第三十三話 義務と実感
病身であり療養中でもある義父の元へは、十日に一度か二度、主治医の老爺が訪れる。
義父以上に高齢なその人は、数年前までは国王陛下の筆頭侍医でもあったという腕利きの医者で、年を感じさせない矍鑠とした人である。
「ふむ、体調には変わりないようじゃの。しかしこれからまた一段と暑くなりそうでもあるし、こまめに水を飲むのも忘れずにの。すこーしばかり塩を溶かした水を用意してやってくれるかの、どうせこのガキ大将は運動も隠れてやっとるじゃろうし」
ふぉっふぉ、と長い白ひげを揺らして笑う医師の言葉に神妙に頷いたニケに、義父は小さく溜息をついた。子供のような扱いをされているのが不服なのだろうと、不満げなその様子にニケは口元に手を当てた。
診察の間は邪魔にならないようにと部屋の隅に行っていたカマルも義父の寝台に駆け寄り、義父の隣でピコピコと耳を揺らしていた。
老医師と義父、そしてカマルが居合わせている光景をニケが見ていると、カマルは義父の孫というよりも息子のようにみえてくるのだから 不思議なものだった。普段はよき祖父と孫にしか見えないというのに、こうして義父よりも年長の人が傍にいるだけで二人は父子にしか見えない。カマルの年頃の孫を持つには、義父が若すぎるのだろう。容貌に似通ったところがないのもあるだろう――血が繋がっていないのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
こうして改めて考えてみれば、リエーフがカマルを義父の子だと勘違いしたのも頷けなくもない話に思えてきた。
義父はニケの父よりも少し年下で、四十半ばといった年頃だ。――まだ、十分に若い。世の中には義父の年齢で子供に恵まれる人もいるだろう。
――といってもニケも結婚してもう二年が過ぎ、じきに三年目になろうとしている。
そろそろ子供が出来てもいい頃だろうと思われているのは、誰にも言われないが時折訪れる母屋の使用人達の視線から薄々察してはいる。この間招かれた公爵家の茶会でも、それとなく他の貴族の奥方にそんなことを匂わされもした。
最近母屋に呼ばれることが多かったのは、夫もそのようなことを気にしてなのだろうか。
まだ若いとはいえ軍職につき、情勢も決して安心出来る状況ではないともなれば、家のために跡継ぎを急ぐのは貴族としては当然の感情のように思えた。生粋の貴族であるニケの夫にとって、その思いは強いだろう。多くの若い軍人を見てきたニケにも、少なからずその思いを理解することは出来る。
もっとも、ニケの知る若い軍人には、『結婚なんてとても出来ない、自分が死んだ後に残された家族がどうなるのか』という不安を抱えている人も多く、生活の心配はなしに跡継ぎの心配を出来ると言うのは貴族の中でも領地からの収入だけで暮らしていけるような名門貴族だけなのだろう――この伯爵家も、そういった家の一つだ。
そこまで考えを巡らせてニケはほんの少し目を細め、下腹部にそっと手を当てた。
ニケも次の誕生日が来れば二十になる。結婚自体は適齢期の早いうちに済ませたものの、子宝には未だに恵まれない。ニケの知り合いの中にはニケより後に結婚し、既に一子を授かって二人目を妊娠している人もいた。けれど不思議と焦った気持ちがしないのは子を産むということに対して現実味がないのか、カマルの存在が大きいのだろう。
腹を痛めて産んだからこそ子を愛おしいと思えるのだ、という話を耳に挟んだこともあるが、ニケにとっては血の繋がりのなくともカマルが愛おしいし、自分の子だと思える。
腹を痛めたことはなくとも子供を持っているのだから、そう早く子供を、という気持ちが湧きにくいのかもしれなかった。
けれどニケの考えが伯爵家にとっては受け入れがたいものであることもまた事実で、いずれニケは跡継ぎとなる子供を産むことになるだろうし、ニケもそれを拒むつもりはない。
――というよりも、正直なところ子供を産むということに対して現実感がなかった。
子供を産んだならきっとカマルと同じように愛せるだろう。それはある程度の確信を持ってそう思えるのに、自分が子供を産む、ということに関してはどうも身に迫って感じられてこない。
世の中の他の貴族の奥方はどう思っているのだろうか。
(今度エレオノーラに聞いてみましょう)
伯爵家に嫁いだ幼なじみを思い浮かべてそう決心すると、ニケは老医や義父、カマルや老医の助手に茶を用意するために立ち上がった。
こぽこぽと湧きあがる水がかたかたと薬缶の蓋を揺らす。吹きこぼれる前に薬缶を火から下ろし、予め温めておいたティーポットにニケはそっと湯を注いだ。勢いよく白いポットの中を踊る茶葉に目を細め、そっとポットに蓋をする。
義父が街に出かけた時に紅茶を淹れるのが好きなニケのためにと買ってきてくれた砂時計をひっくり返して茶葉を蒸らす間、ニケはそっと窓の外の庭を見やった。
ニケとカマルが日頃少しずつ手入れしている庭には、観賞に適した木々に隠れるようにしてハルゥに分けて貰った薬草や、生活に役立つ香草や花々が植えられている。その中にはハルゥがカマルに教えてくれている獣人に必要な薬草も植えられていた。初夏にはぐんぐんと背丈を伸ばしていた草も大分大きくなり、カマルの膝を越えるくらいにまで成長していて、ニケも手入れの時にうっかり足を取られそうになることがあるほどだ。
今日の夕食には庭に植えてある香草を使おうと決めて、ニケは砂時計を確認してカップの準備に取り掛かった。カマルのものだけは他と違ってカップを温めず、その代わりにミルクを多めに用意する。イヌの系統だろうと言われているカマルだが、意外に猫舌なところがあるのだ。
今日もちろちろと少しずつ紅茶を飲むのだろう我が子の様子を思い浮かべて、ニケは微笑した。
「かかさま、ミルクはいれていい?」
「えぇ。お義父様はどうなさいますか?」
「いや、いい。そういえば夏も暑さが厳しくなってきたしな、後でこの糞爺に診てもらっておくといい」
カマルのカップにさらにミルクを足してやりながらニケが義父を窺うと、義父は首を横に振る。そして思い出したように義父は同じく茶を飲んでいた老医を見やった。
老医も義父の言葉にカップを皿に置いて微かに首を傾げる。
「そうじゃの。嬢もじゃが坊も診察しておくかの。外見の特徴からして坊は汗をかけない獣人のようじゃし、夏は過ごしにくい時期じゃからの」
「汗をかかない、ですか」
「どうもそうらしいの。汗をかかない分、熱を体に溜めこみやすいようじゃ。肌の部分はともかく毛皮の部分はどうもそうなっとるようじゃ」
「そうなのですか……」
今年も暑くなりそうな気配がしているので、老医の言葉にニケは顔を曇らせた。
以前市に行った時もカマルは早々にバテてしまっていたが、それは汗をかけないせいだったのかもしれない。夏の盛りももうすぐで、早めに対策を講じておいた方がいいように思えた。
その後老医の診察で軽い体調を崩す予兆の見られたカマルが数日の間、日の高いうちに外に出ないようにニケに言い含められ、頬を膨らます様に居合わせた人々は苦笑して見守っていた。