悪魔の滑り台
山が、流れた
安政五年二月二十六日。新暦の四月九日にあたるその未明、北アルプス立山連峰の闇の奥で、山がひとつ、抜け落ちた。
跡津川断層が裂けた瞬間、大鳶山、小鳶山と呼ばれていた峰の半分が、根こそぎ滑り落ちた。土砂の量、およそ四億立米。山体は粉砕されながら湯川と真川を埋め、いくつもの天然ダムを形作った。
それから半月。ダムは耐えきれずに崩れ、二度にわたって富山平野へ怒涛のごとく押し寄せた。流出した土砂、約二億立米。数百トンの岩が、川を流れた。
岩が、流れたのである。
人々はそれを「山抜け」と呼んだ。山が、流れた。
カルデラの底
「ここに最初に石を積んだのは、わしの爺さんの代だ」
源さんは、年季の入ったヘルメットの下で目を細めた。立山カルデラ、湯川渓谷の最深部。眼前に屹立する白岩堰堤の本堰堤は、六十三メートル。その下に副堰堤が七基。総落差百八メートル、日本一の砂防堰堤。
阿部は手帳から目を上げ、改修中の副堰堤の三号機を見上げた。コンクリートの灰色に、新しく嵌め込まれた黒い鋼鉄の切り口が走っている。油圧式可動ゲート。令和の大改修の象徴。図面を引いたのは、阿部自身だった。
「源さん、爺さんの代って、いつの話ですか」
「大正の終わりかな。砂防のトロッコがまだ計画段階の頃さ。爺さんは石工だった。安政の話を、毎晩聞かされて育ったよ」
源さんはカルデラ内で四十年、重機を動かしてきた男だった。立山砂防における民間作業員の最古参で、誰よりも山の声を知る。山が眠る音、山が寝返りを打つ音、山が目覚める音。それを聞き分ける。
「明治のオランダ人もな、ここに立って、こう言ったらしい。『全ての山を銅板で覆わねば、どうにもならん』」
デ・レーケの逸話。阿部は教科書で読んだ言葉が、現場の老人の口から出てくるのを聞いて、一瞬時間がねじれたような感覚に襲われた。
明治二十四年、デ・レーケが立山に入った。砂防の系譜はそこから始まった。昭和に入って、トロッコ軌道。十八段の連続スイッチバック。高低差二百メートルを駆け上る、世界に類のない工事専用線。さらに昭和二十年代後半、横江堰堤の下流で、堤防を守るための水制が発明された。L字型ピストル型水制。常願寺川生まれの技術が、いま全国の急流河川を支えている。
そして令和の大改修。白岩堰堤の副堰堤群に、油圧式可動ゲートを組み込む。極限時に遠隔操作で開放し、土石流のエネルギーを段差で繰り返し落下させて削ぐ。同時に、下流の岩峅寺の急カーブ部では、既設の誘導ブロック群を可動式に更新中だった。立ち上がる鋼鉄の壁で、土石流の進路を偏向させる。二段構えの防衛線。
百六十七年前の安政の悪夢が、ふたたび来た時のための備え。
「次の安政が、いつ来てもおかしくない」
阿部の独り言を、源さんは聞き逃さなかった。
「阿部ちゃん。山ってのはな、生きとるんだ。眠っとるだけだ。いつかは、目を覚ます」
頭上では、改修工事の重機がコンクリートを刻んでいた。今日もカルデラ内には作業員二百八十名。トロッコは午前と午後、ピストン輸送で人と物資を運んでいる。乗れない鉄道、と外では呼ばれる希少な軌道。彼らにとっては、生命線である。
午後の早い時刻、阿部は無線で本部から呼び戻された。気象レーダーに、見たことのない雨雲の列が映っているという。
不穏な数字
立山砂防事務所のコントロールセンター。
阿部は中央のモニターの前に立った。気象庁の解析雨量レーダー。長く伸びた赤と紫の帯が、富山湾から立山連峰へ向けて、まるで矢のように真っ直ぐ刺さってきている。線状降水帯。
過去最大級。予測雨量、時間百二十ミリ。総雨量、未知数。
