父は懐かしげに暖炉の火を見やる。ちろちろと揺らめく炎に透けて、義父の赤い髪が鮮やかさを増した。
赤土の色をした瞳にふとよぎるのは、後悔の色だ。
「あいつが軍を辞めたのは、俺のせいでもある」
意外な言葉にニケははっと顔を上げた。
それに苦笑しつつ、義父は自分を落ちつけるように椅子の肘置きを指先で何度か叩く。
「俺が将軍になってしばらくした頃、あいつもそこそこの地位にいてな。若さからしても、平民出身にしても、かつての俺ほどじゃないがかなり異例と言っていい昇進具合だった。――ただ」
そこで義父は言い淀むように一度深く息を吸うと大きく息を吐き出す。ニケの耳にはそれがまるで溜息のように聞こえた。
ニケが幼い頃寝物語に聞いた義父の話でも、長じて知った義父の話でも、義父が将軍位まで上り詰めたのはかなり若い頃で、二十代の後半から三十代の前半くらいだったと聞いている。普通であればその年で中隊を預かっていればかなりの出世頭を目されるくらいだ。現にあと数年で三十になろうとしているニケの長兄も優秀な武官だと言われてはいるが、小隊を二つほど任されている程度で、義父の昇進具合が随分異例のものであったことは察せられた。――たとえ将軍位についた要因に義母との婚姻があったとしても、それまでの昇進は義父の実力によるものだ。
それだけ戦の多い時代で、それだけ義父が飛び抜けていたということだろう。
ニケがそう考えたところで、ようやく義父が口を開く。
重々しげに発された言葉にニケの目が見開かれた。
「ただ――俺とあいつの髪の色がなぁ……似ているってことで、あいつが俺の隠し子なんじゃないかって噂が広まってな」
「え……」
「勿論噂は噂だ。本当なら俺はあいつを十六の時にこさえてる計算になる」
溜息と共にぐしゃりと髪をかき乱して、義父は表情に苦いものを走らせる。ニケもその表情に無理はない、と思えた。
義父やリエーフは微妙な違いはあれどもどちらもあまり見ることがないくらいに鮮やかな赤い髪をしている。ニケ自身義父とリエーフ以外にそんな赤い髪を持った人にはそう会ったことはない。もしニケが何も知らず義父とリエーフの二人を見れば、親子か家族だろうかと考えただろう。
けれど事実は違う。
それなのにそんな噂を立てられたということは、誰かがその容姿の類似に付け込んだのだろう。
文官に比べれば実力主義の軍といえども、平民出身であるリエーフがそれこそ義父のように昇進していくことをよくは思っていなかった者などごまんといたに違いない。そのなかの一人が、婿入りという形ではあるが名門伯爵家の一員となった義父のことも妬んで、二人共を中傷するような内容の噂を流したのだろうか、とニケは思う。これは推測にすぎない考えだけれども、きっと大筋はこんなところだろう。
「あいつに申し訳なくて、でも俺がかばえばかばうほど噂が本当なんじゃないかって疑われて……最終的に、あいつは軍を辞めてどっかへふらっと消えた」
「そう、でしたか……」
「あいつ自身色々と思うとこがあったんだろうが……それがこの間十年ぶりに会った時には、どうして一言でいいから言ってくれなかった、って頭に血が上った。お前にも見苦しいところを見せたな」
悪かった、とこぼした義父にニケは首を横に振った。
思ってもいなかった過去の出来事を、ニケもまだ上手く呑み込みきれていなかったけれど、そのことを知ってニケはリエーフの存在をありがたく思った。
義父にとって、彼はきっと弟か息子のような存在だったのだろうと思えて、そのことに安心した。義父の育ての親だという老夫婦や、リエーフの存在がきっと義父にとっての助けになったことはニケにとっては疑いようもなかった。
夫や義母と、義父との不仲はニケの目からも明らかで、本来家族から与えられるべき安心を義父に与えていたのは彼等や、周囲の人々だったのだろう。
ニケはそのことにこの上なく安心していたのだった。