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ひとひらびより  作者: 追兎電鉄広報部
お嬢様も、いつもの駅で

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40/47

どうして駅で働くの?


 その日のアリスは、朝から少し機嫌が悪かった。


 きっかけは、掃除当番である。


 しかも、ただの掃除ではない。

 駅のトイレ掃除だった。


「どうして、わたしがこんなことをしなくちゃいけないの……」


 バケツを見つめながら、アリスがぽつりとこぼす。


「わたし、お嬢様なのよ」


 その言い方は偉そうというより、本気で納得していない子どものそれだった。


「なのに、どうして駅でトイレ掃除なんてしなくちゃいけないのよ……」


 その少し後ろで、みこが心配そうにアリスを見上げていた。


「アリスちゃん、だいじょうぶですか?」

「だいじょうぶじゃないわ」

「そんなにはっきり……」

「だって、だいじょうぶじゃないもの」


 アリスはほっぺたを少しふくらませる。


 マリーが横からくすっと笑った。


「でもさ、お嬢様がトイレ掃除って、たしかにすごいよね」

「でしょう?」

「珍しいものを見ている気がする」

「見世物じゃないの!」


 アリスはむっとして言い返した。


 けれど、怒りきれない。

 怒るより先に、不満のほうが大きいらしい。


 少し離れたところで、しおんは静かに掃除道具を整えていた。


 口は出さない。

 けれど、アリスの不満げな声はちゃんと聞いている。


 みこが、おそるおそる聞いた。


「でも……アリスちゃんって、どうして駅で働くことになったんですか?」


 アリスは一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ不機嫌そうなまま言う。


「お父様が、急に言い出したのよ」

「お父様が?」

「そう。“社会勉強をしてきなさい”って」


 マリーが目をぱちぱちさせた。


「へえー。いきなり?」

「いきなりよ。ほんとうに、いきなり」


 アリスは、まるで昨日のことみたいにむっとした顔をする。


「だから、最初はちゃんと断ったわ」

「断ったんだ」

「当然でしょう」


 胸を張って言う。


「だって、意味がわからないもの。どうしてわたしが、わざわざ駅で働かなくちゃいけないのかしらって」


 そのまま、アリスの視線が少しだけ遠くなる。


 みことマリーも、自然とその話を聞く顔になった。


 しおんだけが、掃除道具を整える手をほんの少しだけ止めた。





 ――数十日前。


 有栖院家の応接間は、いつも通り静かだった。


 大きな窓から差し込むやわらかな光。

 整えられた家具。

 手入れの行き届いた空気。


 その真ん中で、アリスは少しだけ不満そうな顔をして座っていた。


「どうしてですか」


 相手は有栖院家当主の旦那様、アリスの父である。


 アリスの問いに対しても、旦那様は声を荒げたりしなかった。

 ただ、静かに、はっきりとした口調で言った。


「お前には、外の世界を知る必要がある」

「外の世界なら知ってます」

「知っているつもり、だろう」


 その一言に、アリスは口をつぐむ。


 旦那様は続けた。


「お前はこの家の中では困らない。誰かが先回りして、お前のために道を整えるからだ」

「それの何が悪いの、別にいいじゃない」

「悪いとは言っていない。ただ、それだけでは足りない」


 アリスは少しだけ眉を寄せた。


「足りない?」

「そうだ」


 旦那様の声は静かだった。


「人にしてもらうことに慣れるだけではなく、自分で見て、自分で考えて、自分で動くことを覚えなさい」

「……」


「そのための社会勉強だ」


 アリスは納得していなかった。


 していない、というより、わからなかった。


 何がそんなに足りないのか。

 どうしてわざわざ、知らない場所へ行って、知らない人たちと働く必要があるのか。


「追兎天神駅で、しばらく働いてきなさい」


 その言葉に、アリスは顔を上げた。


「駅で?」

「そうだ」

「どうして駅なの」

「人の出入りがある。仕事がある。日常がある。お前にはちょうどいい」


 アリスはますます不満そうな顔になった。


「ちょうどよくないです」

「そう思うからこそ行く意味がある」


 静かに言い切られてしまう。


 アリスはしばらく言い返そうとしたけれど、うまく言葉にならなかった。


「……いやです」


