アリスちゃん、教えて
その日の追兎天神駅は、めずらしく少しだけ静かだった。
掃除の時間。
みこはモップを持ちながら、鼻歌まじりに機嫌よく床を拭いていた。
「ふんふふーん、ふふーん♪」
声は明るい。
本人も気分よさそうだ。
けれど、その少し後ろを歩いていたアリスが、ふと足を止めた。
「……みこちゃん」
「はい?」
みこが振り向く。
モップを持ったまま、にこっとしている。
アリスは少しだけ首をかしげた。
「みこちゃんの歌って、独特よね」
「独特?」
みこがきょとんとする。
「どういうこと?」
アリスは少し考えてから、正直に言った。
「ほら、ちょっと音階違うから」
「おんかい……?」
「きれいに外してるわね」
「きれいに外してる……?」
みこの動きが止まった。
アリスは悪気なく続ける。
「みこちゃんアレンジかと思ったわ」
「もしかして、わたしって歌が……」
みこがだんだん不安そうな顔になる。
アリスはそこでようやく、少しだけ言いづらそうにした。
「……そうね。たぶん、少し直したほうがいいわ」
「やっぱり……」
みこは目に見えてしょんぼりした。
モップを持つ手まで、なんだか元気がなくなる。
「そんなに落ち込まなくても」
「でも、わたし、歌うの好きだったのに……」
アリスは少しだけ困った顔をした。
自分が悪いことを言ったのは、なんとなくわかる。
でも、嘘をつくのも違うと思った。
だから、少しだけ話を変えるように言う。
「じゃあ、わたしの歌も聞いてみる?」
「アリスちゃん、歌えるの?」
「当然よ」
アリスは胸を張る。
「歌ぐらい、上手く歌えるわ」
「ホントに?」
「ホントよ」
その言い方が妙に自信たっぷりで、みこは思わず少しだけ期待した顔になる。
「じゃあ、歌ってみてよ」
「いいわ」
アリスは小さく息を整えると、その場で短く歌い始めた。
はじめの一声で、みこの目がまるくなる。
きれいだった。
よく通るのに、やわらかくて、澄んでいる。
音もまっすぐで、流れるように自然だった。
ほんの短い一節。
でも、それだけで十分だった。
歌い終わると、みこはしばらく何も言えなかった。
「……どう?」
「わぁ……」
ようやく出た声は、すっかり聞き入ったあとの声だった。
「すごっくキレイな声……」
「そう?」
「プロみたい!」
その一言に、アリスはちょっとだけ得意そうな顔をする。
「当然よ」
少しだけドヤる。
「小さい頃から習っていたもの」
「すごい……」
「そうでしょう」
今度は、ちゃんと得意げだった。
でもみこは、そんなことは気にせず、ぱっと目を輝かせる。
「アリスちゃん!」
「なに?」
「わたしに教えてよ」
「……えっ」
アリスが一瞬固まる。
「教えるって……歌を?」
「うん!」
みこはためらいがない。
「アリスちゃん、すごく上手だもん!」
「そ、そうだけど……」
褒められて悪い気はしない。
むしろ、かなりうれしい。
でも、急に先生みたいな立場になるのは、ちょっと照れる。
「……ま、まぁ、いいけど」
「ほんと!?」
「そんなに大きな声出さなくても聞こえてるわ」
「やった……!」
みこは本当に嬉しそうだった。
その反応を見て、アリスもほんの少しだけ口元をゆるめる。
「でも、ちゃんと聞くのよ」
「聞くよ!」
「途中で勝手にみこちゃんアレンジしないで」
「それ、だめなの……」
「だめに決まってるでしょう」
みこはこくこくとうなずいた。
「わかった!」
「じゃあ、まずはさっきのところから」
「はい!」
アリスは小さく咳払いをする。
「みこちゃん、もう一回歌ってみて」
「うん!」
みこが、さっきと同じように歌い始める。
「ふんふふーん、ふふーん♪」
「違うわ」
「早い!?」
みこがびっくりして止まる。
アリスは真面目な顔で言った。
「そこ、ふんふふーんじゃなくて、ふん、ふふーん、よ」
「そんなに違う?」
「違うわ」
「そうなんだ……」
みこは難しそうな顔になった。
「じゃあ、アリスちゃん、もう一回やって」
「いいわよ」
アリスが歌う。
みこが真似する。
「ふん、ふふーん」
「ふん、ふふーん」
「そこ、いまちょっといい」
「ほんと!?」
「ちょっとだけね」
「ちょっとでもうれしい!」
みこはすぐに元気を取り戻した。
その素直さに、アリスは少しだけ目を丸くする。
「みこちゃんって、へこむのも早いけど戻るのも早いのね」
「へこんだけど、アリスちゃんが教えてくれるから大丈夫!」
「……そう」
アリスは少しだけ視線をそらした。
そういうまっすぐな言い方には、まだ少し弱い。
「じゃあ、もう一回」
「うん!」
静かな駅のすみで、二人は小さな声で歌い直す。
アリスが歌って、みこが真似する。
少しずつ。
でも確かに。
みこちゃんアレンジだった歌が、少しずつ“歌”らしくなっていく。
「……いまのは、さっきよりいいわ」
「ほんと?」
「ええ」
「やったぁ……!」
みこが嬉しそうに笑う。
アリスはその顔を見て、少しだけ胸を張った。
「だから言ったでしょう。教えればなんとかなるの」
「アリスちゃん、先生みたい!」
「先生ではないわ」
「でも先生っぽいよ」
「……まあ、今日だけならいいわ」
そう言いながらも、ちょっと嬉しそうだった。
みこはモップを壁に立てかけると、きちんとアリスの前に立つ。
「じゃあ、つづきもお願いします!」
「ええ。ちゃんとついてきなさい」
「はい!」
駅のすみで、ふたりの小さな歌の練習が始まる。
まだ誰も知らない。
それがこの先、思いがけない名前を持つことになるなんて。
今はまだただ、
歌のきれいな子と、
歌うのが好きな子が、
少しずつ息を合わせ始めただけだった。




