どうして駅で働くの?
その日のアリスは、朝から少し機嫌が悪かった。
きっかけは、掃除当番である。
しかも、ただの掃除ではない。
駅のトイレ掃除だった。
「どうして、わたしがこんなことをしなくちゃいけないの……」
バケツを見つめながら、アリスがぽつりとこぼす。
「わたし、お嬢様なのよ」
その言い方は偉そうというより、本気で納得していない子どものそれだった。
「なのに、どうして駅でトイレ掃除なんてしなくちゃいけないのよ……」
その少し後ろで、みこが心配そうにアリスを見上げていた。
「アリスちゃん、だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶじゃないわ」
「そんなにはっきり……」
「だって、だいじょうぶじゃないもの」
アリスはほっぺたを少しふくらませる。
マリーが横からくすっと笑った。
「でもさ、お嬢様がトイレ掃除って、たしかにすごいよね」
「でしょう?」
「珍しいものを見ている気がする」
「見世物じゃないの!」
アリスはむっとして言い返した。
けれど、怒りきれない。
怒るより先に、不満のほうが大きいらしい。
少し離れたところで、しおんは静かに掃除道具を整えていた。
口は出さない。
けれど、アリスの不満げな声はちゃんと聞いている。
みこが、おそるおそる聞いた。
「でも……アリスちゃんって、どうして駅で働くことになったんですか?」
アリスは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ不機嫌そうなまま言う。
「お父様が、急に言い出したのよ」
「お父様が?」
「そう。“社会勉強をしてきなさい”って」
マリーが目をぱちぱちさせた。
「へえー。いきなり?」
「いきなりよ。ほんとうに、いきなり」
アリスは、まるで昨日のことみたいにむっとした顔をする。
「だから、最初はちゃんと断ったわ」
「断ったんだ」
「当然でしょう」
胸を張って言う。
「だって、意味がわからないもの。どうしてわたしが、わざわざ駅で働かなくちゃいけないのかしらって」
そのまま、アリスの視線が少しだけ遠くなる。
みことマリーも、自然とその話を聞く顔になった。
しおんだけが、掃除道具を整える手をほんの少しだけ止めた。
――数十日前。
有栖院家の応接間は、いつも通り静かだった。
大きな窓から差し込むやわらかな光。
整えられた家具。
手入れの行き届いた空気。
その真ん中で、アリスは少しだけ不満そうな顔をして座っていた。
「どうしてですか」
相手は有栖院家当主の旦那様、アリスの父である。
アリスの問いに対しても、旦那様は声を荒げたりしなかった。
ただ、静かに、はっきりとした口調で言った。
「お前には、外の世界を知る必要がある」
「外の世界なら知ってます」
「知っているつもり、だろう」
その一言に、アリスは口をつぐむ。
旦那様は続けた。
「お前はこの家の中では困らない。誰かが先回りして、お前のために道を整えるからだ」
「それの何が悪いの、別にいいじゃない」
「悪いとは言っていない。ただ、それだけでは足りない」
アリスは少しだけ眉を寄せた。
「足りない?」
「そうだ」
旦那様の声は静かだった。
「人にしてもらうことに慣れるだけではなく、自分で見て、自分で考えて、自分で動くことを覚えなさい」
「……」
「そのための社会勉強だ」
アリスは納得していなかった。
していない、というより、わからなかった。
何がそんなに足りないのか。
どうしてわざわざ、知らない場所へ行って、知らない人たちと働く必要があるのか。
「追兎天神駅で、しばらく働いてきなさい」
その言葉に、アリスは顔を上げた。
「駅で?」
「そうだ」
「どうして駅なの」
「人の出入りがある。仕事がある。日常がある。お前にはちょうどいい」
アリスはますます不満そうな顔になった。
「ちょうどよくないです」
「そう思うからこそ行く意味がある」
静かに言い切られてしまう。
アリスはしばらく言い返そうとしたけれど、うまく言葉にならなかった。
「……いやです」
ようやく出たのは、その一言だった。
少し子どもっぽくて、少し素直な、本音そのままの言葉。
