第三十六話 不安と驚き
先日から義父が知り合いに尋ねていた、新しい使用人のことについて話があると呼び出された義父が離れに帰ってきたのは、ニケが夕飯の支度をし終わった頃だった。
「お帰りなさいませお義父様、体調の方は大丈夫ですか?」
「今日は暖かいし、心配するほどじゃあない。カマルはどうした?」
「今日は私の家の方に遊びに行っています。私も一緒だったのですが夕飯のこともありますし、兄がカマルを送ってくれるというのに甘えて一足先に帰ってきました」
「そうか……気を使わせたか?」
ニケが義父のためにわざわざ早く帰宅したのかと勘繰った義父にニケは首を横に振った。
義父のこともあるが、今日もニケの父や甥と一緒に鍛練に精を出したカマルは相当腹をすかせているだろうから返って来てすぐにご飯を食べさせてやりたかったのもある。流石にカマルのためだけに材料や香辛料に気を使う料理を実家の母に頼む気にはなれなかった。
そのことを口にすると義父もあぁ、と頷いた。
「確かに鍛練の後、飯まで間が開くとガキの頃が辛かったものだ」
「お義父様もですか?」
「あぁ。軍に入る前よりも入った後の方が訓練と厨房のタイミングが合わなくてひもじかったくらいだが」
「そういえば兄や弟もそんなことを愚痴っていたような気がします」
ニケの兄弟は父に倣って軍に士官する者が多く、配属先は様々だがその中でも低位の隊の鍛練に参加しているとなかなか食事が配膳されないと母に愚痴を言っていた覚えがある。実家では母が家族の鍛練の時間を把握していたのでそれに合わせて食事を出していたが、王宮や軍ではどうしても貴族の子弟が多い近衛が優先されて低位貴族――それこそ男爵家や騎士階級、はては平民中心の隊に食事が出されるのは後回しになっているのだという。
元は平民同然だった義父は、きっとニケの兄弟以上に食事が出されるのが遅かったのだろう。
「官給舎に入ってなかったから、そのうち厨房からの食事は諦めて、婆様に弁当やら作ってもらうようにしていたな」
「婆様?」
「この間リエーフを呼びだした家にいた人だ。俺の育ての親みたいなもんでな、連れの爺様は俺に剣を教えてくれた人で――十何年前に爺様を亡くして、それ以来あそこで暮らしているんだ」
「そうだったのですか」
義父の体を温めるために一足先に塩漬け肉と芋を煮込んだスープを出して、ニケは微笑んだ。優しげなあの老婆にはきっと義父も頭が上がらないのだろう。機会があれば義父の好きな料理や味付けも聞いてみたい、と思う。
「お一人で暮らしているのですか?」
「子供もいなかったからな……まぁ周囲の夫人方に色々料理やら裁縫やら教えていたから、その縁で今でも近所の奥さん方が毎日のように婆様のことを気遣ってくれている。あの辺りは軍の中でも中堅どころの詰め所が近い分、他に比べて治安もいいしな」
「それでも男手がないのは心もとないのでは?」
ニケの言葉に義父も気難しげに唸る。義父としても老婆の一人暮らしは不安に思うところがあるのだろう。
都とはいえ治安がいいかといえばどこもかしこも治安がいいわけではなく、ごろつきのたむろっているような地区もある。地方から上ってきた人の出入りも激しい分、念入りに軍が警邏しなければ自前で護衛や私兵を持つ貴族ならともかく平民は安心して暮らしていくのは厳しいだろう。都で夜に出歩くことが出来るのは護衛を連れた貴族か、軍人か、怖いもの知らずの馬鹿だけだ、という文句もあるくらいだ。
「俺も昔から誰かしらを雇ってはどうだ、金なら出す、とは言っているが……こじんまりした家だから手入れは一人で十分だし、近所の人がいるから大丈夫だ、といつも撥ねつけられてしまってな。爺様との思い出がある家だから誰かを入れるのに抵抗があるのかもしれんが……」
「そうなのですか……」
「まぁ今は都の治安も悪くなってきているし、今度強く言ってみるつもりだ……それにしてもカマルは遅いな。もう日も落ちる頃だろう」
