第十四話 夫からの呼出
今日も今日とて朝から義父とカマル、そして自分の朝食の支度をしていたニケは予想していなかった足音に井戸水をくみ上げていた手を止めた。
振り返れば案の定、屋敷の使用人がニケに向かって頭を下げて立っていた。
「……何か?」
「奥様、旦那様がお呼びですので昼頃私室に来るようにと」
「旦那様が?……かしこまりましたと伝えておいてちょうだい。あと、私の家に今日の予定を取りやめると使いを」
「はい」
規定されているかのような礼をしてそそくさと去っていった使用人に気付かれないようにニケは小さくため息をついた。
今日は実家に頼んでいたカマルのための木で作った練習用の剣を取りに行こうと思っていたのに、出来そうにない。
屋敷からもそれなりに近い実家に取りに行くだけならそれほど時間はかからないだろうが、急に練習用の剣が欲しいと言ったニケを両親は不思議に思っているだろうし、カマルの紹介もしたい。それに結婚して以来この家を憚って頻繁に実家に帰るということもしていなかったから、ゆっくり腰を据えて話をしたかった。
それなのに昼に、と言われてしまってはどうも実家を訪れるには都合が悪かった。
なによりカマルが毎日のように義父に倣って素振りをしたいと口にしているのだから、早く練習させてやりたい。
ハルゥに聞いても今の年ごろなら練習するのに問題はないし、筋肉が少ないカマルには少しきついくらいの運動をさせた方が成長のためにはいいだろうとまで言われていた。
だからこそ実家の両親に送った手紙にも細かい説明は省略して『練習用の剣が欲しい』としか書かなかったのに────どうしたらいいのか。
それに夫が一体何の用なのだろう。
ため息をつきながら井戸水をくみ上げ、水瓶に入れて炊事場まで運ぶ。
煮込んでいた豆にもちょうどよく火が通っているのを確認した頃に、カマルが起き出してきた。
「……はよ、ございま……かかさま」
「おはよう、カマル」
「ん……じーじ、ぶんぶん?」
ペシペシと床を長い尻尾で軽く叩いている息子にニケは首を横に振った。
今日の義父はまだ起きていない。
「いいえ、まだおねんねしてるの……もうすぐご飯だから、起こしてきてくれるかしら?起こしてきてくれたらいつもより多めに豆をよそってあげる」
「ん!」
朝食に出すつもりの豆を甘めに煮込んだものが好きらしいカマルにそう言うと、勢いよく頷いて義父の寝室の方へと駆けだしていく。
大分危うさがなくなった足取りに安堵しつつ豆の入った鍋を竈から下ろしていると、さっき義父の部屋に行ったはずのカマルが転がり込むように戻って来た。
────嫌な予感が、した。
慌てて鍋を置いてカマルに駆け寄ると、狼狽したカマルが言葉を探すように口を開くもその口が音を出すことはない。
その様子に嫌な予感を確信に変えて、ニケはカマルを抱き上げて義父の部屋へと駆け出した。
(お義父様は、ご病気……)
日常生活には支障がないとは医者にも言われていたが、それでも戦場には立てないほどの病気で、義父は病人だった。
最近の穏やかで優しい生活で、失念しそうになるほどの症状であっても、病気は病気なのだ。
時折裾を踏みそうになるのをどうにかこらえながら、義父の部屋までたどり着くとカマルが開けたままにしてあったのだろう扉をくぐった。
「お義父様!」
震えるカマルを抱いたまま寝台に駆け寄ると苦しそうに息をしながら胸を押さえている義父がそこにはいた。
血の気が引いていくのを実感しながらニケはカマルを足元に下ろして義父の様子を確かめる。
「ニケ、か……っ、」
「無理はなさらないで下さいお義父様……お医者様を呼んで参ります……」
医者はこの屋敷に常駐ではなく、その上国王陛下がわざわざ義父のために手配してくれた人なので、まだ信頼出来る。義父に対し真摯に治療にあたってくれるだろう。
その思いで医者を呼ぼうとしたが、この場に苦しむカマルと義父を残していくのは心苦しい。それでも医者は呼ばねばならない。
こういう時にこの離れに使用人を置かなかったことが悔やまれたが、背に腹は代えられない。
「────カマル、私はお医者様を呼んでくるから、ここにいてちょうだい」
「かかさま?や、行っちゃ……」
不安がるカマルをぎゅっと抱き寄せてニケは頬を寄せた。
幼い子供に酷なことを言っている自覚はあったが、どこか離れた部屋にカマルを一人にしておくのも不安だった。
「すぐに戻ってくるから……じーじの側にいてあげて、お願いよカマル」
「…………ん、」
間を置いてカマルが頷いたのを確認して、ニケは脱兎のごとく駆け出していた。
貴族の妻として娘として褒められた行為ではないのは分かっているが、今は時間が第一だった。
離れを出て庭を突っ切り、厩とそれに近い門まで走った。
ニケの姿を認めた門に控える使用人がぎょっと顔色を変えるのを認めるや否やニケは声を張り上げた。
「お、奥様!?」
「────っ、今すぐにお医者様に来ていただけるよう使いに出てちょうだい!」
「どうされたのです……」
「いいから早くお願いしますっ」
有無を言わさぬニケの声に一人の使用人が馬を出して駆けていくのを見届け、ニケはその場にへたり込みそうになるのをこらえてくるりと踵を返した。
────すぐに来てくれた医者に義父を診て貰っている間に、ニケは一人で義父についていてくれていたカマルを抱きしめていた。
用意した朝食はもう冷めてしまっているだろうが、ニケにもカマルにも食べようという気はなかった。
「じーじ……」
「大丈夫よ……きっと、大丈夫……」
カマルに言い聞かせるのではなく自分に言い聞かせるように何度もそう繰り返すニケに、カマルがそっと頬を寄せる。
頬に伝わる温もりに、ニケはますます強くカマルを抱きしめた。
「────奥様、もう入られて大丈夫です」
医者の助手の言葉にニケははっと顔を上げ、カマルを腕に抱いたまま立ち上がると恐る恐る義父の寝室に足を踏み入れた。
老いた医師の隣、寝台の上で気まずそうに笑って半身を起こしている義父に、ほっと体の力が抜けるような思いがした。
「お義父様……」
「心配をかけたな、ニケ。それにカマルも」
「じーじ!じーじ!」
義父に向かって手を伸ばすカマルにニケは寝台の端に腰掛けるとカマルを義父の近くに下ろしてやった。
「じーじ……」
「ついていてくれてありがとうな、カマル」
「じーじ、大丈夫……?」
「あぁ、もう大丈夫だ」
安心させるようにカマルの頭を撫でて、義父はニケを見た。
「……ひどい顔だぞ、ニケ。折角の美人が台無しだ」
「……っ、御冗談はよして下さいお義父様。心配しました……」
「俺は嘘は言わん」
ニケの頭にも伸ばされた大きな手に撫でられながら、ニケは堪えていた涙があふれ出すのを感じていた。