第十六話 馴染みのない部屋
ニケが母屋から急いで離れに戻ると、カマルが義父の隣でうとうとと舟を漕いでいるところだった。
戸口に立つニケの姿に寝台の上で体を起こした義父がその顔に笑みを刷いた。
精悍な面差しは今朝倒れたばかりとはとても思えない。
「カマル……」
「このままで構わん……ニケ、何かあったか」
「あ……その……今度開かれるフーランジェ公爵家の夜会に出席することになりました。それと……今晩は、少しここを離れることになるかと……」
「……そうか」
言いにくいことだが言わなければならないことだと、ひと思いに言ってしまうと聞いた義父もしまったと思ったのか気まずそうにニケから目をそらした。
そんな義父の様子につられてニケも顔が熱くなる。
それを誤魔化すようにニケは飲み物を淹れてくると言い残して足早に義父の寝室を後にした。
そしてその日の夕方、ニケはぐずるカマルを倒れたばかりの義父と、嫌々と言わんばかりに無表情で離れに来た使用人に任せることに後ろ髪を引かれるような思いで離れを後にした。
動きやすい綿で仕立てたドレスから少し前まで着ていたような絹のドレスを身に纏い、上半身を嫌というほど締めつけるその形にため息をつきつつ母屋へ向かう。
母屋に到着するやいなや、待ちかまえていたかのような使用人に囲まれてニケは風呂場へと放り込まれた。頭の先から足の爪先まできっちりと痛いくらいの力で洗われ、疲弊したところに都で流行りの匂いのついた油を肌へすり込まれそうになり、ニケは慌てて使用人達を制した。
「待って」
「奥様……?」
使用人達が使おうとしているのは都の貴族に持て囃されている花の匂いを油に移したもので、確かにいい匂いだとは思うが少し香りがきつすぎる。ましてやカマルや義父には尚更。そんな香油を付けられては離れに戻る時に困ってしまう。
制止の言葉に訝しげな様子で手を止めた使用人達にほっと安堵しつつニケは言葉を紡いだ。
「……贔屓にしているところに注文した香油があります、それを持ってきているのでそちらを。その香油は少々頭が痛くなるので」
「……かしこまりました」
義母の愛用している香油が拒まれたせいか少し不満そうな様子ながらも使用人達はニケが持ってきた香油────ハルゥに調合してもらった匂いのきつくないものをニケの肌にすり込み始めた。
獣人でも大丈夫だという香草から匂いを移したこの香油は、香水や今までの化粧品の代わりにニケが日頃から愛用しているものだった。体に馴染んだ香りに、そっと一息つく。
香油を塗り終えた使用人達に薄い仕立ての夜着を着せられ、さらにその上にガウンを羽織らされて顔に薄い化粧を施される。先ほど香油を拒んだせいか使用人達はこれは拒ませないと意気込んでいるかのような顔で、ニケは抵抗することを諦めて使用人達のなすがままに任せた。
────夜だから、と薄めに施されたのが妙に皮肉に思えて、ニケはそっと内心で首を傾げた。
そう考えている間にも化粧は終わり、ようやく全ての支度を終えたニケは使用人に先導されてニケの私室────ついこの間まで義母の部屋だった場所へ足を踏み入れた。
といっても用を足すのはその私室に隣接する寝室なので、この部屋にいるのも夫がここを訪れるまでの間だった。
(そういえばここに入るのは初めて……)
母屋で部屋の移動が行われている頃には、ニケは離れで義父と生活していた。
そのせいかまだ前の主の趣向を色濃く残すこの部屋は妙に居心地が悪い。義母の趣味は一流なので他の貴族の奥方や令嬢が見れば感嘆の声を上げるに違いない見事な家具や内装も、ニケにしてみれば華やかで、煌びやかで、落ち着くことが出来ない。
椅子に腰かけながらも腰を据えた気にならないという妙な状況がどれほど続いたのかは定かではないが、ニケが何回目かのため息を心でついた時、ちょうどドアがノックされた。
誰がこの部屋を訪れたのかなど、分かり切っている。
「……どうぞ」
ニケの声を受けて控えていた使用人がドアを開けると、滑り込むように夫が部屋に入って来た。
ニケが立ち上がって頭を下げている間に夫が目配せでもしたのか、控えていた使用人が残らず部屋を出る。
どういう言葉を言えばいいのか、こんな状況は久しぶりな気がしてニケは口を閉ざしたままでいた。
「…………」
「…………」
顔を上げたニケの前まで足を進め、二歩分程度の距離になったところで立ち止まった夫はとっくりとニケを見つめる。
二人の間に落ちた沈黙はどれほどのものだったのだろうか、ようやく夫が口を開くまでの間にすっかりニケは気疲れしていた。
「少し、痩せたか」
「……あぁ、今まであった余分なものが落ちただけでしょう。今日お医者様にも診ていただきましたが全く健康だと」
「医者?」
「お義父様を診ていただいたら、折角だから、と」
「……そうか。医者は他には何か」
「いいえ、何も」
そこでまた二人の間に沈黙が訪れた。
痩せたか、と夫が口にしたのはこの格好が普段に比べれば格段に体の線が出るものだからだろう。
義父やカマルと暮らすようになってから家事で立ちまわるようになり、ニケ自身少し痩せたように思っていたが夫の目から見てもそうらしかった。
気にするほどのことでもないとニケが思考を打ち切ったその時、そっと夫に手を取られる。
漆黒と視線がかち合った。
こうして間近で見ても、夫の顔立ちに義父と似通うようなところはすぐには見つからない。
「……いいか」
「…………はい」
ニケはそっと目を伏せて、夫に促されるがままに隣の寝室へと足を踏み出した。