旦那様は、その言葉を責めなかった。
「そうか」
「いやです」
「それでも行きなさい」
「どうしてですか」
「必要だからだ」
静かで、でも揺るがない声だった。
アリスは、その揺るがなさが少し嫌いだった。
でも同時に、それ以上は覆らないとわかってしまうのも悔しかった。
「……しおん」
思わず、隣へ目を向ける。
そこには、いつものようにしおんが立っていた。
黒い髪。
整った姿勢。
静かなまなざし。
しおんは、さっきから一言も話していない。
けれど、アリスが名前を呼んだ瞬間だけ、その目がほんの少しやわらいだ。
「はい、アリス様」
「しおんも何か言って」
「……」
その一瞬、しおんは珍しく言葉を選んでいた。
そして、旦那様へ向き直る。
「旦那様」
その声音は、普段の穏やかなそれと同じだった。
でも、ほんの少しだけ芯が強かった。
「発言をお許しいただけますか」
「言いなさい」
旦那様の許しを受けて、しおんは深く頭を下げた。
「アリス様を、おひとりでそのような場所へ行かせるわけにはまいりません」
アリスが目を丸くする。
しおんはそのまま、顔を上げた。
「帯同をお許しください」
「しおん?」
アリスが思わず声を漏らす。
しおんは振り返らない。
ただ、まっすぐ旦那様を見ていた。
「アリス様は聡明なお方です。けれど、まだこの家の外のことには不慣れです」
「不慣れだからこそ、学ぶ必要がある」
「はい」
しおんは、その言葉を否定しなかった。
「ですからこそ、なおさらです。知らない場所へ、知らない仕事へ、突然おひとりで向かわせるのは負担が大きすぎます」
「しおん……」
アリスはさっきまでの不満も少し忘れて、しおんを見ていた。
しおんが、こんなふうにはっきり何かを願うのを見るのは珍しかった。
「私はアリス様のおそばにいる者です」
しおんは静かに言う。
「ご命令であれば、もちろん私は従います。けれど……」
そこで、ほんのわずかに言葉が止まる。
普段のしおんなら、そのまま飲み込んでしまうはずの間だった。
「アリス様をおひとりで行かせることだけは、お許しいただきたくありません」
応接間はしんと静まっていた。
アリスも、旦那様も、しおんの言葉の続きを待っている。
「ご迷惑をおかけしないよう、私も現場で学びます」
「しおん」
「必要以上に手を出すつもりはありません。ですが、せめて同行だけはお許しください」
旦那様はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「ならん」
「……」
「それでは意味が薄れる。お前がいれば、アリスは必ずお前を頼る」
「……はい」
「お前も、必ず先回りする」
しおんはすぐには返事をしなかった。
その沈黙は、否定ではなく、図星に近かった。
「旦那様」
けれど、しおんは引かなかった。
もう一度、きちんと頭を下げる。
「承知のうえで、お願いします」
「しおん」
「おひとりでは、負担が大きすぎます」
「それも経験だ」
「それでもです」
その言葉は強くはない。
けれど、いつものしおんを知る者なら、はっきりわかるほどに譲らなかった。
「私がいれば、アリス様は私を頼られるでしょう。私もまた、先回りしてしまうかもしれません」
「そうだ」
「ですが――」
しおんはそこで、一度だけ深く息を吸った。
「わたしが、アリス様と一緒にいたいのです」
応接間の空気が、静かに止まる。
アリスが息をのむ。
しおんは視線を伏せなかった。
「お守りしたいから、だけではありません」
「……」
「心配だから、だけでもありません」
その声は、強くはない。
けれど、今まででいちばん、しおん自身の言葉だった。
「わたしが、アリス様のおそばにいたいのです」
長い沈黙のあと。
旦那様はゆっくりと息をついた。
「……しおん」
「はい」
「お前も大切な、わたしの娘だ」
しおんの目が、わずかに揺れる。
旦那様は静かに続けた。
「だからこそ、お前の願いを軽くは扱えん」
アリスは黙ったまま、父としおんを見ていた。
旦那様は、今度はアリスへ視線を向ける。
「アリス。お前が行くことに変わりはない」
「……はい」
そして、しおんを見る。
「帯同を認めよう」
「……!」