阿部の指がキーボードを叩いた。カルデラ内の各観測点。傾斜計、地下水位計、間隙水圧計。並ぶ数字を見て、阿部は呼吸が浅くなった。
地下水位、平常値の三倍。間隙水圧、限界値の九割。傾斜計の振れ、一時間あたり一・二ミリ。
これは、動く。
阿部は無線を取った。
「全班、即時退避。繰り返す、全班、即時退避。トロッコ、ピストン輸送開始。最終便、十六時三十分で打ち切る」
雑音の向こうから、源さんの声が返ってきた。
「阿部ちゃん、わしも聞いとる。山が、動いとる音がする。地鳴りだけじゃねえ、もっと奥のほう。腹の中で、岩が擦れとる」
「源さん、最初のトロッコに乗ってください」
「あとで乗る。先に若いのを下ろす」
無線を切ろうとした阿部の手が、別の通信に止められた。立山有料道路の管理事務所からだ。豪雨による小規模土砂崩れで、千寿ヶ原と水谷を繋ぐ工事用道路が寸断された、と。
退路は、トロッコだけになった。
阿部は背筋が冷えた。手帳のページをめくる。緊急自動発動プロトコル。白岩堰堤副堰堤の油圧ゲート開放、および岩峅寺誘導ブロック群の作動。発動条件は数値で定義されている。だが、最終承認のボタンを押す権限は、現場最高責任者にある。
事務所長は東京出張、副所長は本宮砂防の現場で別件対応中。連絡は取れない。
阿部一人だった。
モニターの隅で、時刻が進んでいた。
山が動く
十七時四分、地球が震えた。
地震計の波形が、画面いっぱいに振り切れた。マグニチュード換算で二・八。震源はごく浅い。立山カルデラ内、大鳶山系の中腹。
それは地震ではなかった。山体崩壊そのものが発する振動だった。
カルデラ内の傾斜計が次々と沈黙していった。地下水位計のグラフが、書きかけのまま途切れた。物理的に、破壊された。
阿部は、見えない山の姿を頭の中で描いた。豪雨で飽和した斜面。間隙水圧の上昇。地震に近い大音響。そして滑落。
崩壊規模、推定数百万から一千万立米。安政の数十分の一。だが現代では、未曾有の規模。
カルデラ底に落下した土砂は、湯川を瞬時に閉塞した。天然ダム。それも一瞬で決壊した。閉塞と決壊は、ほぼ同時。
土石流が、湯川渓谷を駆け下り始めた。
先頭部に、直径数メートルの巨礫を抱いて。後続に、泥流と流木を引きずって。流速、時速三十五キロ。
阿部のモニターに、土石流検知センサーが点灯した。湯川上流から下流へ、赤い点が連鎖していく。
「白岩堰堤到達まで、八分」
阿部は無線を取った。
「源さん、トロッコの位置」
「中小屋を出たとこだ。先頭車両は、桑谷スイッチバックに入った」
桑谷。十八段連続スイッチバックの上半分。ゲート作動区間は、それより下、樺平のあたり。
「最後尾は」
「中小屋にまだおる。あと二十秒で動き出す」
阿部は計算した。土石流到達まで八分。最後尾トロッコがゲート作動区間を通過するまで、約七分四十秒。
四十秒、しかない。
「源さん」
「言わんでもいい。わしは下におる。あんたは、あんたの線を信じろ」
第一の決断——白岩堰堤
阿部の右手が、コンソールの最終承認ボタンの上で止まった。
時刻、十七時九分二十秒。
モニターの右上に、カウントダウン。
土石流到達、二分○五秒。
トロッコ最後尾、ゲート作動区間通過まで、四十二秒。
カウントダウンの数字が、命を持って減っていく。阿部は息を吸った。深く、ゆっくりと。
四十秒。
四十秒間、阿部は何もできない。何もしてはならない。トロッコがゲートの真下にいる間に開放すれば、車両が落下する。
四十秒間、阿部は土石流の到達を待っているしかない。
これは設計の罪だ、と阿部は思った。あと一分早く避難させていれば。あと一基、上流に堰堤を作っておけば。だが、罪は罪として、ボタンは押さねばならない。
