駅の小さな迷子
追兎天神駅の改札前は、今日もほどよくにぎわっていた。
電車が着けば、人が流れる。
少しすると、また落ち着く。
駅には、そういう呼吸みたいなものがある。
「うさちゃん、見て見てっ。あそこのポスター、新しくなってる!」
弾んだ声と一緒に、マリーがぴょこんと指をさした。
ふわりと波打つ金色の髪。
制服のリボンまで楽しそうに揺れている。
その隣で、うさぎは小さく笑った。
「ほんとだ。春のイベントの案内になってるね」
「前のよりかわいくない?」
「うん。マリーちゃん、こういうの見つけるの早いよね」
「えへへっ。楽しいことの気配には敏感なのです!」
胸を張るマリーに、うさぎはくすっとする。
駅員さんにあいさつして。
売店の人に手を振って。
通りすがりの子どもにまで、にこっと笑いかける。
マリーは、駅の中を歩いているだけなのに明るい。
自分から光を連れてきたみたいに、明るい。
そんなふうに、ふたりがいつもの空気に溶け込んでいた時だった。
「……あれ?」
先に気づいたのは、うさぎだった。
改札の少し横。
人の流れから、半歩だけ外れた場所。
そこに、小さな男の子がひとりで立っていた。
四つか五つくらいだろうか。
明るい髪。小さなリュック。きょろきょろと落ち着かない目。
まだ泣いてはいない。
でも、泣く寸前の顔をしていた。
「迷子、かな……」
うさぎがそうつぶやいた瞬間だった。
「うさちゃん、行こ!」
もうマリーは走り出していた。
本当に、一瞬だった。
考えるより先に身体が動く。
困っている人を見つけた時のマリーは、たぶん条件反射で前に出る。
そういう子だった。
「だいじょうぶ!?」
男の子の前にしゃがみ込んで、マリーがぱっと顔をのぞき込む。
けれど男の子は、びくっと肩を揺らした。
見慣れない相手に緊張したのだろう。
うさぎもすぐ横にしゃがんだ。
「びっくりさせちゃったかな。ごめんね」
やわらかい声。
目線を合わせるように、少しだけ首を傾ける。
男の子はうさぎを見て、ほんの少しだけ強張りをゆるめた。
すると近くにいた女性が、ほっとしたように声をかけてきた。
「その子、さっきからひとりでいて……。たぶんお母さんとはぐれちゃったみたいなの。でも、言葉が通じなくて……」
「あっ、そういう感じ!?」
マリーは男の子を見た。
髪の色、瞳の色から外国人のようだ。
日本語がわからないのかもしれない。
近くにいた女性がマリーへ視線を向ける。
ふわりと波打つ、目を引く金髪。
日本の駅の中では、どうしても目立つ髪色だ。
「マリーちゃん、英語とか……」
一瞬、間が空いた。
マリーは困ったように笑って、頭をかいた。
「アタシ、日本語しか話せないんだ……へへ」
「えっ」
「えへへ……」
女性が拍子抜けした顔になる。
うさぎは思わず吹き出しそうになった。
見た目だけなら、たしかに話せそうに見えるのだろう。
でもマリーは、日本で生まれて日本で育った子だ。
英語がぺらぺら、なんてことはない。
「でも!」
マリーはすぐに顔を上げた。
「迷子なんでしょ? だったら探さなきゃ!」
迷いのない声だった。
話せないから無理。
そういう順番が、マリーの中にはない。
まず助ける。
方法は、そのあと考える。
うさぎはそのまっすぐさが好きだった。
「うん。一緒に探そう、マリーちゃん」
男の子はまだ不安そうだった。
今にも泣き出しそうで、でも必死にこらえている顔。
マリーは「うーん」と少し考えてから、ぱんっと手を打った。
「よしっ。まずは泣かない作戦!」
「作戦なんだ」
「作戦だよ!」
そう言うなり、マリーは自分のほっぺたをむにっと引っ張った。
「ぶにーっ」
「……」
「ほら! 変なお顔!」
さらに片目をつむり、口をへの字にして、妙に得意げな顔をしてみせる。
「じゃーん! 追兎天神駅いちばんの変顔名人!」
「マリーちゃん、それ名乗ったことある?」
「今、初めて名乗った!」
うさぎが思わず笑う。
その笑いにつられるみたいに、男の子の表情が少しだけ動いた。
泣きそうだった目が、ほんの少し丸くなる。
「おっ?」
マリーはその変化を見逃さなかった。
「いいぞいいぞー。次はこれだっ」
両手を頭の横に持っていって、うさぎの耳みたいにぴょこぴょこ動かす。
「ぴょこぴょこーっ」
「……っ」
「あっ、今ちょっと笑った!」
「ほんとだ」
男の子の口元が、かすかにゆるんだ。
その隙に、うさぎはそっと男の子の手を握る。
小さな手は少しひんやりしていた。
不安で、どこにいていいかわからなくて、力が入っている。
「だいじょうぶだよ」
日本語が全部わからなくてもいい。
声のやわらかさや、手のぬくもりなら届くかもしれない。
「ママ、いっしょに探そうね」
うさぎが静かに微笑む。
すると男の子は、うさぎの手を握り返してきた。
さっきより、少しだけ力がやわらいでいる。
その横で、マリーはもう次の行動に移っていた。
「駅員さんのところ行こ! あと、お母さんが探しそうなところも見ないと!」
