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第二十九話 不意の交流

 若かりし頃『黒姫』と謳われた美貌を年を経てもなお色濃く残すその人の姿に、ニケの背筋が自然と伸びる。

 久しぶりに姿を見たその人は、紛れもなくニケの義母だった。


「……お久しぶりね、ニケさん」

「はい、お義母様。……お久しぶりです」

「……こっちにいらっしゃい」


 頷いて義母の向かいに置かれた瀟洒な造りの椅子に腰かける。夫の趣味ではなさそうなこれは、義母の趣味なのだろう。贅を尽くした絢爛豪華、というわけではないが細かい細工や象牙細工が施され、華やかなものとなっている。

 侍女に出された紅茶を味わいながら、義母が話す話に相槌を打ち、たまにニケ自身もあれやこれやと話を振る。

 義母とニケとでは育った環境や価値観が違うせいか、あまり共通の話題を見つけることが出来ない。それでもニケにわざわざ近頃の流行り物のことなど、ニケの年頃の令嬢が好みそうな話題を振ってくれるのが申し訳なくて、ニケも必死に思考を巡らせた。


「近頃若い令嬢達は陛下の選ぶ花嫁は誰かと躍起になっているそうよ」

「確か陛下は、御年二十二……近隣諸国に年頃の姫君はいらっしゃいませんもの」

「いたとしても、妾妃というのもあるからでしょうね。後宮は未だに空のままともなれば期待してしまうのでしょう」


 太陽王とも称される年若い美貌の国王陛下の妃、もしくは最初の妾妃が誰になるのかということは社交界の注目の的でもあった。

 前にニケが出席した公爵家の夜会でも、次期公爵であるリュシオンの相手は誰かという話と並行してそんな話がそこかしこで飛び交っていた。年頃の娘も、その親もあわよくば、と考える者が大半なのだ。

 ニケも名門伯爵家の夫との結婚の際に玉の輿だと周囲から言われたが、国王の妃、妾妃ともなればその比ではない。過去には娼婦から寵愛を独占した妾妃となり、宮廷を牛耳るまで上り詰めた例もある。


「国内から王妃を、ということになれば選ばれるのはフーランジェ公爵家のヴィオレット様ではないかというのが私の友人達の噂話ではありましたが」

「確かに、従兄妹の間柄ではあるけれど……実家の権勢から言えば、可能性は高いでしょう。ただ他の公爵家、侯爵家にも年頃の令嬢はいらっしゃるから、陛下の御心次第でしょうね」


 ニケの夫がただ一人の子供であるからか、義母はこのことにさしたる関心を向けてはいないようだった。あくまで話題として、といったところなのだろう。フーランジェ公爵夫人――リュシオンとヴィオレットの母にあたる人と仲がいいというのはニケも聞き及んでいたが、それとこれとは別らしい。

 それきり話が途切れてしまう、二人の間に沈黙が流れる。

 気まずさからかまた義母が口を開こうとした時、ちょうど扉の向こうから声がかかった。


「……最近、」

「失礼します、大奥様、奥様、旦那様が帰られました」

「……そう、ならここを片付けて。ニケさん、あちらのカウチに」

「は、はい」


 義母が何を言おうとしていたのかは気になったが、夫の帰りとあっては気にしていられない。

 使用人達がそそくさと茶器一式を片付け、出ていくのと入れ違いに夫が居間にやって来た。それを出迎えるためにニケは立ち上がった。

 ニケと義母の姿を認めた夫は少し目を見開いてから足を止める。


「只今戻りました母上……ニケ」

「近衛の務め、御苦労さまでしたアルトゥーロ」

「お帰りなさいませ旦那様」

「…………」


 義母もいたこともあってか幾分か丁寧な言葉遣いの夫は軽く目礼した後、使用人に羽織っていた礼装のコートを手渡した。ニケが遠目でしか見たことのないそれは、近衛兵にしか許されていない意匠のものだ。

 どこか機嫌の良さそうな夫がそのまま椅子に腰かけると、義母がどういうつもりなのかそれほど間を置かずに私室へ戻ると言い出した。

 いきなりのことに、ニケばかりか夫までも驚いた表情になる。


「アルトゥーロの顔も見たことだし、私は部屋へ戻ります。後で夜食を持って来させますから、二人はしばらくここにいらっしゃいな」


 艶やかにそう笑って、そそくさと部屋を出ていった義母をニケが引き止められるはずもなく、夜食を待つ間ニケは夫と二人で向き合うことになってしまった。使用人達もどういう気を利かせたのか部屋から出てしまっている。

 同じ屋敷に暮らしていながらも五日振りに顔を合わせた夫に、何と声をかけたらいいだろうかとニケは少し悩んだ。義母と話している時も思ったが、『お久しぶり』というのは一種の皮肉のような気がする。そうおもえば、義母に『お久しぶり』と言われたのは皮肉だったのだろうか。