義父に言われニケが外を見れば、先程まで夕陽に照らされて赤く染まっていた景色はもうすっかり暗い色に彩られている。流石にこの時間までニケの実家にいるようなことはないだろうから、おそらく今は送ってもらっている途中なのだろうが――確かに遅い。
「……一度、門の方にまで行って参ります。そのうち帰って来るでしょうし、私がいれば門番に通してもらうのが簡単でしょうから」
「そうだな……屋敷の中とはいえ陽が落ちれば寒い、何か羽織っていくといい」
「そういたします……」
竈の火を一端消してからニケは去年から使っている厚めの外套――ではなく、毛織物で仕立てたショールを肩にかけた。使用人の目に触れる以上、屋敷の中をうろつくのに外套を着る、なんてことをするわけにはいかない。外套の方が遥かに暖かいのだが、こればかりは仕方がなかった。
ニケは後を義父に頼むと足早に門を目指した。頬に触れる風は少しずつ冷たくなっている。
「――奥様? いかがなさいました?」
唐突に声をかけられニケが足を止めると、何度か見たことのある行儀見習いの娘がそこにいた。確か名前は、メルといったはずだ。
「メル、だったでしょうか……」
「はい、奥様」
「少し門の方に用事があるのです。私の兄弟の一人が来るはずなのだけれど、あまりに遅いから気になってしまって……」
「奥様、もう暗くなってまいりましたし、夜風は体に毒といいます。私が門番には訪ねて参りますので奥様は屋敷の中か離れにお戻り下さいまし」
さぁ、と困った顔の少女に懇願されてしまってニケは渋々ながら頷いた。
ニケをそのまま門番のところに直接行かせてしまっては使用人としての立場がないのだろう。普通ならばニケが誰か使用人を代理に立てて門まで行かせるものだ。
「……屋敷の、玄関ホールで待ちます。私に関しては特に気遣いはいらないので、門番に私の兄か弟がまだかどうかだけ、聞いてきてくれるでしょうか」
「かしこまりました――エメ、奥様を玄関ホールまで先導してちょうだいな」
メルは同僚らしい少女にニケを任せると、足早に門の方へ消えていった。
メルに言いつけられた少女は緊張した面持ちでニケに頭を下げると、こちらへ、とニケの先を歩きだした。おそらく行儀見習いとしてこの屋敷に来て間もないのだろう。滅多に母屋にいないニケに緊張したとしても不思議ではない。
「こ、こちらへどうぞ……」
あからさまにおびえるようなことはないが、緊張しているのがよく分かる少女のためにニケはカマルが心配で逸る気持ちを抑え、ゆっくりと少女の後をついていった。
玄関を入ってすぐの暖炉のほど近くで少女は足を止めると、椅子を用意して参ります、と頭を下げて男手を呼びに控えの間に消えた。ほどなくして慌てた様子の従僕が椅子を運んで来て、ニケはふと気になっていたことを尋ねるために口を開いた。
「……旦那様は、今日は帰ってこられるのでしょうか」
「今日は近衛の方の用事が長引いておられますが、屋敷には戻ってこられると先程連絡がありました」
「そうですか、ありがとう……私はいいから、仕事に戻ってくださいな。旦那様が帰ってこられるのなら、支度が忙しいことでしょう」
「しかし奥様、」
「ここで待っているだけです……暖炉の近くですし、声を上げれば控えの間にも届くでしょう」
持ってこられた椅子に腰かけそう口にしたニケに、従僕は参った様子ではあったが頷き、ニケを先導した少女にお前は控えの間にいるように、と言いつけた後で足早に仕事へと戻っていた。残された少女は不安そうで、自分と二人きりなのも気まずいだろうとニケは少女に控えの間に戻るよう促す。小さく頷いた少女は小鳥のさえずるような声で何かありましたらお呼びたてくださいませ、と言ってその場を後にした。
使用人が誰もいなくなって、ニケはようやく肩の力を抜くことが出来た。人を使うことは結婚して二、三年になる今でも慣れないことの一つだ。ニケの生家より身分の高い子爵家の子女が行儀見習いに来ていたりするのだから、義母や夫のように使用人や行儀見習いの娘を使うことにはどうも抵抗があり、貴族の奥方らしからぬ口調で使用人に応対することになってしまう。言葉一つ選ぶにも、ニケにとっては大変な労力を要するのだ。
