第三十四話 盛夏の市場
ゆらゆらと遠くの地面が揺れているのを見て、ニケはうっそりと目を細めた。首筋にじわりと汗が滲む。道に敷かれた石畳が太陽の光を跳ね返しているせいで、ただ歩いているだけでもまぶしく、暑い。
カマルを屋敷にいる義父に任せて置いてきたのは正解だった、と考えながらニケは隣を歩く男を見上げた。
「……疲れたか、ニケ」
「いえ」
「都も中心から外れれば舗装が粗い、もし疲れたなら早めに」
「はい。……アルトゥーロ様も当直が明けたばかりだというのに、申し訳ありません」
「……あまり気にするな、明日も休みをもらってある」
目を細めたアルトゥーロ――夫にニケはそっと頷いて、手に持った日傘を握り直した。屋敷を出る間際に夫から渡されたそれは義母のものにしては色味や装飾が地味で、ニケのために購入されたものだろうと推測がついた。
あまり自分から衣服を新調することがない――しようと思わないニケに、折につけなにかれと贈ってくれる夫に感謝してニケは真新しい傘を携え、夫と共に北の隊商が開く市へと出向いていた。
もっとも市、とはいってもニケが以前訪れた庶民向けのものではなく、富裕層向けのある程度都の中心に近いところどころきちんとした店構えも備えているような市だが。流石にニケも夫が一緒に来ている時に食べ物を買い込むようなつもりはなく、今日の目当ては早々に都へ持ち込まれた毛織物や北で産出する鉱石だ。
それでも市中とはいえ少し離れたところには伯爵家の使用人が護衛としてついており、夫の腰には剣が下げられている。
「……北にはよい鉄が採れる鉱山が多くあると聞いております、アルトゥーロ様も今日はそれがお目当てで?」
「そうだな……新しく一本打たせるのもいいだろう。……ニケも気に行った毛皮や布があれば仕立てさせるといい」
「まだ夏ですからあまり秋や冬の服を考える気にはなれないのですが……」
「それもそうだが、早めに確保しておかねば毛皮や布が尽きてしまうだろう。母上もこの時期にはよく気を揉んでいる」
夫の言葉にニケは苦笑した。
義母は若い頃から社交界の華と謳われ、年が四十を越えようかという今も自らを装うことに手を抜かない人だ。ニケのような年頃の娘や夫人が流行を気にする時に注目されるのはフーランジェ公爵家のヴィオレットだが、その母親の世代ともなればその役目は義母が担っているといっても過言ではない。先代王妃は体が弱く離宮で療養しているために都にはいないことが多く、義母に張り合えるのはヴィオレットの母であるフーランジェ公爵夫人と、とある侯爵家の夫人くらいなものだろう。
そんな義母は流行を作る側の人で、秋や冬の衣装も早々に準備するためにそうなってしまうのだろうが、ニケはあまり流行を追う気はなく、無難なところで揃えればいいだろうと思う程度だ。そんな腹積もりなのであまり毛皮や布の確保に急いで動くつもりもなかった。
けれど夫の気遣いを無碍にするのも気はひけ、ニケは小さく頷いた。
「ならば襟巻にするための毛皮を探してもよろしいでしょうか?」
「あぁ。目に付いたのがあれば言うといい」
はい、と頷いたもののニケは果たして襟巻にするような毛皮が店に並んでいるだろうか、と内心で首を傾げていた。まだ夏の盛りのうちに都を訪れる隊商は秋に必要になるものを売っていることが多い。冬に必要になりそうなものはもう少し遅れた、それこそ秋からその終わりにかけて都にやって来る隊商が運んでくるのだ。
特にいいものが思い当たらず反射的に毛皮を、と口にしてしまい、さてどうしたものだろうとニケは夫に気取られぬ程度に小さく眉を寄せた。幸いにも夫は人の多い市で気が抜けないのか周囲を見回しており、思案するニケに気付いた風はない。
芋を洗うような、という形容ほどではないが夏の盛りにも関わらず賑わう市にはニケと夫の他にもそれなりの位階を持つ貴族や軍人の姿も見えた。道幅はそれなりにあるが、市ということもあって馬車の乗り入れには不向きなこの通りは徒歩を余儀なくされる。そのこともあってか夫のような高位の貴族の姿は他に見受けられなかった。
夫に合わせ常よりは少し早い足取りで、ニケは市に立ち並ぶ店へと視線を滑らせていく。
やはり毛皮こそ少ないものの、北方に多く出るという琥珀を連ねた装飾などは見事なもので、そういったものには人並み以下の興味しか持たないニケも思わず足を止めるほどだった。
「ニケ? ……あぁ、琥珀か」
「見事な細工だと思いまして」
「北には琥珀を細工することに長けた街がある、おそらくはそこからのものだろう」
華やかな色合いの宝石もあるが、ニケはどちらかといえば落ち着いた色味や、淡い色味のものの方が好きだった。――それだけでなく、黄味がかった飴色は美しく、今は家にいるカマルの瞳の色を思わせた。
琥珀も見て足を止めたニケに、夫はよく見ればいいとニケを通りから店の中に入るように促す。琥珀を扱うだけあってきちんとした店構えのそこに、ニケが促されるままに入ると、店の中にも様々な琥珀の細工物があった。装身具だけでなく、日常に使うようなものにまで琥珀をあしらった品があるのにはニケも驚いた。
店の中に入ればほどなく奥から人好きのする笑みを浮かべた男がやって来て、ニケと夫に頭を下げた。身なりからして、おそらくは店の主人かそれに準ずる立場の人間だろう。
「いらっしゃいませ、何か気に入られたものがありましたでしょうか」
「…………これらは、北から?」
「はい。私共は琥珀の加工に長けた街の出で、都にこうして店を構えてその街から運んできた品を商っております。都広しといえどここまで琥珀を使った品をあしらったものを扱う店はないと自負しております」
身なりのいいニケと夫を上客と判断したらしい店主は品揃えを自慢するかのように腕を大きく使って店に並ぶ品々を示した。
「琥珀は柔らかいために剣や武具の飾りには向きませぬが、旦那様の書斎や奥方様を装うには相応しいだけの品質の高いものが揃っております。カフスやピン、小物入れのような品から首飾りやブローチ、指輪まで……金剛石や紅玉、青玉のような華やかさはなくとも、琥珀の魅力もなかなかのものでございましょう」
「そうか……ニケ、首飾りなどそう邪魔になるものでもないと思うが、一つ求めてはどうだ」
「私に、でございますか?」
唐突な夫からの言葉にニケは目を瞬かせた。装身具に関しては時折母屋の使用人が窺いに来る時に適当に注文を付ける程度で、社交界に頻繁に顔を出さないニケがあまりそれらを新調することはない。ドレスと違い長く使える宝石などはなおさらだ。
けれど琥珀には心惹かれていたのもあってニケは戸惑いながらも目敏い店主が勧める品々に目を向けた。
大粒の琥珀をあしらったものから小粒のものをいくつも連ねたものまで、店に並べられた首飾りは様々だ。けれどなかなかこれを、と思えるものはない。
ニケの戸惑いを察したのか店主は他の者に申しつけて奥から木箱を運ばせ、机の上に木箱の中身を広げた。色の濃いビロードと共に木箱に入っていたのは、店に並べられているものよりもより高級なのが一目で分かる品々だった。