「ただし、条件がある」
しおんは背筋を正した。
「かしこまりました」
「必要以上に手を貸すな。見守れ。だが、甘やかすな」
「……はい」
「アリスもだ」
旦那様の視線が向く。
「しおんをあてにしすぎるな。自分で学び、自分で動きなさい」
「……はい」
少しだけ不満そうにしながらも、アリスは返事をした。
旦那様は最後に、しおんへ静かに言った。
「アリスをよろしく頼む」
しおんは深く頭を下げた。
「はい。必ず」
その横で、アリスはさっきまでの不満も少しだけ忘れていた。
“駅で働くこと”よりも、
“しおんも一緒に来る”ことのほうが、ずっと大きかったからだ。
「――というわけよ」
アリスの声で、現在へ戻る。
みこはすっかり真剣な顔で聞いていた。
「そうだったんですね……」
「だから、いまでも納得してないわ」
「そこは変わってないんだ」
「変わるわけないでしょう」
アリスはきっぱり言った。
「どう考えても、わたしがトイレ掃除をする理由はよくわからないもの」
「そこだけ聞くと全然成長してない気もするなあ」
「マリちゃん」
みこが小さくたしなめる。
でもアリスは、そこでは怒らなかった。
少しだけ口をとがらせて、それから小さく言う。
「……でも」
「ん?」
「しおんが一緒に来てくれたのは、よかったわ」
その言葉に、マリーとみこが自然としおんを見る。
しおんはいつものように静かな顔をしていた。
けれど、そのまつげがほんの少しだけ揺れた。
「ひとりだったら、たぶん、もっといやだったもの」
アリスはそう言って、少しだけ視線を逸らす。
照れているのか、素直になりきれないのか。
たぶん、両方だ。
みこが嬉しそうに言う。
「しおんちゃん、アリスちゃんのことが大好きなんですね」
「みこちゃん、まっすぐだなあ」
「だって、そう見えるから」
「……否定はいたしません」
しおんが静かに答えた。
アリスがすぐに振り向く。
「そこは否定しなさいよ」
「なぜでしょう」
「なぜって……」
言い返そうとして、アリスは少しだけ詰まる。
その様子を見て、マリーがにやっと笑った。
「アリスちゃんだって、しおんちゃんのこと大好きじゃん」
「ち、違うわよ」
「違わないです!」
「みこちゃんまで!」
アリスは頬を少しだけ赤くした。
でも、そのあとで小さく呟く。
「……好きじゃなかったら、一緒に来てほしいなんて思わないわ」
一瞬、空気が止まる。
言った本人も、言ってから少しだけ目を見開いていた。
マリーが先に吹き出した。
「言った!」
「アリスちゃん、いま言いました!」
「ち、ちが――違わないけど、そういう意味じゃなくて……!」
あわてるアリスの横で、しおんはほんの少しだけ目を伏せた。
その口元が、かすかにやわらぐ。
でも今ここにいるのは、うさぎではなく、みことマリーだ。
だから二人は、素直に笑った。
アリスは真っ赤になってむくれている。
しおんは何も言わない。
けれど、その沈黙はいつもより少しだけ、やさしかった。
そして掃除道具は、まだそこにある。
「……で」
マリーが、にやにやしながら言った。
「その大好きなしおんちゃんが見てる前で、トイレ掃除どうする?」
「マリーちゃん!」
「だって気になるじゃん」
「気になるのはわかります!」
「みこちゃんまで……!」
アリスはしばらくむくれていたけれど、やがてふっと息をついた。
「……やるわよ」
「おっ」
「えらいです!」
「別に、えらくはないわ」
そう言いながら、アリスは掃除道具を持つ。
まだ不満そうではある。
でも、逃げるつもりはないらしい。
しおんはその姿を見て、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、アリス様」
「お礼を言われるようなことじゃないわ」
「いえ」
しおんの声は、穏やかだった。
「とても、立派です」
「……そういうの、ずるいわ」
アリスは小さくそう言って、ほんの少しだけ照れた顔のまま、掃除へ向かっていった。
その背中を、しおんは静かに見送る。
手は出さない。
でも、ちゃんと見ている。
それが、あの日、旦那様の前で願った“帯同”の形なのだと、今なら少しだけわかる気がした。




