うさ姉さまと呼びたい
朝の駅前は、まだ人通りが少なかった。
春のやわらかな光が石畳を照らしていて、空気は少しひんやりしている。
駅前の看板も、ベンチも、改札へ続く道も、いつもと同じ景色のはずなのに、今日のみこには全部が少し違って見えた。
たぶん、それは自分の気持ちがいつもと違うからだ。
鈴音みこは、駅前の真ん中に立っていた。
背筋を伸ばして。
両手をぎゅっと握って。
逃げない、と何度も何度も自分に言い聞かせながら。
昨日みたいに、後ろから見ているだけでは終わらない。
今日こそ、ちゃんと話す。
ちゃんと名前を言う。
ちゃんと、気持ちを伝える。
そのつもりで来た。
……来たのだけれど。
「うぅ……」
小さく声が漏れる。
いざ駅前に立ってみると、思っていた以上に緊張していた。
心臓はずっとどきどきしているし、手のひらは落ち着かないし、足も少しだけふわふわする。
でも、ここまで来たら逃げたくない。
逃げたら、きっとまた後悔する。
あとからお布団の中でじたばたすることになる。
それはもう分かっている。
みこは深呼吸をひとつした。
だいじょうぶ。
ちゃんと言える。
たぶん。
きっと。
……言えるはず。
そのとき、遠くのほうに見慣れた二人の姿が見えた。
紺色の制服。
並んで歩く後ろ姿。
片方は、やわらかくて、きれいで、見ているだけで胸があたたかくなる人。
もう片方は、元気いっぱいで、朝の光まで明るくしそうな人。
――来た。
みこの背筋がぴんと伸びる。
来た。
本当に来た。
当たり前だけど、来た。
胸の中で何かがばたばたと走り回る。
逃げない。
今日は逃げない。
みこはもう一度、自分の中でそう言った。
そして、二人がすぐ近くまで来たところで、小さく一歩前へ出る。
「は、はじめまして……」
声が少し震えた。
でも、ちゃんと届いた。
うさぎとマリーが同時に足を止める。
みこはごくりと息をのみ、意を決して顔を上げた。
そして、心の中で何度も何度も練習していたその呼び方を、ついに口にする。
「うさ姉さま」
うさぎがぴたりと固まった。
「……え?」
ゆっくり振り向いた顔が、きょとんとしている。
隣でマリーも一瞬ぽかんと口を開けた。
それから数秒遅れて、ぶふっと吹き出す。
「ちょ、ちょっと待って!」
お腹を抱えそうな勢いで笑い出す。
「うさ姉さまだって! うさちゃん、うさ姉さまだって!」
「マリーちゃん、笑わないで……!」
うさぎが慌てて止めに入るけれど、その本人もかなり動揺していた。
うさ姉さま。
言ってしまった。
みこの顔がみるみる赤くなる。
でも、ここで逃げたらだめだ。
今日は逃げないと決めたのだから。
みこはぎゅっと拳を握り直して、もう一歩だけ前へ出た。
「わ、わたしは……」
ちゃんと名前を言わなきゃ。
そう思った瞬間、急に喉がきゅっとなる。
緊張で舌がもつれそうになるのを必死でこらえて、みこは口を開いた。
「鈴音みこっていいましゅ」
言った。
……言ったのだけれど。
一瞬、そこに小さな沈黙が落ちた。
「……いいましゅ?」
マリーが小声で繰り返す。
「か、噛んだ……!」
みこは両手で顔を押さえたくなった。
でもそんなことをしている場合じゃない。
自己紹介で噛むなんて、あまりにもかっこ悪い。
せっかく頑張って立ったのに。
せっかく“逃げない”って決めたのに。
みこの顔はもう真っ赤だった。
うさぎは一瞬だけ笑ってしまいそうになったけれど、すぐに表情をやわらかく整える。
笑ったら、きっとこの子は本当に泣いてしまうかもしれない。
そんな気がした。
だから、できるだけやさしい声で尋ねる。
「みこちゃん……でいいの?」
