第一話 ニケの日常
「……周囲に迷惑をかけぬ程度であれば、何をしても口をはさむつもりもない。好きにすればいい」
それが結婚初夜に、夫となった人から告げられた言葉だった。
ニケは自分で注いだ紅茶を口に含みながらぼんやりと窓の外の空を見上げた。
穏やかな春の空は淡い色をしていて、雨の気配もない。
何ら変哲のない、平和で静かな春の昼下がりだった。
何をしようか、と手持ち無沙汰な自分が随分前からこうして紅茶を供に一人考え込んでいたことを思い出して反射的にため息がこぼれる。
いくら自分が労働を推奨などされることのない貴族の妻だからといっても、ここまで暇を持て余しているのは精神衛生上よろしくはないだろう。世間の他の貴族の奥方は何をして有り余る時間を潰しているのだろうか。
自分の母を思い出して裁縫なり器楽なり、一般に貴族の奥方の嗜みとされる類のことはもう一通りやってしまってあらかた飽きた後だ。
特に何かの方面に飛び抜けて秀でる、ということもなく全てをそれなりに修めるというのは案外つまらない。一生懸命何かをしても少し才能がある人が気まぐれにしたことに劣るのだから、元々強く興味を持った訳でもなし、すぐに自分のやる気は失せた。
そうして次々と様々なことに挑戦してみた結果、今の手慰みになりそうなものは全て飽きた後、となってしまっているのだが。
すっかり温くなった紅茶を全て飲み終えてニケは立ち上がる。
庭師が丹念に手入れをしている美しい庭を通り抜け、傍目にはそうと気付かれないような屋敷の裏手、使用人達のスペースへと足を向ける。トレイにティーセットを載せて屋敷の炊事場付近まで行き、誰も使用人がいなかったので食器が置かれているところにトレイごとティーセットを置く。
そしてそのまま誰にも会うことはなくニケは自分に与えられている私室に戻った。
────これがこの三年間ですっかりなれた日々の過ごし方だった。
(結婚生活が幸せで順調に全てが進むとは、思っていなかったのだけれど……)
自分の実家の両親は恋愛結婚で、自分のように政略結婚ではないからあのような仲睦まじい夫婦になることはほとんどないのだろうと結婚前に思っていたが、それでも現実に落胆せずにはいられないようだ。
それでも夫はまだいい方だ、というのは理解している。
年も近いし、ニケとは夜に体を交えることを厭うそぶりもない。屋敷にほとんど帰ってこないけれど、それはどこぞに愛人を囲っているからではなく近衛の仕事に熱心だからだ。顔も整っているし、名門伯爵家の嫡男。夫としての義務はきちんと果たし、浮気をしているわけでもなく、陛下からの覚えもいい出世株。
ニケとの結婚が決まった際に、友人からは羨ましがられたものだった。
堅物だって聞くけど素敵な方よね、よかったじゃないうらやましいわ。
それが決まり文句のように成婚の祝いとなっていた。
けれど相手がいくら素敵な方だといっても、それが円満な夫婦生活を送る保障にはならないのだ、と結婚してから改めて思い知った気持ちだった。
まぁ主にそれは夫というより、この家の雰囲気に対してなのだけれど。
ニケが嫁いだ伯爵家は、代々続く名門で夫の両親にあたる方々は典型的な政略結婚をされていた。
要は名門貴族の一人娘のところに、家格は低いものの優秀な武官として将来を有望視されていた男が婿に入った。
こういうことは珍しくもなかったが、この二人は相性が悪かったのか結婚以来二十年以上が経った今でも仲は冷え切っていた。夫が生まれたのが奇跡、だという使用人の噂を聞いたこともある。
義母は名門伯爵家の一人娘に相応しく矜持の高い人で、粗野な義父を受け入れられなかったのだろう、とも。義父も義父でそんな妻に嫌気がさしたのか仕事にのめり込み、家庭を顧みる人ではなくなり、ニケの夫以上に屋敷には帰ってこない。
この屋敷は完全に義母の手中に収まっているというわけだ。
元々使用人達も伯爵家の使用人なので完全に義母寄りで、そんな環境で義母一人に育てられたニケの夫も義母を忠誠を捧げた陛下の次に敬って接している。
この屋敷でニケ以外は全員が義母の味方、というやつなのだ。それこそ庭師からメイド、執事に至るまで。
────そしてそのために、ニケはこの屋敷で孤立気味な状況にある。
何か失礼なことをしてしまった自覚はないが、無意識にそんなことをしてしまったのかもしれない。
けれど最も納得のいく理由はニケと夫の結婚が義父方────義父の部下であった父の娘であるニケが、他ならぬ父の勧めで夫と結婚したからだろう。
可愛い愛息子の結婚に口を挟めなかったことと、結婚した相手が義父方の娘、ということにきっと義母は我慢ならなかったのだろう。
息子が好いて結婚したわけでもないようだから、と義母はニケを気にかけない。それに同調して、使用人もニケとは親しくしようとはしなかった。
いびられないだけマシかもしれないが、こうして空気のように生きるというのも、案外ニケには堪える。
貴族の奥方らしく、と母に仕込まれた通りあれやこれや、控えめに口を出しても使用人には『奥様の決められたことですから』『奥様がお好きなようですから』と返される。自分の私室付近の模様替えや庭の手入れに関してまでもそうなのだから、正直気が滅入った。
要は誰もニケのことなんて気にしていないのだ。
この家では皆が義母のことを第一にする。
そんな義母が気にかけないニケはこの屋敷全体から気にかけられない。
使用人に話しかけても、嫌そうな顔はされないがそっけない反応しか返ってこない。
実家が小さいながらも暖かな家だっただけに、その落差が身にしみた。
周囲に悪評が立たぬ程度の対外的な礼儀は守りつつ、義母に従い夫に従い黙って頭を下げる。伯爵家の妻としての役目も務めも全て義母が済ませてしまう。
このような有様の自分が伯爵家の妻としては相応しくないのは、重々承知なのだけれどもうどうすればいいのかニケには分からなかった。
────そうしていつしか、自分はひっそりと隠棲しているかのように暮らすのが当たり前となった。
使用人の手を煩わせないようささやかに慎ましやかに生きることしか、思いつかなかった。