「最後尾、樺平通過」
源さんの無線が、空気を裂いた。
阿部の指が、動いた。
油圧シリンダーの作動音は、本部までは届かない。だがモニターの中で、白岩堰堤副堰堤群の三号、五号、七号、三基のゲートが、同時に「OPEN」を示した。
十秒後、阿部はそれを音で聞いた。
爆音ではなかった。もっと深い、地球の喉から漏れ出るような響き。鋼鉄の咆哮と、開かれた段差を落下する水の白い悲鳴。
その音を引き継いで、二十秒後、本物の轟音が来た。
土石流の先頭波が、白岩堰堤に達した。
開かれた三基の段差を、巨礫が次々と落下していく。コンクリートに叩きつけられ、砕かれ、エネルギーを失っていく。閉じたままの四基の段差では、土砂が乗り越えながらも減勢される。本堰堤の本体は、揺るぎもしない。
阿部の指は、もう次のボタンを探していた。
「源さん、トロッコ全員」
「無事だ。千寿ヶ原に降ろした。だが阿部ちゃん——」
「分かってる」
モニターの中で、減衰した本隊が白岩堰堤を抜けて、下流へ流れていく。常願寺川本流へ。
完全には、止まらない。これは、想定通りだった。
「半分しか、削れなかった」
阿部は呟いた。
「残りは、岩峅寺で受ける」
滑走路を駆け下りる
土石流は、滑走路を駆け下りていた。
千寿ヶ原を通過し、合流点で湯川と真川の水を巻き込んで、勢いを取り戻していく。常願寺川本流。河床勾配、平均三十分の一。世界屈指の急流河川。明治のオランダ人技師が「これは川ではない、滝だ」と評したと伝えられる、その滝である。
時速三十キロ。先頭波の高さ、目算で四メートル。後続流は十分以上にわたって続く。
阿部のモニターは、岩峅寺の制御室と接続されていた。可動ゲート群、二十四基。河床に沈められた鋼鉄の壁が、油圧で立ち上がる。立ち上がりに要する時間、八秒。
下流からの無線が次々と入る。
立山町消防団、岩峅寺分団。
「岩峅寺集落、避難ほぼ完了。残り、三軒」
「芦峅寺、避難完了」
「岩峅寺、残り二軒」
阿部の頭の中で、計算が回っていた。土石流先頭の岩峅寺到達予測、十七時十五分四十秒。残り、一分四十秒。可動ゲートの立ち上がり八秒を引くと、最終承認のデッドライン、十七時十五分三十二秒。
「岩峅寺、残り一軒。岩峅一区の坂井宅。お婆さんが歩けず、団員二名で搬出中」
阿部は地図を見た。坂井宅は、段丘の縁から十メートル奥。段丘崖の上の集落、その縁にある。
段丘崖の下には、広い高水敷。常願寺川公園として整備された区域。河川管理用に意図的に広く取られた無人の河原。L字型ピストル型誘導ブロックが並び、その上に新設された可動水制群が沈んでいる。
岩峅寺の急カーブ。常願寺川は、ここで流れを北西から北へと、ほぼ直角に変える。
土石流は、直進性が強い。曲がりきれず、段丘崖に向かって突き抜けようとする。
可動ゲート群を立ち上げれば、土石流のベクトルは誘導ブロックの角度に従って偏向される。北西方向の高水敷側へ。段丘崖の集落を、迂回するように。
そう設計した。図面の上では、何度も確かめた。
だがいま、図面の線は、生きた土石流と、生きた人間の命綱になる。
「残り一軒、運び出し中。あと、四十秒」
阿部のモニターの中で、土石流の赤い帯が、岩峅寺に向かって伸びていく。
第二の決断——岩峅寺
「あと三十秒」
阿部は端末の最終承認画面を呼び出した。指を、ボタンの上に置く。
「源さん」
「ここにおる」
源さんは千寿ヶ原から、別の回線で阿部とつながっていた。土石流の本隊が通り過ぎていく音を、間近で聞いている。
「お前の引いた線を、信じろ。頭で考えるな」
「源さん、もし外したら」