 今更になって回り始めた頭でそう思って、ニケは向かいに座った夫をうかがった。


 相も変わらず思考の読めない夫の表情に、気付かれないよう内心でため息をつく。

 どことなく機嫌が良さそうだというのは何となく窺い知れたが、その理由を推測することも出来ないし、他に今どんなことを思っているのかということも分からない。

 自分も顔に表情があまり出ない方だと言われたことはあるが、そういう人間が二人揃うととても気まずいことになるというのをニケは改めて痛感した。


(――とりあえずは、無難な話題から取り上げるべきでしょうか)


 そう判断してニケはおもむろに重い口を開いた。


「――今日は何かよいことでもあられたのですか、旦那様」

「…………特には、なかったが」

「そうですか、どこかご機嫌がよろしいように思えたので……申し訳ありません」

「……いや、」


 ニケの言葉に不思議そうに首を傾げた夫に、機嫌が良いように見えたのは気のせいだったのかとニケは落胆した。勘もなかなかあてには出来ない。

 ただ本人から否定されても相変わらず夫はどこか機嫌が良いように見受けられるのだからどうしようもない。

 けれどこれ以上この話題を続ける勇気などニケにはなくて、話を違う話題に切り替える。


「近頃暑くなってまいりましたし、近衛の鍛練も大変でございますか?」

「あぁ……防具を着けると、蒸れる。それに馬もあまり長くは走らせることが出来ない」

「父から聞いておりましたが、やはり大変なのですね。去年よりも雨が降ってくれるといいのですが」


 (ひでり)気味だった去年のことを引き合いに出すと、夫もゆっくりと頷いた。

 雨が少ないと都を流れる川の水量が減り、舟が運行出来なくなる。そうなるとあっという間に物資の運搬が滞るのだと兄が去年こぼしていた。それに旱になると市場の野菜の値段が跳ね上がる。結婚前の旱になった年は、ニケと母は苦労して食卓に野菜を載せていたものだ。


「こればかりは夏が来なければ判断出来ないだろう」

「そうでございますね……あぁ、夏といえば今、都に北から隊商が来ているそうで、珍しい品も多いとか。市場が賑わうのでその分警邏の方も大変そうでした」

「…………市に、行ったのか?」

「はい……先日、少しだけ」


 口にしてから、叱責されるかもしれない、とニケは気付く。

 普通貴族の妻ともなれば軽々しく屋敷から出ないものだし、ましてや人の入り乱れる市場ならばなおさらだ。

 けれど叱責される、ないしは咎められるのを覚悟したニケに対して、夫の反応は意外なものだった。


「……行く時は、誰か腕の立つ者を連れて行け。女の身で一人で行くことのないように。ましてや北の隊商が立てた市に行くならば、なおさらだ。……予定がなければ、俺が行く」

「は、はい」

「……旱にならなければ、しばらくは時間が作れる」

「はい」


 てっきり足りないものがあるならば使用人に言いつけろと言われるのではないかと思っていたニケは面くらった。それに咎められた――心配されたと言い換えてもいいだろう――のは、市場に一人で行くなということだ。

 先日のことを思えばそう言われるのも当然で、ニケの事情を知らないはずの夫にまでそう言われるくらいに、あの辺りの治安は悪いのだと感じてニケは素直に頷いた。


 それにしても夫が『予定がなければ市場に付き合う』と言ったのにはニケも驚いた。

 夫が仕事も少しは落ち着くと言っているが、それを差し引いても生粋の貴族である夫がわざわざ市場にまで、それもニケへの付き合いで足を延ばすというのは考えられないことだ。軍人だからそういうことに抵抗がないのかもしれないが、それでも解せない。


 ただ、先日のことを思うと仮に夫が一緒に来てくれるならば心強い。

 ハルゥの夫や、生家の兄弟達をあまり頼るのも気がひける。使用人には言い出し辛いし、それとなく苦言を呈されてしまうだろう。

 そうなると夫が付いて来てくれるというのは、なかなか魅力的な申し出だった。


「……もし、お暇でしたら……お願いいたします」

「……あぁ」


 そう言ったニケに夫は間を置いて頷いて、期を見計らったかのように運ばれた夜食を夫が口にするのをニケは手伝った。

 小皿に料理を取り分け終わると、夫に先に寝室に行っているようにと言われる。食べ終わるのを待つのも退屈だろう、と言い添えられ、ニケはその言葉に甘えて言いつけ通り先に寝室へと向かう。


 ――大きな寝台のある寝室で夫を待つ間、妙に気恥かしさを覚えるのは何故だろうと思いつつ、ニケは夫が訪れるまで燭台の火を眺めていた。

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