第十八話 太陽の従者
フーランジェ公爵家の夜会の日は、すぐに訪れた。
ただ、今日この日の夜会のために費やした支度にかかった時間を思うととても短いとは言えないだろうとニケは思う。
名だたる名門貴族の夜会ということもあり使用人の意気込みはそれは半端なものではなく、ドレスの採寸だけでなく他の装飾品まで新調し一度決めたものを撤回してまた品定めをするという有様だった。
当事者である自分がそれを疎かにするわけにもいかず、母屋にいる時間が格段に長くなった。夫と顔を合わせると言うことはあまりなかったが、義母とはそこそこ顔を合わせてお茶などを共にしていたのも予想外に気を遣う。
ようやく全ての支度が終わり今日の日を待つ、というところまでたどり着いた時にはニケは疲弊しきっていた。
そんなニケの様子を歩きまわるまで回復した義父は苦笑しつつ、カマルは少し不満げに見ていた。
病み上がりの義父や獣人のカマルを公の場に連れていくことが出来ず、残していくのは気がかりだったがどうしようもない。
前にもましてべったりと腰に貼りつくカマルに色々な約束をして、ようやくニケは離れを出て────今この馬車に乗っていた。
普段買い物に使う際の賃馬車とは比べ物にならないほど揺れの少ない馬車の中でニケは持たされた扇を握り締める。
伯爵家ともなれば当たり前の夜会も名ばかりの男爵家の出であるニケには全く慣れないものだ。
結婚が決まってすぐ母が持っているツテを駆使して作法に長けた夫人にニケの作法を見てもらい、大丈夫だろうとは言われたがいかんせん経験が圧倒的に不足している。結婚してから出た夜会で特に礼儀や作法をとやかく言われたことがないが、いつにもまして指先まで神経を行き届かせるのは神経をすり減らしているような心地だった。
夜会に出席する度に感じるこの緊張感を紛らわそうと気を色々と逸らしてみても思い浮かぶのは義父やカマルのことばかりで、むしろ焦燥が募る。
悪循環な思考にひとまず区切りをつけようとため息をつくと、向かいに座る夫がぴくりと身じろいだ。
「…………」
「…………」
もはや恒例のように思える沈黙を紛らわすかのように、ニケは手のうちでくるりと扇を回した。
繊細なレースの刺繍の形作る僅かな凹凸までもが指先の感覚で分かる。おそらくこの扇一つで平民が二月程度は楽に暮らしていけるはずだ。
今身につけている深い青のドレスも、装飾を取り外して残った布だけですら相当に高いものだろう。
それこそニケの頭の先から足先まで今日の格好全てを合わせれば、平民が年単位で生活していけるくらいに。
ニケの生家ですら暮らしていけるのではないかという、ニケにしてみれば途方もない金額を自分が身につけていることに気が遠くなるような思いをしながらニケが視線を夫に向けると、夫は相も変わらず感情の読めない目で視線を外にやっていた。
まだ十分に日は高く、馬車の外は遠くまで見通せる。夜会の開かれる公爵家についた頃ようやく薄暮くらいになるのではないだろうかという頃合で、ニケも夫につられるように外へと視線を向けた。
貴族の屋敷ばかりが集まった区画のせいか道は掃き清められていて、白石を使った舗装は美しいの一言に尽きる。道行く人も貴族の屋敷に仕えているだろう使用人や出入りの商人ばかりで、貴族からしてみすぼらしいような格好をした庶民は見当たらなかった。
(……静か)
夕暮れ前の今の時間ならば、今日の夕食の支度をしようと買い物にいく夫人が道には溢れ、じきに家路を急ぐ人の姿も目立ち始めどこからか夕食の支度の匂いが漂ってくる────そんな時間帯なのに今ニケの眼前に広がる街並みにはそんなそぶりを見せる人は誰もいなかった。
そう思うと閑静な貴族然とした街並みが見ていられなくなり、ニケは外に視線を送るのを止めた。
「…………もうじきだ」