みこは、こくんと小さくうなずいた。
その様子があまりにも一生懸命で、うさぎの頬も少しゆるむ。
横からマリーが、待ってましたとばかりに口をはさんだ。
「じゃあ、みーちゃんでいいよね!」
「えっ」
みこが顔を上げる。
急に呼び名が変わったことに驚いたらしい。
でも、マリーはまったく気にしていない。
「だって“みこちゃん”もかわいいけど、“みーちゃん”のほうが呼びやすいし!」
「呼びやすさで決めるの……?」
うさぎが小さくつっこむ。
「いいじゃん。みーちゃん、だめ?」
マリーがにっと笑うと、みこはぱちぱちと瞬きをしてから、少しだけうれしそうに頬をゆるめた。
「……うん」
それだけで、張りつめていた空気がほんの少しやわらぐ。
よかった、とみこは心の中で思った。
ちゃんと立ち止まってもらえた。
ちゃんと名前も言えた。
少し噛んだけど。
かなり噛んだけど。
でも、まだ終わりじゃない。
今日、ここでいちばん言いたかったことは、まだ残っている。
うさぎがやさしく問いかける。
「それで、みこちゃんはわたしたちに何か用があったの?」
その言葉に、みこの胸がどきんと跳ねた。
そうだ。
ここからだ。
ここを言わないために頑張ってきたわけじゃない。
むしろ、これを言うために今日ここに立っているのだ。
みこは深呼吸をひとつした。
それから、まっすぐうさぎを見る。
きれいな人だと思う。
かわいい人だと思う。
やさしい人だと思う。
昨日、巫女服を褒めてくれた時に、それはもう、どうしようもないくらい確信になった。
この人の近くにいたい。
この人に、もっと見てもらいたい。
この人と一緒にいたい。
だったら、言うしかない。
みこは一歩前に出た。
「うさ姉さま!」
思っていたより大きな声が出た。
うさぎがまた少し目を丸くする。
でも、もう止まらない。
「わたしのお姉ちゃんになってください!!!」
朝の駅前に、みこの声が元気いっぱいに響いた。
その瞬間。
ぴたり、と時間が止まった気がした。
風も、音も、二人の表情も、全部が数秒だけ固まる。
うさぎも、マリーも、何を言われたのかすぐには理解できなかったらしい。
一拍おいて、マリーがうさぎの顔を見る。
次に、みこを見る。
そしてもう一度、うさぎを見る。
その顔がだんだんにやにやしてくる。
うさぎのほうは、完全に困っていた。
「えっ……ええっ?」
「どうしてそんな反応なのうさちゃん、面白すぎる」
「マリーちゃんは黙ってて!」
「だって朝から“お姉ちゃんになってください”だよ!? すごくない!?」
「すごいけど……!」
うさぎは頬を赤くしながら、みこを見た。
みこの目は真剣そのものだった。
冗談で言っている顔ではない。
本気で頼んでいる。
だからこそ、余計にどう返したらいいのか分からない。
「どうして……わたしなの?」
やっと出てきた言葉は、責めるようなものではなかった。
ただ、本当に不思議だったのだ。
みこは少しだけ目を伏せる。
でも、問いかけから逃げることはしなかった。
ちゃんと答えよう、と思う。
「うさ姉さまは……」
言いながら、自分の胸の中にある気持ちを探す。
きれい。
かわいい。
やさしい。
見ていると、あったかい気持ちになる。
みこは顔を上げた。
「キレイで、可愛くて……」
そこまで言って、うさぎの頬がさらに赤くなる。
隣でマリーは楽しそうに肩を震わせていた。
みこはそれに気づかないまま、言葉を続ける。
「なにより、優しい……と思うから」
最後の「思うから」は少しだけ小さくなった。
でも、それはみこの本音だった。
昨日、何も言えずに制服の裾をつまんだだけの自分に、
困るでもなく、笑うでもなく、
