ごきげんようでは、だめですか?
翌朝の追兎天神駅。
朝の光が改札の床をやわらかく照らし、ホームを渡る風が制服の裾を揺らしていた。
今日から仕事をするのだと決めているせいか、アリスは朝からどこか張り切っていた。
昨日までのようなつんとした感じよりも、今日は少しだけ前のめりだ。
「今日から仕事をするわ。うさぎちゃん、何をしたらいいの?」
うさぎは思わず目を瞬かせた。
「……アリスちゃん、昨日とちょっと違うけど、なにかあったの?」
「しおんに注意されたの」
アリスは少しだけ口をとがらせる。
「『ここはお屋敷じゃないから、いろんな人に教えてもらいなさい』って」
「へえ……」
マリーが小さく目を丸くした。
「そうなの。しおんちゃんの言うことは聞くのね」
うさぎがそう言うと、アリスはすぐに答える。
「しおんはスゴイのよ、何でも知っているし、何でも出来るお姉ちゃんだから」
少し離れた場所に立っていたしおんは、その言葉にほんのわずかだけ目を細めた。
でも、何も言わない。
うさぎはその顔を見て、なんとなく納得する。
なるほど。
しおんちゃんはメイドだけど、アリスちゃんにとってはそれだけじゃないんだ。
「じゃあ、まずは朝の挨拶からしてみようか」
「挨拶?」
「うん。朝はみんな、気持ちよく挨拶するものよ」
するとアリスは、きょとんとした顔になった。
「……わたし、挨拶なんてしたことないわ」
「えっ」
みこが目を丸くする。
「したことないんですか?」
「お屋敷では、使用人やメイドがしてくるもの。わたしから先に言うことなんて、なかったし」
悪気なく、ただ当たり前みたいにそう言う。
マリーが「あー……」とうなずいた。
「なるほど。そういう感じなんだ」
「そういう感じよ」
アリスは小さく咳払いをする。
「でも、挨拶くらい知ってるわ」
「ほんと?」
「もちろんよ」
うさぎがうながす。
「じゃあ、してみて」
アリスは背筋を伸ばして、少しだけ得意そうな顔をした。
「――ごきげんよう」
一瞬、間があく。
みこが、ぱっと顔を明るくした。
「きれいです……!」
「すごく優雅な挨拶ね」
うさぎがそう言うと、アリスはちょっとだけうれしそうにした。
「でしょ!」
ほんの少しだけのドヤ顔だった。
でも、うさぎはやさしく続ける。
「でもね、お屋敷でのことはいったん置いておいて」
「え?」
「駅では、もっとふつうの朝の挨拶をするの」
アリスはすぐに聞き返した。
「じゃあ、どう挨拶するの?」
「“おはようございます”ってするのよ」
「おはようございます」
「そう、それよ」
うさぎがうなずくと、アリスは少しだけ目を丸くした。
「……これでよかったの?」
「うん。追兎天神駅では、こっちのほうが自然かな」
「ふうん……」
アリスは少し考え込む。
みこがにこにこしながら言った。
「じゃあまず、うさ姉さまに言ってみましょう!」
「なんでわたしからなのよ」
「いちばん安心だからです!」
「それは……まあ、そうかもしれないけど」
アリスはうさぎの前に立つ。
少しだけ緊張した顔をして、口を開く。
「……おはようございます」
「おはようございます、アリスちゃん」
うさぎがすぐに返すと、アリスは小さくまばたきした。
「……返してくれるのね」
「挨拶ってそういうものでしょ」
アリスは少しだけ不思議そうにして、それからこくんとうなずく。
次はマリーが片手を上げた。
「はい、次はアタシ!」
「順番なの?」
「順番です!」
みこが元気よく言う。
アリスはマリーの前に立つ。
さっきより、少しだけ迷いが少ない。
「おはようございます」
「おはようございます、アリスちゃん!」
マリーはいつもより明るく返した。
アリスがちょっとだけ肩を揺らす。
「……なによ、その言い方」
「朝っぽいかなって」
「朝っぽいって何よ」
「なんか元気でいいじゃん」
アリスは少し考えてから、小さく言う。
「……まあ、悪くないわ」
「採点された」
「いいじゃん、合格っぽいし」
そのやり取りに、みこが待ちきれないように前へ出た。