「外しても、誰も責めん。わしらは、できることをやるだけだ。安政の時もそうだった。明治の人も、昭和の人も、平成の人も、令和のお前も。みんな、できることをやるだけだ」
無線の向こうで、別の声が割り込んだ。
「岩峅寺、坂井宅、搬出完了。全住民、段丘上に退避完了」
時刻、十七時十五分二十八秒。
阿部の指が、ボタンを押した。
岩峅寺の急カーブ、河床。沈黙していた鋼鉄の壁が、川底から次々とせり上がってきた。油圧シリンダーが鈍く唸り、二十四基のゲートが、八秒で所定の角度に展開した。
その八秒の間に、土石流の先頭波が、視界の上流から姿を現した。
茶色い壁。高さ四メートル。先頭に黒い巨礫を抱き、白い飛沫を上げて、滑走路を滑り降りてくる。直進性のまま、岩峅寺の急カーブを曲がりきれず、段丘崖の集落へ突き抜けようとする。
そして、立ち上がりきったゲート群と、激突した。
衝撃は、岩峅寺の段丘の上にいた住民にも伝わった。地面が震えた。先頭の巨礫がゲートの鋼鉄壁に叩きつけられ、砕け、跳ね返り、しかし慣性は止まらない。土石流の本体は、ゲートの角度に従って、河道の北西側へと向きを変えた。
広い高水敷へ。L字型ピストル型誘導ブロック群が並ぶ、無人の河原へ。
段丘崖の真下を、土石流が流れた。
段丘崖の上から、住民たちが見下ろしていた。誰も声を出せなかった。轟音だけが響いていた。彼らの足下、わずか十数メートル下を、生き物のような土石流が流れていく。
それは、北西方向に偏向されたまま、下流へ抜けていった。常願寺川の河道内に留まりながら、集落直下を迂回して、富山平野方向へと去っていく。
後続流も、同じ進路を辿った。
岩峅寺のお婆さんは、孫娘に背負われたまま、段丘の縁から、自分の家の足下を流れる泥色の濁流を見ていた。何も言わなかった。ただ、震えていた。
静寂、そして次の世代へ
轟音は、十分後には遠ざかっていた。
二十分後には、ほとんど聞こえなくなった。
三十分後、阿部のモニターには、最終確認の数字が並んでいた。
人的被害、ゼロ。
集落被害、ゼロ。
農地被害、約三・二ヘクタール(高水敷区域)。
河川管理施設被害、ゲート群の一部に変形、修復可能。
カルデラ内堆積土砂、推定残量、依然として三億立米超。
阿部は、コントロールセンターの白板の前に立った。マーカーを取り、避難状況の欄に、震える手でチェックを入れた。
作業員二百八十名、避難完了。
岩峅寺集落、避難完了。
芦峅寺集落、待機解除。
死者ゼロ。
阿部は、その三文字を見つめた。何かを感じる前に、無線が鳴った。
「阿部ちゃん」
源さんだった。
「お疲れさん。お前の線は、保ったよ」
「源さん、ありがとうございました」
「礼はいい。山はまだ、半分しか吐き出しとらん。三億立米、残っとる。次は、いつ来るか分からん」
「分かっています」
「次の安政が来るまでに、もう一段、線を引かにゃならん。お前か、お前の次の世代か」
阿部はモニターを見た。白岩堰堤の改修図面が、画面の隅に出ていた。本堰堤六十三メートル、副堰堤七基、総落差百八メートル。デ・レーケの線。昭和の石工の線。平成の技術官の線。そして令和の、阿部自身の線。
百六十七年の系譜。
明日からまた、改修工事は続く。カルデラ内には、まだ動いていない土砂が、眠っている。
阿部は窓の外を見た。雨は止んでいた。雲の切れ間から、立山連峰の稜線が、夕暮れの光に縁取られて見えた。山は、何事もなかったかのように、そこにあった。
濁流となった常願寺川が、富山湾へ向けて静かに流れていく。
阿部は、もう一度、白板に目を戻した。
「次は、誰が引くのだろう」
無線の向こうで、源さんが小さく笑った気がした。
「明日からだな、阿部ちゃん。明日からだ」