「その巫女服、とっても似合ってるわよ」
と返してくれた。
あんなふうにやさしい言葉をくれる人がいるなんて、みこはあまり知らなかった。
だから、もっと近くにいたいと思った。
だから、お姉ちゃんになってほしいと思った。
マリーがにやっと笑う。
「いいじゃん、うさちゃん」
「えっ」
「お姉ちゃんになってあげなよ」
「そんな簡単に言わないでよ……!」
「だって、みーちゃんこんなに本気だよ?」
その言葉に、うさぎはあらためてみこを見る。
たしかに、本気だった。
目がまっすぐだし、逃げるつもりもなさそうだし、何より全部の言葉が一生懸命だ。
みこも、もう一度うさぎを見上げた。
「うさ姉さま、お願い」
その声は、さっきより少しだけ小さい。
でも、そのぶん余計に真剣だった。
うさぎは少しだけ困った顔をする。
困っている。
でも、嫌そうではない。
どうしたらいいのか分からないだけなのだ。
そんなことは、マリーにも、みこにも、なんとなく分かった。
三人のあいだに、短い沈黙が落ちた。
朝の風が吹いて、制服の裾をやさしく揺らす。
遠くで電車の音がする。
その中で、うさぎはゆっくりと息を吐いた。
そして、小さな声で言う。
「……わたしがお姉ちゃんでいいの?」
その瞬間、マリーの顔がぱっと明るくなった。
「みーちゃん!」
勢いよくみこの肩をつかむ。
「うさちゃんがお姉ちゃんになってくれるって!」
「ほんと!?」
みこの顔が一気に明るくなる。
さっきまでの緊張も、不安も、恥ずかしさも、全部ふっとんだみたいに笑顔になる。
「やったー!」
思わずぴょん、とその場で小さく跳ねた。
うさぎはそんなみこを見て、少し照れたように目をそらす。
「もう……仕方ないわね」
でもその声は、ちゃんとやさしかった。
みこの胸がぽかぽかになる。
やった。
ほんとうに、やった。
言えた。
伝わった。
しかも、お姉ちゃんになってもらえた。
こんなことってあるんだ、とみこは本気で思った。
そのとき、マリーが腕を組んで、いかにも偉そうに言った。
「じゃあ、みーちゃんはアタシの子分ね」
「違うわよ」
「違うよ」
うさぎとみこの声が、ぴったり重なった。
一瞬だけ、三人ともきょとんとする。
それから、顔を見合わせて――
くすっ、と笑った。
最初に笑ったのはうさぎだった。
つられるようにみこも笑う。
マリーは「なんでー!?」と言いながら、いちばん楽しそうに笑っていた。
三人の笑い声が、朝の駅前にやわらかく広がる。
ほんの少し前までは、こんなふうに並んで笑うなんて想像もできなかった。
でも今は、もう不思議じゃない気がした。
そのまま自然に、三人は並んで歩き出す。
駅へ向かう道。
うさぎが真ん中で、みこがそのすぐ隣を歩く。
反対側では、マリーが何か思いついたように楽しそうにしゃべっている。
「ねえねえ、みーちゃんって神社の子なんでしょ? なんかすごい特技とかあるの?」
「お掃除なら得意だよ!」
「え、そこ!?」
「すごいでしょ!」
「いや、すごいけどもっとこう……神秘的なやつとかないの?」
「神秘的……?」
みこが真剣に考え込みそうになるので、うさぎが思わず笑う。
「マリーちゃん、変なこと聞かないの」
「だって気になるじゃん!」
そんなたわいないやり取りが、朝の道に自然に溶けていく。
みこは歩きながら、何度も何度も心の中で同じことを繰り返していた。
うさ姉さまと、一緒に歩いてる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
朝の光の中を、三人の影が並んで伸びていた。
もう、少しもぎこちなくない。




