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第二十八話 訪れた契機

 その存在が生活において希薄になりがちであるが、ニケには夫がいる。

 正真正銘、ニケと夫とは神にその縁を結んだことを誓った仲である。

 ニケの籍も生家であるセラピア家を抜けて夫の籍に入っており、そのためニケの姓名は結婚前の『ニケ・セラピア』から『ニケ・セラピア・ネグロペルラ』に変わりもした。――女が結婚後は夫の姓を姓名の最後につけるのは習わしで、婚家の籍に入ったことを意味する。

 ただ結婚したとはいえ夫は仕事が忙しいようであるし、ニケも義父とカマルとの三人での暮らしがある。

 同じ敷地内に暮らしていながら別居状態のような二人の夫婦生活を人が知ったならば、離婚の一歩手前かと勘ぐりもしただろう。

 それが貴族の間で噂になっていないのは、ひとえに夫が屋敷に帰った際は必ずニケを彼女が普段生活している離れから母屋の方に呼び戻す――それは夫がニケを寵愛していると取れる――からだった。

 ニケの姑である義母の烈女と称していい気性の荒さ、気位の高さを知るとある人間からしてみれば、自分の留守中には妻が苦労しないように離れにやっているが、帰って来た時は夫婦の交流を、と考えるよき夫だと思える。

 ――けれど、渦中のニケといえばそのような考えにはついぞ思い至りはしなかった。









「今日、あっち……?」


 母屋からの使いから手紙を受け取ったニケに、カマルが不安そうな顔をする。

 ニケが母屋に呼ばれた日は次の朝まで帰ってこないために、普段はニケと同じ部屋、寝台で寝ているのをその時ばかりは義父とそうしているカマルだが、やはり寂しいらしい。

 それを申し訳なく思いながらニケは身をかがめると、カマルの頬に手を当てた。


「そうね、そうなるわ……カマルはお祖父様と一緒に寝てくれるかしら?」

「ん…………朝には、戻ってくる?」

「えぇ、ちゃんと戻ってくるわ」

「約束?」

「約束」


 今までニケが朝に戻って来なかったことはないのだが、カマルはいつもこうして不安がった。

 屋敷で暮らしていてもカマルの行動範囲はこの離れと周囲の庭だけで、離れたところまで行かないようにと言い含めているのもあってか母屋に足を踏み入れたのはこの屋敷に来た日くらいだった。そのせいなのか、カマルは母屋に対して苦手意識があるようだ。


 宙に浮いたような存在であったとはいえ、母屋の人間から敵意を向けられたことのないニケにはそれが少し、複雑でもあった。

 義父を邪険に扱い、嫌うあの空気は嫌でたまらない。ただ、あの母屋はニケにとっては好意も敵意も向けられることのない場所でもあった。――寂しいと同時に、どこか安堵出来る場所でもあったのだ。しがらみを振り捨てて、思考に沈むには、いい場所なのかもしれなかった。

 ただ義父と――獣人であるカマルにとっては、母屋は決していい場所とは呼べないだろう。


 だから、母屋と接するのは自分だけでいいと思う。

 夫のことは嫌いではない。ただ、よく分からない人だと思う。

 義母のことは――少し苦手、と言うのが正しいだろう。夫以上に顔を合わせたことが少ない。ただ義父への仕打ちというか扱いから、ニケの義母に対する心証は少し悪い。


「……今日の晩御飯は、カマルの好きなものを作りましょうね」

「……おにくがいい」

「分かったわ」


 誤魔化すようなニケの微笑みにカマルも間を置いて頷いて、二人は元のように字の練習を始めた。

 先日市場に行ってからニケが義父と話し合って、最低限の読み書きくらいは出来た方がいいとなったためだ。

 ニケは一応貴族の端くれということで必要以上の知識はあるし、義父も育ての母のような人に教えてもらったということで二人ともカマルに字を教えることは出来る。義父が剣を教えているので、字を教えるのはニケになったのは流れではあったが。


 羽ペンは使いにくいだろうと街で買い求めた鉛筆という道具で、一生懸命に字を練習するカマルが愛しくて、ニケは笑う。

 大変なことも色々とあるが、カマルを引き取って良かったと、心からそう思えた。


「かかさま、じーじ、カマル!」


 紙にいびつな字で書かれた三人の名前を指して笑って見せるカマルの頭を撫でて、ニケは幸せを噛みしめていた。

 その後、外出先から離れに戻った義父が出先で買ってきた日記帳をニケにこっそりと見せて、一通り教え終わったらこれをカマルにやるんだと子供のように笑う義父に、ニケがまた笑ったのは言うまでもないことだった。










 母に字を教わってから、幼いニケは本を読むのが好きだった。本は高価で滅多に手に入らなかったが、近所に住む子供達を絵本や子供でも読める本を持ち寄って、回し読みするのが好きだった。手垢で汚れ、ぼろぼろになった本の表紙をめくるのが、好きだった。

 カマルはどうだろう。本に興味を、示すだろうか。

 一度か二度、ニケの姪であるベルナに本を読み聞かせてやっていた時は興味があったのか近くに寄ってきて一緒に話を聞いていたが、聞くのと読むのとでは違うものだろう。

 そんな思考に沈んでいたニケを現実に引き戻したのは、使用人のニケを呼ぶ声だった。


「……奥様?」

「あ、あぁ……少し考え事をしてしまっていたものですから……何か?」

「旦那様の帰りが少し遅れると使いが来たので、それまで大奥様がご一緒にお茶でも、と」

「そう……お伺いしますとお伝えして下さいな。この格好では……失礼かしら、着替えた方がいいのでしょうね」


 使用人の言葉を受けてニケは視線を落として今着ているドレスを見た。

 離れから母屋に呼ばれ、湯あみをして一度着替えた。夜着でないのは夫を出迎えてはと使用人の提案というには少し強制力のある進言のためだ。礼装でなく、簡単な装い――それでもニケの普段離れで来ているものに比べれば格段に上等なものだが――とはいえ、義母との茶会に着ていくには少々簡素すぎる気もした。

 しかし使用人は首を横に振る。


「このような時間ですから構わない、とおっしゃられておりますので」

「そうなの……」


 少し気がひけるが着替え直していては夫が帰ってくる時刻になる。

 そう思ってニケは使用人に促されるままに部屋を出た。先を歩く使用人の足取りを見ると、どうやら義母の私室ではなく居間で茶を楽しむことになるようだった。

 居間に入ると部屋の中でも自然と人目を引く――黒い貴婦人が、そこにはいた。


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