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ひとひらびより  作者: 追兎電鉄広報部
お嬢様も、いつもの駅で

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35/46

ごきげんようでは、だめですか?

挿絵(By みてみん)



 翌朝の追兎天神駅。


 朝の光が改札の床をやわらかく照らし、ホームを渡る風が制服の裾を揺らしていた。


 今日から仕事をするのだと決めているせいか、アリスは朝からどこか張り切っていた。

 昨日までのようなつんとした感じよりも、今日は少しだけ前のめりだ。


「今日から仕事をするわ。うさぎちゃん、何をしたらいいの?」


 うさぎは思わず目を瞬かせた。


「……アリスちゃん、昨日とちょっと違うけど、なにかあったの?」


「しおんに注意されたの」


 アリスは少しだけ口をとがらせる。


「『ここはお屋敷じゃないから、いろんな人に教えてもらいなさい』って」


「へえ……」


 マリーが小さく目を丸くした。


「そうなの。しおんちゃんの言うことは聞くのね」


 うさぎがそう言うと、アリスはすぐに答える。


「しおんはスゴイのよ、何でも知っているし、何でも出来るお姉ちゃんだから」


 少し離れた場所に立っていたしおんは、その言葉にほんのわずかだけ目を細めた。

 でも、何も言わない。

 うさぎはその顔を見て、なんとなく納得する。


 なるほど。

 しおんちゃんはメイドだけど、アリスちゃんにとってはそれだけじゃないんだ。


「じゃあ、まずは朝の挨拶からしてみようか」


「挨拶?」


「うん。朝はみんな、気持ちよく挨拶するものよ」


 するとアリスは、きょとんとした顔になった。


「……わたし、挨拶なんてしたことないわ」


「えっ」


 みこが目を丸くする。


「したことないんですか?」


「お屋敷では、使用人やメイドがしてくるもの。わたしから先に言うことなんて、なかったし」


 悪気なく、ただ当たり前みたいにそう言う。


 マリーが「あー……」とうなずいた。


「なるほど。そういう感じなんだ」


「そういう感じよ」


 アリスは小さく咳払いをする。


「でも、挨拶くらい知ってるわ」


「ほんと?」


「もちろんよ」


 うさぎがうながす。


「じゃあ、してみて」


 アリスは背筋を伸ばして、少しだけ得意そうな顔をした。


「――ごきげんよう」


 一瞬、間があく。


 みこが、ぱっと顔を明るくした。


「きれいです……!」


「すごく優雅な挨拶ね」


 うさぎがそう言うと、アリスはちょっとだけうれしそうにした。


「でしょ!」


 ほんの少しだけのドヤ顔だった。


 でも、うさぎはやさしく続ける。


「でもね、お屋敷でのことはいったん置いておいて」


「え?」


「駅では、もっとふつうの朝の挨拶をするの」


 アリスはすぐに聞き返した。


「じゃあ、どう挨拶するの?」


「“おはようございます”ってするのよ」


「おはようございます」


「そう、それよ」


 うさぎがうなずくと、アリスは少しだけ目を丸くした。


「……これでよかったの?」


「うん。追兎天神駅では、こっちのほうが自然かな」


「ふうん……」


 アリスは少し考え込む。


 みこがにこにこしながら言った。


「じゃあまず、うさ姉さまに言ってみましょう!」


「なんでわたしからなのよ」


「いちばん安心だからです!」


「それは……まあ、そうかもしれないけど」


 アリスはうさぎの前に立つ。


 少しだけ緊張した顔をして、口を開く。


「……おはようございます」


「おはようございます、アリスちゃん」


 うさぎがすぐに返すと、アリスは小さくまばたきした。


「……返してくれるのね」


「挨拶ってそういうものでしょ」


 アリスは少しだけ不思議そうにして、それからこくんとうなずく。


 次はマリーが片手を上げた。


「はい、次はアタシ!」


「順番なの?」


「順番です!」