「みこも! みこもお願いします!」
アリスは今度はみこの前に立つ。
さっきより、少しだけ口元がやわらかい。
「おはようございます」
「おはようございます!」
みこはぴょこんと頭を下げてから、ぱっと顔を上げた。
「すごいです、アリスちゃん! さっきより、もっとよくなりました!」
「そう?」
「はい! ぽかぽかしました!」
「またそれ……」
マリーが笑う。
でも、アリスはちょっとだけうれしそうだった。
その時、奥から駅長が姿を見せた。
「おはようございます。 みんな揃ってるね。」
穏やかな声に、アリスの背中がぴんと伸びる。
うさぎが小声で言った。
「最後、駅長さんにしてみる?」
「さ、最後って何よ」
「練習のまとめ」
「……そういうことなら」
アリスは少しだけしおんのほうを見る。
しおんはいつものように少し離れた場所に立っていた。
でも今度は、ただ見ているだけじゃなかった。
アリスが目で助けを求めると、しおんはほんの少しだけやわらかい声で言う。
「大丈夫です、アリス様。今まで通りで」
たったそれだけ。
言葉を教えるわけでも、代わりにやるわけでもない。
でも、その一言でアリスの肩から少し力が抜けた。
「……うん」
アリスは前を向く。
そして駅長に向かって、自分から言った。
「おはようございます」
駅長はやさしく目を細めた。
「おはようございます、アリスさん。とてもいい朝の挨拶ですね」
その一言に、アリスは少しだけ目を丸くする。
「……そうかしら」
「ええ。ちゃんと届きましたよ」
駅長はにこりと笑った。
みこがこっそり拍手する。
「できました……!」
「ほんとだねえ」
「最初の“ごきげんよう”から、ちゃんと進歩したじゃない」
うさぎがそう言うと、アリスは少しだけ頬をふくらませた。
「ごきげんようだって、別に悪くないでしょう?」
「悪くはないわよ」
「じゃあいいじゃない」
「でも、場所が違うの」
「……難しいのね」
アリスは小さくぶつぶつ言いながらも、前ほど不満そうではなかった。
それから、ふとしおんのほうを見る。
「しおん。さっきの、変じゃなかった?」
しおんは少しだけ微笑んだ。
「はい。とても自然でした」
「……そう」
そのたった一言で、アリスの表情が少しだけほころぶ。
うさぎはそれを見て思う。
しおんちゃんは先回りして助けたりしない。
でも、アリスちゃんがちゃんと手を伸ばした時には、必要な分だけ支える。
その距離が、きっとこの二人なんだろう。
「じゃあ、今日は“おはようございます”でいくわ」
アリスがそう言うと、うさぎはうなずいた。
「うん。そのほうがいいと思う」
「でも、ごきげんようを使う機会も、いつかあるかもしれないじゃない」
「そこは諦めないんだ」
「当然……じゃなくて」
アリスは少し考えてから言い直した。
「ちゃんと似合う時に使うの」
マリーが吹き出す。
「なにそれ、かわいい」
「かわいくないわ」
「アリスちゃんらしいです!」
しおんが静かに一礼した。
「その際は、どうぞご自由に」
「しおんは止めないの?」
「自分で考えて選ばれるのでしたら、止める理由はありません」
「……ふうん」
その返事が、アリスには少しだけ嬉しかったらしい。
うさぎが言う。
「でも、困ったら聞けばいいでしょ。今日みたいに」
「……いいの?」
「いいわよ」
「みこもいるよ!」
「わたしもいるよー」
「マリーちゃんは、たまに信用できないけど」
「みーちゃん、ちょっと! なんで!?」
思わず、アリスが笑った。
本当に自然にこぼれた笑いだった。
朝の追兎天神駅に、いつもの空気がゆっくり流れていく。
その中でアリスは、小さく息を吸った。
そして今度は、誰かに言われたからではなく、自分で確かめるみたいに口を開く。
「……おはようございます」
その声を、少し離れたところでしおんが聞いていた。
しおんは何も言わない。
でも、その目はやわらかかった。
追兎天神駅の朝に、小さなお嬢様の新しい挨拶が、ひとつ増えた。




