第十五話 届いた誘い
「奥様、将軍がもし過度な運動……そうですね、組手や馬を全力で走らせるなんてことをしようとした時は必ず止めさせてくださいの」
「はい」
義父の脈を測りながらのゆっくりとした老医師の言葉にニケはしっかりと頷いた。ついでとばかりにニケの膝の上のカマルもしっかり頷いている、内容が理解出来ているのかはともかくとして。
そんな三人の様子に脈を測られながら義父は呆れたようにため息をついた。
「おいそこの爺……俺を何だと思ってる」
「戦と剣しか頭にない永遠のガキ大将じゃが」
「…………」
老医師の言葉に義父が押し黙り、その光景に助手として付いてきた青年は笑いをかみ殺していた。
どうやら医師と義父とは城にいた時からの知り合いらしく、話す言葉も砕けた、ごく親しいものだ。
きっと義父も友人や部下を相手にしている時はこのような口調なのだろうとニケはカマルの頭を撫でてやりながら推測する。
ニケがついこの間まで知っていた義父は、冷たい屋敷で固い言葉を口数少なく発する人だった。それが今は温度のある言葉を話している。こうして考えてみると最近のニケやカマルが義父の温度のある言葉をかけられていたことに気付かされ、同時にどれほどこの屋敷が義父にとって居心地が悪いものか想像出来た。
(理由もあって、場所もあるのですから…………お義父様がこの屋敷に帰ってこずに城に詰めていたというのも納得出来ること)
女の側やこの屋敷の使用人からしてみればそうではないかもしれないが、義父は仕事も立派に果たしているし、貶されるようなところはないように思える。
不仲とはいえ、義母や夫を冷遇するようなことはない────ただ、手を触れず放置しているだけで。
それがいいことなのか悪いことなのかということはニケには測りかねたが、ニケにとっては優しく頼もしい義父が義父だった。
ニケにいくつかの注意をしてから何故か含み笑いで屋敷を去っていった医師とその助手を見送った頃には、いつの間にか太陽が空の頂点に達しようとしていた。
照りつける日差しに目を細めて、離れに戻ろうとしたニケの背に、声がかかる。
「────ニケ」
この屋敷でニケの名前を名前だけで呼ぶのは義父と────夫のみ、だった。
恐る恐る振り返ったニケは視線の先に義母譲りの黒髪をなびかせた夫の姿を認めて、そっと手を握り締め頭を下げた。
「……お帰りなさいませ、旦那様」
夫の正装からして登城した帰りだろうと見当をつけたのは間違っていなかったようで、特に夫から訂正が入ることはなかった。もしかしたら、訂正しようという気もないのかもしれないが。
(こう考えるのは、穿ちすぎでしょうか)
少々斜に構えつつある思考は改めた方がいいだろうと思いながら夫の言葉を待っていると、夫は暫し逡巡した後ようやく口を開いた。
それにしても夫は相変わらずとっくりと眺めていても飽きない整った顔している。
そんなことに思考を移していたニケの視線を気にすることはなく、夫の口から言葉が紡がれた。
「…………ひとまず、私室に」
「…………着替えてからでよろしいでしょうか?」
「…………いや、そのままでいい」
「…………見苦しいでしょう、このような格好は」
「…………人目が気になるのなら、こちらから来ればいい」
しびれを切らしたのかどうかは分からないが、夫はニケの手首を掴むと強引に屋敷の裏手へと足を進めた。
戸惑いながら周囲を見回すが、いつもなら夫についている使用人達は影も形もない。誰も夫やニケを気に留める者はいない。
ただ、離れにはまだ横になっている義父と、同じ部屋で昼寝をしているカマルがいた。
早く帰らなければ、と思うも夫の手を振り払うことは憚られた。
強引に連れていかれつつあるが掴まれた手首に痛みを感じることはない。優秀な武官である夫がこれだけの力しかないとは考えられないから、きっと手加減されているのだろう。
それに歩幅もニケが少し大股になる程度だ。
ニケがそう思っている間にも夫は足を進め────見事に誰にも出くわさないまま、夫の私室へと辿り着いた。
離れの近くを通りかかった時に歩みを緩めたニケをちらりと咎めるように見た以外、夫はニケに何もしなかったし何も話さなかった。
部屋の内装は見事に義母の好み────他の部屋のような華美さがないのは夫がそれに手を加えたからだろう────で、少し前までここが夫の私室ではなく義父の私室であったとは信じられないほどだった。もっとも、ニケが義父の私室に入る機会などなかったが。
ぱたりと扉が閉じられて、ニケは壁近くの机に腰掛けた夫の正面に立った。
言葉を待つように夫を見据えると、夫が口を開く。
「……」
「……負担か」
正直何を言われているのか分からなかった。
省略されすぎた言葉がニケに通じていないと分かったのか夫は言葉を重ねる。
「あの人の……父の世話は負担か。それに獣人の子供も」
「いいえ」
夫の言葉が何を指しているのかニケは理解した瞬間、反射的に首を横に振って否定していた。
夫が義父のことを他人行儀に話すのも嫌だと思ったが、それ以上に二人が負担かと言われたことが嫌だった。
────きっと夫は知らないし、分かってもいないだろう。ニケがどれほどあの二人に救われているかも、三人での穏やかな生活を大切に思うようになっているかも。
世話をしていれば格好も前よりも庶民的な、夫にとってはみすぼらしいとも言えるようなものになるし化粧も以前のようにはしなくなった。
それでも決して前に戻ろうとは思えない。
「……この格好が伯爵家に相応しくないというのでしたら以後気をつけます。申し訳ありません……」
「そう、か。……本題に移るが、今日呼んだのは私とお前宛てに夜会の招待が来たからだ。十五日後にフーランジェ公爵家で。世話になった人でもあるし誘いは断れない、お前も出席するように」
「────かしこまりました」
そっと頭を下げながらニケは頭の中でフーランジェ公爵家に関することを思い起こしていた。
確か当主は大臣を務めており、その子息と夫はよき友人だ。成婚の時に挨拶された青年の顔を思い出したところで、ニケはそっと夫を窺った。
夫の黒い瞳からは感情が読めない。元々ニケと同じなのか、感情が顔に出にくい質らしい夫と話していると沈黙も心なしか多くなるように思える。
「旦那様、御用はこれで?」
「…………あぁ」
頷いた夫にもう一度頭を下げてニケは踵を返した。
────久々に入った母屋は重苦しく息苦しい気がして、早く離れに戻りたかった。義父とカマルの顔を見ればこの気持ちも晴れるだろう。
そう思っただけで少し心が軽くなって、足早に部屋を出ようとしたニケの背後から夫の声が聞こえた。
「────今夜は母屋に」
「…………あの…………いえ、何でもありません。承知いたしました」
そういえば最近褥を共にすることはなかった。
そう考えればこの流れはまぁ当然なのだろうが正直今日だけは避けたかった。
倒れたばかりの義父についていたかったし、もしニケが母屋で夜を過ごすとなればカマルが一人で寝ることになる。最近一人で寝るのを嫌がるカマルとは一緒に寝ているのに。
ただ、それを夫に話したところで理解されるだろうとは思えなかった。
了承を返して、つい先ほどまでよりも少し重くなった気がする足を動かしてニケは離れまでの道をたどった。