第二十七話 続く誤解
ハルゥと話してからというもの妙に決まりの悪そうな顔をするリエーフに首を傾げつつ、ニケはそっと口を開いた。
恩人となったリエーフに何もすることなくはいさようならというわけにはいかない。
「あの、よろしければ屋敷の方に……屋敷がお嫌でしたら、伝言を承りますので、別に会う機会を」
「あー…なら手紙書くから渡してもらえるか」
「はい」
義父とリエーフは旧知の仲らしく、しかもハルゥによれば義父はかなりリエーフを可愛がり、不在の間心配していたらしい。それならば実際に会った方がいいだろう。それに、義父も喜ぶかもしれないとニケは思う。
屋敷の方に招くという手もあるが、都に店を構えているわけでもない一商人が貴族の屋敷に招かれたとあっては今後の商売に支障をきたすかもしれない。その上義父と親しかったなら屋敷を始めとした義父をとりまく状況を知っているのかもしれなかった。
ニケの考えは当たっていたのかどうか定かではないが、伝言という手段を選んだリエーフにニケは頷いた。
そこからともなく紙と、羽ペンではなく炭のような黒い、けれど細く尖った塊を取り出し、何やらその場で手紙を書き始めたリエーフは文字を書き連ねながら口を開く。
「……その、当主とか……そういうのはおやっさんがやってんのか?」
「いえ、ご病気ですので……今はアルトゥーロ様が当主に」
「……そうか。息子の方とは会ったことねぇから……よく分かってないが……その、困ったことあったら言ってくれ。おやっさんには恩もあるし、出来ることならやる」
「……ありがとうございます」
よく分からないが、どうやら気を遣われているらしい。
ニケの推測のように、やはり義父を取り巻く事情をよく知っているのだろう。
立ちながらの不安定な体勢を苦にした風もなくリエーフはさらさらと紙に伝言を書きつけると、それを折りたたんだ。
そしてそれをニケに差し出した。
「おやっさんに渡しといてくれるか?形式とか、羊皮紙とかそういうんじゃないし書きつけみてぇなので悪いけどよ」
「はい」
こちらの対面を慮ってくれているリエーフにニケは微笑んで、受け取った紙を大事にしまった。
羊皮紙を使ったわけでもなく、封蝋も家紋も飾り文字すらないこれは貴族からしてみれば手紙とも呼べないものなのだろうが、ニケは受け取る分にはそういうものに細かくこだわったことはない。ただ屋敷の使用人には見つからないようにしなければ、とは思うが。
一方カマルはリエーフの見慣れない筆記具に興味を示していた。
カマルが今まで目にしたことがあるのはニケが使う羽ペンくらいで、リエーフの使ったような筆記具は見たことがない。ニケもそういう形のものは父に一度か二度見せてもらったことがあるだけだ。
よく見れば使いやすいようにか黒い塊を木切れで挟んで固定している。細くなった先端で文字を書くように出来ているようだった。
「おじちゃん、見せて」
「ん、これか?貴族とかにはまだ珍しいかもなぁ……黒鉛っつー柔らけぇ石を細く加工して、木で挟んである。ペンより書くのは楽だしインクがなくても書ける」
「すごい……」
「都なら鉛筆も売ってるかもな…もっと形のちゃんとしたのがある」
しゃがみこんでカマルにその筆記具を見せてやっているリエーフに、ハルゥが呆れたような視線を投げかけた。
それを不思議に思ったニケが首を傾げると、ハルゥはおかしそうに口を開いた。
「リエーフはどっちかっていうと強面な方だろ?昔から子供には嫌われることが多かったからねぇ、ああやって懐かれるとそりゃあその子供を可愛がるんだよ」
「そうなの……」
父や兄弟が武官なので強面と称される顔に慣れているニケからすればそれほどでもないが、他からすれば少し厳めしく見えてしまうのかもしれない。カマルはおそらく、義父やニケの父、兄弟達を見ているから怖がることはなかったのだろう。それ以上に助けてもらったからというのもあるかもしれない。
黒い塊をきらきらとした目で見ているカマルに、ニケはふと字を教えたことはなかったと思う。
今まではニケがほぼ一緒にいたのもあって生活に不自由を感じたことがなかったから失念していたが、実際カマルは字を読めるのだろうか。
少なくとも最低限の教養として字の読み書きは出来た方がいい。字の読み書きが出来ればそれだけで代書屋などに務められるし、食い扶持を稼ぐことが出来る。
ニケの養子であってもセラピア――ニケの旧姓の籍に入っているカマルには、伯爵家の家財を相続する権利はない。それに付随する面倒事を思ってニケはあえてセラピアの籍に入れたが、そうなるとカマルは将来自分の身を働いて養わなければならない。領地からの収入もない以上、職を得るしかないのだ。
今は伯爵家からニケに与えられた財産を使ってカマルを養育してはいるが、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。
(――カマルに、生きていく術を教えないと)
そのことを強く実感して、ニケはきゅっと手を握り締める。
その時に力を込めたことで手首に痛みを覚え、眉間に皺が寄る。それに目ざとく気付いたハルゥはまだ話していたリエーフからカマルを引きはがすと、マァに指示して賃馬車を捕まえさせた。
「とりあえずニケ、今日はもう帰りな。サイードは家にいるんだろう?」
「えぇ……折角市に来たのに、ごめんなさい」
「いいんだよ、また今度来ればいい。次はうちの人も連れてきて……マァ、馬車にニケ達の荷物運び入れときな」
「はーい」
マァが声を上げてニケの手から荷物を取り上げる。
少ししか買い物はしていなかったが、それなりに重い荷物を軽々と持ち上げるマァにニケが感心していると、マァが獣人だしね、と笑った。ついでに、今日のことを気にしてるなら今度お菓子作ってくれたらうれしい、とも。ちゃっかりしているマァはハルゥがおねだりに怒る前に、そそくさと馬車の方へ行ってしまう。
それを見ていたカマルがおかしそうに笑う。
「マァ兄、くいしんぼ」
「そうね、次に行く時はマァのために多めに作らないとね」
「……カマルのは?」
「ちゃんとよけておくから、皆で食べましょうね」
「ん!」
カマルが頷いたところでニケはそっと、痣になっていない方の手を差し出す。その手をきゅっと握り締めたカマルに目を細めて、ニケはリエーフに向き直った。
「本当に今日はありがとうございました。いただいた手紙はちゃんと渡しておきます。その、返事の方は……」
「手紙に書いてあるから、大丈夫だと思う」
「分かりました」
「おじちゃん、ありがと」
「おうよ」
カマルに笑いかけてくれるリエーフに頭を下げて、ニケはカマルの手を引いて馬車へと歩き出した。
――屋敷に帰って、帰りが速くなった事情を話すと、義父に心配され、義父の主治医が大至急屋敷へと呼び出されたのは後で語り草になった。
ニケにしてみれば、リエーフから預かった手紙を読んだ時の義父の嬉しそうな、安心したような反応の方がそうなってもいい気がしたのは、ニケの心のうちの話である。