本当に早い。
頭で整理する前に、足が動く。
周りもその勢いに巻き込まれていく。
「うさちゃん、その子お願い! アタシ、駅員さん呼んでくる!」
「うん、お願い!」
マリーはばたばたっと駆けていった。
遠くから見てもわかるくらい、身振り手振りが大きい。
少しして戻ってきた時も、息を切らしながら元気いっぱいだった。
「改札の近くで見てもらえるって! お母さん探してる人がいないか、駅員さんも見てくれてる!」
「さすが、マリーちゃん」
「えへへ。隊長なので!」
どこの隊長なのかはわからない。
でも今のマリーは、たしかに小さな救出隊の隊長みたいだった。
マリーはしゃがみ込み、男の子に自分を指さして見せる。
「マリー!」
「……」
「マ・リー!」
次に、うさぎを指さした。
「うさちゃん!」
「うさぎ、だよ」
男の子は不思議そうにふたりを見た。
それから、マリーを指さしながら、おそるおそる口を開いた。
「……マ……リ」
「おおっ!」
マリーの顔がぱあっと明るくなる。
「すごい! 言えた! 天才!」
「マリーちゃん、ほめるの早い」
「だってすごいもん!」
男の子は、今度ははっきり笑った。
まだ不安は残っている。でも、もうさっきみたいな顔ではなかった。
その時だった。
少し離れたところから、焦ったような声が響く。
「Leo! Leo!」
男の子がはっと振り向く。
人波の向こうに、必死な顔の女性がいた。
男の子の表情が、一瞬で明るくなる。
「Mama!」
握っていたうさぎの手を離し、ぱたぱたと駆け出していく。
「あっ」
「わっ」
その女性は男の子のお母さんなんだろう。
一目散に駆け寄ってきて、男の子を強く抱きしめる。
何度も頬にキスをして、無事を確かめるように名前を呼ぶ。
その姿を見ただけで、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
女性は男の子を抱いたまま、ふたりの方へ向き直る。
それから、何度も何度も頭を下げた。
「Merci! Merci beaucoup!」
「あっ」
マリーが目を見開く。
親子は安心したように手をつなぎ、駅員にも礼を言って、そのまま去っていく。
マリーは数秒、呆然とその背中を見送っていた。
うさぎが首をかしげる。
「どうしたの、マリーちゃん?」
「……いま」
「うん?」
「メルシーって言った」
うさぎはぱちぱちと瞬きをした。
「えっ。じゃあ……」
「フランス語だった……」
「……」
「フランス語なら、アタシ話せたのにぃぃぃ!?」
がくっとその場に崩れ落ちそうな勢いで、マリーが頭を抱える。
マリーの母親はフランス人だ。
だからマリーは、英語はさっぱりでも、フランス語ならふつうに話せる。
「英語しか話せないって、勝手に思いこんでたぁ!」
「そ、そっか……!」
「最初からフランス語で話しかければよかったぁ!」
「でも、無事に会えたから……!」
「そうなんだけどーっ!」
うさぎはとうとう吹き出してしまった。
「ふふっ……あはは……!」
「うさちゃん笑ってる!」
「だって、マリーちゃんらしくて……!」
「らしいかなぁ!?」
言いながら、マリーも自分でおかしくなってきたのか、少しずつ笑い出す。
「……でも、まあいっか」
「うん」
「ちゃんと会えたし。あの子、途中で笑ってくれたし」
「うん。マリーちゃんがいたからだよ」
うさぎがそう言うと、マリーは少しだけ目を丸くした。
「……そっか」
「うん。マリーちゃんが最初に走っていってくれたから、あの子、ひとりぼっちの時間が短くてすんだよ」
「うさちゃん……」
「それに、マリーちゃんは笑わせて、私は安心してもらうだけだったから」
「だけ、じゃないよ」
今度はマリーが言う番だった。
「うさちゃんが手を握ってくれてたから、あの子、ちゃんと待てたんだよ」
「……」
「アタシひとりじゃ、きっとあんなに落ち着かなかった」
うさぎは少しだけ照れたように笑った。
改札の向こうで、次の電車の到着を知らせる音が鳴る。
駅がまた少しだけ忙しくなる。
その音を聞きながら、マリーはくるりと振り返った。
「よーし! 次に困ってる人がいたら、今度こそ最初に言語を確認する!」
「そこなんだ」
「大事だもん!」
「ふふっ」
それからマリーは、いつものように胸を張った。
「でも、困ってる人を見つけたら動くのは当たり前だからね!」
「うん。マリーちゃんは、そういう子だよね」
「えへへっ。知ってた?」
「知ってたよ」
「じゃあ安心!」
何が安心なのかは、やっぱりよくわからない。
でも、そう言って笑うマリーを見ていると、うさぎまで少し安心する。
追兎天神駅には、今日もいろんな人がやってくる。
うれしい人。急いでいる人。少し不安な人。
そんな駅の中で。
誰かが困っていたら、いちばん先に駆け出していく金色の少女がいる。
その隣には、そっと手を握って安心を渡せる少女がいる。
きっとこの駅は。
そういうふたりがいるから、少しだけあたたかい。