肩にかけているショールの位置を直しながら、暖炉にくべられた薪がパチパチと立てる音だけが響く場所で、ニケは落ち着きなさげにきゅっと拳を握り締める。
もし何か理由があって遅くなるというのなら、兄弟の誰かが知らせにやって来てもいいはずだった。ニケの生家とこの伯爵家の屋敷は地区こそ違うが、そう離れてはおらず、武官である兄弟達なら往復するのにそれほど時間はかからない。それなのに連絡がないのは、連絡もいらないほどの遅れであったか、何か不測の出来ごとがあったかのどちらかだ。
以前ハルゥがカマルのことを珍しい毛色だから売られそうになっていたんじゃないか、と零していたのを思い出して、ニケの脳裏に屋敷に来たばかりの頃のカマルの姿が蘇る。カマルがまたあんな風に衰弱してしまうなど、ニケには耐えられなかった。
何もやることがないとつい思考がそういう方向に行ってしまい、気の回し過ぎだとは自分でも思うのだがニケにしてみればカマルが心配で仕方なかった。
(こんなにも落ち着かない気持ちになるのなら、最近手をつけている編み物の道具でも持ってくれば……)
このような立派な屋敷の玄関を入ってすぐのところでそんなことをするのは見苦しいとは分かってはいても、とにかくこの不安をどうにかしてしまいたい、とニケが強く思った時だった。
「奥様、お兄様がお見えになられました……!」
少々息を荒げながらニケの元へと足早に駆けて来た行儀見習いの少女――メルの言葉に、ニケは行儀も忘れて音を立てて立ち上がった。 兄やカマルはどうして帰るのが遅れたのだろうか、そんな疑問を呑み込んでニケは足を踏み出す。とにかく今はカマルの顔が見たかった。いきなり立ち上がったことで肩にかけていたショールがずり落ち、床に落ちたのが分かったがそれを気にも留めず、ニケは門へと急いだ。
秋も深まれば日が落ちるのは早いもので、数歩先の足元はすっかり闇に染まっていた。転ばぬように気を付けながらも、灯りの下に見慣れた白い頭を見つけるやいなやニケは声をあげる。
「カマルッ……」
「かかさま!?」
ニケの声を聞きつけた白い頭がきょろきょろと辺りを見回し、獣人ゆえに夜目が利くのか灯りを持っていないにも関わらずカマルはニケを視界に捉えた。カマルに駆け寄り、どこにも怪我をしていないか確かめると、ニケは先程までの不安をかき消すためにぎゅっとカマルの体を抱きしめた。
「かかさま?」
「……帰って来るのが遅いし何も連絡がないから心配したのよ。お義父様も心配してらしたわ。……何かあったの?」
視線を合わせてそう言えばニケの様子に何か感じるものがあったのか、カマルの耳がうなだれる。理由を説明しようと動いたカマルの口の動きを止めたのは、割って入ったニケの兄だった。
「悪かったなニケ、連絡も寄越さないで」
「デニス兄様……」
肩をすくめた三番目の兄に、ニケはきゅっと眉を寄せた。兄弟の中で一番大ざっぱで粗野な兄だがニケには一等優しく、そのせいかニケの兄弟のうちでも一等カマルに甘い兄がついていてどうしてこれほど帰りが遅くなったのか、しっかりと説明してもらわなければ、と兄を見やったニケに、兄は苦笑した。
「家を出たのは早かったんだがなぁ……途中でカマルが知り合い見つけたから話したいって言うもんだからちょっと寄り道しちまってな」
「知り合い?」
兄の説明にニケは首を傾げた。カマルの知り合いといえば、ニケの家族を除けばごく狭い範囲の人々に限られる。ハルゥ一家のうちの誰かだろうか。この時間に出歩いているとなればハルゥの夫か、長男のマルジュだろうか。
そんなニケの疑問を解消したのは、兄の背後――門の方から姿を現した影だった。
「――もうこんばんは、だな嬢ちゃん。あんまりボウズと兄ちゃんを責めないでやってくれ」
灯りに透けて赤みがかっている髪の色がよく分かるその長身の男は、ハルゥ一家ではない。
予想していなかった男の姿に、ニケは目を丸くした。
「リエーフ、さん?」
義父の部下であった青年の姿が、そこにはあった。