夫が唐突に発した言葉に頷いて、ニケは己の膝に視線を落とした。
馬車がゆっくりと止まり扉が開かれる。
先に降りた夫に手を預け、そっと馬車から降りるとそのまま夫に手を引かれたままエスコートされる。
改めて神経を爪の先まで行き届かせたところで、公爵家の使用人が現れた。
「ようこそおいで下さいました、ネグロペルラ伯爵、伯爵夫人」
頭を下げて礼を取る公爵家の使用人の後を夫とニケが続く。
もうすでにある程度の貴族が来ているらしく、視界には多くの馬車や他の貴族、そのお付きの使用人が目に入る。白に金のあしらいを基調とした瀟洒な造りの公爵家の屋敷の中へ入ると、煌びやかな屋敷の調度や絵画が趣味のいい範囲で、けれど所狭しと並べられていた。
やはり公爵家ともなれば財力も桁違いなのだろう。
そう長くはない距離を歩いたところで、夜会の会場らしい大広間に辿り着く。
先導を務めた使用人が扉を開くのに頷いて、夫がニケの手を取ったまま足を踏み出した。
開いた扉から聞こえる華やかな夜会の声にニケは一度大きく息を吸って────大広間へと足を踏み入れた。
色鮮やかなドレスを纏った令嬢や婦人、集まって何やら話をしている貴族の殿方。
こんなにも多くの人々が一堂に会する場に出るのは久しぶりで、馬車の中で感じていた以上の緊張がニケを襲う。目立つ夫の姿に周囲の人々から向けられる視線もそれに拍車をかけていた。
だがそれをおくびにも出さず、ニケは務めて冷静な態度で夫に促されるままに歩を進める。
夫の視線の先には一際大きな人の群れがあり、その中心にいるのは夫の友人でありこの公爵家の子息でもある青年だろうと容易に想像がついた。
案の定、取り巻きの誰かが自分達を目指す夫に気付いたのか夫の友人に声をかけ、取り囲むようになっていた人の輪の一部が開かれる。
「アル、アルトゥーロ!我が親友よ!」
「リュシオン……こんな時間から……酒を飲みすぎだろう」
「ははは、大丈夫だよアル、僕が酒に強いのは知っているだろう」
「その後の酒癖が悪いのもな」
陽気な声で手を広げながらこちらに向かってくる金髪の青年に、夫が眉を寄せる。
しかしそれを気にした風もなく夫の友人、リュシオンは茶目っけを込めて言葉を重ねた。それに夫が応じるのを見ていると、リュシオンの視線がニケにも向けられた。
それにすっと礼を取ると、リュシオンは朗らかに笑う。太陽と例えられる国王陛下の側近中の側近と称される華やかな美貌の笑みに周囲の令嬢がざわめいた。
「ごきげんよう、ニケ殿。あなたが夜会に来られるのは珍しい……今宵はお会い出来て嬉しいですよ、この青いドレスもよくお似合いで」
「ありがとうございますリュシオン様。相変わらず口がお上手で」
「とんでもない。嘘などついていませんよ、お見かけした瞬間海の…………おっと、」
扇で口元を隠しながら、貴婦人としての品位を失わない程度に冗談も含ませて受け答えたニケにリュシオンは肩をすくめてニケの夫を見た。
途中で言葉を切った、やけに楽しそうなリュシオンの表情に夫がますます眉間のしわを深くしたのが分かる。
「…………」
「アル、華やかな場でそのようなしかめっ面をするものではないさ」
「…………リュシオン」
「おお怖いね……どうだい、酒を飲みつつ語るというのは」
「いい加減に……」
「あぁヴィオレット、僕がアルを奪ってしまうお詫びにニケ殿を頼むよ」
「かしこまりましたわ、お兄様。────ニケ様、お久しぶりですわね。お兄様がアルトゥーロ様を持って行ってしまうそうですから私達は私達でお話いたしましょう?」
ずるずると強引にニケの夫を引っ張っていくリュシオンをニケが驚きながら見送っていると、幾度か話したことのあるリュシオンの妹君が笑って立っていた。
兄妹揃っての華やかな美貌に気押されつつ、ニケはそっと頷いた。