 ようやく出たのは、その一言だった。


 少し子どもっぽくて、少し素直な、本音そのままの言葉。


 旦那様は、その言葉を責めなかった。


「そうか」

「いやです」

「それでも行きなさい」

「どうしてですか」

「必要だからだ」


 静かで、でも揺るがない声だった。


 アリスは、その揺るがなさが少し嫌いだった。

 でも同時に、それ以上は覆らないとわかってしまうのも悔しかった。


「……しおん」


 思わず、隣へ目を向ける。


 そこには、いつものようにしおんが立っていた。


 黒い髪。

 整った姿勢。

 静かなまなざし。


 しおんは、さっきから一言も話していない。


 けれど、アリスが名前を呼んだ瞬間だけ、その目がほんの少しやわらいだ。


「はい、アリス様」

「しおんも何か言って」

「……」


 その一瞬、しおんは珍しく言葉を選んでいた。


 そして、旦那様へ向き直る。


「旦那様」


 その声音は、普段の穏やかなそれと同じだった。

 でも、ほんの少しだけ芯が強かった。


「発言をお許しいただけますか」

「言いなさい」


 旦那様の許しを受けて、しおんは深く頭を下げた。


「アリス様を、おひとりでそのような場所へ行かせるわけにはまいりません」


 アリスが目を丸くする。


 しおんはそのまま、顔を上げた。


「帯同をお許しください」

「しおん?」


 アリスが思わず声を漏らす。


 しおんは振り返らない。

 ただ、まっすぐ旦那様を見ていた。


「アリス様は聡明なお方です。けれど、まだこの家の外のことには不慣れです」

「不慣れだからこそ、学ぶ必要がある」

「はい」


 しおんは、その言葉を否定しなかった。


「ですからこそ、なおさらです。知らない場所へ、知らない仕事へ、突然おひとりで向かわせるのは負担が大きすぎます」

「しおん……」


 アリスはさっきまでの不満も少し忘れて、しおんを見ていた。


 しおんが、こんなふうにはっきり何かを願うのを見るのは珍しかった。


「私はアリス様のおそばにいる者です」


 しおんは静かに言う。


「ご命令であれば、もちろん私は従います。けれど……」


 そこで、ほんのわずかに言葉が止まる。


 普段のしおんなら、そのまま飲み込んでしまうはずの間だった。


「アリス様をおひとりで行かせることだけは、お許しいただきたくありません」


 応接間はしんと静まっていた。


 アリスも、旦那様も、しおんの言葉の続きを待っている。


「ご迷惑をおかけしないよう、私も現場で学びます」

「しおん」

「必要以上に手を出すつもりはありません。ですが、せめて同行だけはお許しください」


 旦那様はしばらく何も言わなかった。


 やがて、静かに口を開く。


「ならん」

「……」

「それでは意味が薄れる。お前がいれば、アリスは必ずお前を頼る」

「……はい」

「お前も、必ず先回りする」


 しおんはすぐには返事をしなかった。


 その沈黙は、否定ではなく、図星に近かった。


「旦那様」


 けれど、しおんは引かなかった。


 もう一度、きちんと頭を下げる。


「承知のうえで、お願いします」

「しおん」

「おひとりでは、負担が大きすぎます」

「それも経験だ」

「それでもです」


 その言葉は強くはない。

 けれど、いつものしおんを知る者なら、はっきりわかるほどに譲らなかった。


「私がいれば、アリス様は私を頼られるでしょう。私もまた、先回りしてしまうかもしれません」

「そうだ」

「ですが――」


 しおんはそこで、一度だけ深く息を吸った。


「わたしが、アリス様と一緒にいたいのです」


 応接間の空気が、静かに止まる。


 アリスが息をのむ。


 しおんは視線を伏せなかった。


「お守りしたいから、だけではありません」

「……」

「心配だから、だけでもありません」


 その声は、強くはない。

 けれど、今まででいちばん、しおん自身の言葉だった。


「わたしが、アリス様のおそばにいたいのです」


 長い沈黙のあと。


 旦那様はゆっくりと息をついた。


「……しおん」

「はい」

「お前も大切な、わたしの娘だ」


 しおんの目が、わずかに揺れる。


 旦那様は静かに続けた。


「だからこそ、お前の願いを軽くは扱えん」


 アリスは黙ったまま、父としおんを見ていた。


 旦那様は、今度はアリスへ視線を向ける。


「アリス。お前が行くことに変わりはない」

「……はい」


 そして、しおんを見る。


「帯同を認めよう」

「……!」

「ただし、条件がある」


 しおんは背筋を正した。


「かしこまりました」

「必要以上に手を貸すな。見守れ。だが、甘やかすな」

「……はい」

「アリスもだ」


 旦那様の視線が向く。


「しおんをあてにしすぎるな。自分で学び、自分で動きなさい」

「……はい」


 少しだけ不満そうにしながらも、アリスは返事をした。


 旦那様は最後に、しおんへ静かに言った。


「アリスをよろしく頼む」


 しおんは深く頭を下げた。


「はい。必ず」


 その横で、アリスはさっきまでの不満も少しだけ忘れていた。


 “駅で働くこと”よりも、

 “しおんも一緒に来る”ことのほうが、ずっと大きかったからだ。




「――というわけよ」


 アリスの声で、現在へ戻る。


 みこはすっかり真剣な顔で聞いていた。


「そうだったんですね……」

「だから、いまでも納得してないわ」

「そこは変わってないんだ」

「変わるわけないでしょう」


 アリスはきっぱり言った。


「どう考えても、わたしがトイレ掃除をする理由はよくわからないもの」

「そこだけ聞くと全然成長してない気もするなあ」

「マリちゃん」


 みこが小さくたしなめる。


 でもアリスは、そこでは怒らなかった。


 少しだけ口をとがらせて、それから小さく言う。


「……でも」


「ん?」

「しおんが一緒に来てくれたのは、よかったわ」


 その言葉に、マリーとみこが自然としおんを見る。


 しおんはいつものように静かな顔をしていた。

 けれど、そのまつげがほんの少しだけ揺れた。


「ひとりだったら、たぶん、もっといやだったもの」


 アリスはそう言って、少しだけ視線を逸らす。


 照れているのか、素直になりきれないのか。

 たぶん、両方だ。


 みこが嬉しそうに言う。


「しおんちゃん、アリスちゃんのことが大好きなんですね」

「みこちゃん、まっすぐだなあ」

「だって、そう見えるから」

「……否定はいたしません」


 しおんが静かに答えた。


 アリスがすぐに振り向く。


「そこは否定しなさいよ」

「なぜでしょう」

「なぜって……」


 言い返そうとして、アリスは少しだけ詰まる。


 その様子を見て、マリーがにやっと笑った。


「アリスちゃんだって、しおんちゃんのこと大好きじゃん」

「ち、違うわよ」

「違わないです!」

「みこちゃんまで!」


 アリスは頬を少しだけ赤くした。


 でも、そのあとで小さく呟く。


「……好きじゃなかったら、一緒に来てほしいなんて思わないわ」


 一瞬、空気が止まる。


 言った本人も、言ってから少しだけ目を見開いていた。


 マリーが先に吹き出した。


「言った!」

「アリスちゃん、いま言いました!」

「ち、ちが――違わないけど、そういう意味じゃなくて……!」


 あわてるアリスの横で、しおんはほんの少しだけ目を伏せた。


 その口元が、かすかにやわらぐ。


 でも今ここにいるのは、うさぎではなく、みことマリーだ。


 だから二人は、素直に笑った。


 アリスは真っ赤になってむくれている。

 しおんは何も言わない。

 けれど、その沈黙はいつもより少しだけ、やさしかった。


 そして掃除道具は、まだそこにある。


「……で」


 マリーが、にやにやしながら言った。


「その大好きなしおんちゃんが見てる前で、トイレ掃除どうする?」

「マリーちゃん!」

「だって気になるじゃん」

「気になるのはわかります!」

「みこちゃんまで……!」


 アリスはしばらくむくれていたけれど、やがてふっと息をついた。


「……やるわよ」

「おっ」

「えらいです!」

「別に、えらくはないわ」


 そう言いながら、アリスは掃除道具を持つ。


 まだ不満そうではある。

 でも、逃げるつもりはないらしい。


 しおんはその姿を見て、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます、アリス様」

「お礼を言われるようなことじゃないわ」

「いえ」


 しおんの声は、穏やかだった。


「とても、立派です」

「……そういうの、ずるいわ」


 アリスは小さくそう言って、ほんの少しだけ照れた顔のまま、掃除へ向かっていった。


 その背中を、しおんは静かに見送る。


 手は出さない。

 でも、ちゃんと見ている。


 それが、あの日、旦那様の前で願った“帯同”の形なのだと、今なら少しだけわかる気がした。

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