 みこが元気よく言う。


 アリスはマリーの前に立つ。


 さっきより、少しだけ迷いが少ない。


「おはようございます」


「おはようございます、アリスちゃん!」


 マリーはいつもより明るく返した。


 アリスがちょっとだけ肩を揺らす。


「……なによ、その言い方」


「朝っぽいかなって」


「朝っぽいって何よ」


「なんか元気でいいじゃん」


 アリスは少し考えてから、小さく言う。


「……まあ、悪くないわ」


「採点された」


「いいじゃん、合格っぽいし」


 そのやり取りに、みこが待ちきれないように前へ出た。


「みこも! みこもお願いします!」


 アリスは今度はみこの前に立つ。


 さっきより、少しだけ口元がやわらかい。


「おはようございます」


「おはようございます!」


 みこはぴょこんと頭を下げてから、ぱっと顔を上げた。


「すごいです、アリスちゃん! さっきより、もっとよくなりました!」


「そう?」


「はい! ぽかぽかしました!」


「またそれ……」


 マリーが笑う。


 でも、アリスはちょっとだけうれしそうだった。


 その時、奥から駅長が姿を見せた。


「おはようございます。 みんな揃ってるね。」


 穏やかな声に、アリスの背中がぴんと伸びる。


 うさぎが小声で言った。


「最後、駅長さんにしてみる?」


「さ、最後って何よ」


「練習のまとめ」


「……そういうことなら」


 アリスは少しだけしおんのほうを見る。

 しおんはいつものように少し離れた場所に立っていた。

 でも今度は、ただ見ているだけじゃなかった。

 アリスが目で助けを求めると、しおんはほんの少しだけやわらかい声で言う。


「大丈夫です、アリス様。今まで通りで」


 たったそれだけ。

 言葉を教えるわけでも、代わりにやるわけでもない。

 でも、その一言でアリスの肩から少し力が抜けた。


「……うん」


 アリスは前を向く。


 そして駅長に向かって、自分から言った。


「おはようございます」


 駅長はやさしく目を細めた。


「おはようございます、アリスさん。とてもいい朝の挨拶ですね」


 その一言に、アリスは少しだけ目を丸くする。


「……そうかしら」


「ええ。ちゃんと届きましたよ」


 駅長はにこりと笑った。


 みこがこっそり拍手する。


「できました……!」


「ほんとだねえ」


「最初の“ごきげんよう”から、ちゃんと進歩したじゃない」


 うさぎがそう言うと、アリスは少しだけ頬をふくらませた。


「ごきげんようだって、別に悪くないでしょう?」


「悪くはないわよ」


「じゃあいいじゃない」


「でも、場所が違うの」


「……難しいのね」


 アリスは小さくぶつぶつ言いながらも、前ほど不満そうではなかった。

 それから、ふとしおんのほうを見る。


「しおん。さっきの、変じゃなかった?」


 しおんは少しだけ微笑んだ。


「はい。とても自然でした」


「……そう」


 そのたった一言で、アリスの表情が少しだけほころぶ。


 うさぎはそれを見て思う。

 しおんちゃんは先回りして助けたりしない。

 でも、アリスちゃんがちゃんと手を伸ばした時には、必要な分だけ支える。

 その距離が、きっとこの二人なんだろう。


「じゃあ、今日は“おはようございます”でいくわ」


 アリスがそう言うと、うさぎはうなずいた。


「うん。そのほうがいいと思う」


「でも、ごきげんようを使う機会も、いつかあるかもしれないじゃない」


「そこは諦めないんだ」


「当然……じゃなくて」


 アリスは少し考えてから言い直した。


「ちゃんと似合う時に使うの」


 マリーが吹き出す。


「なにそれ、かわいい」


「かわいくないわ」


「アリスちゃんらしいです!」


 しおんが静かに一礼した。


「その際は、どうぞご自由に」


「しおんは止めないの?」


「自分で考えて選ばれるのでしたら、止める理由はありません」


「……ふうん」


 その返事が、アリスには少しだけ嬉しかったらしい。


 うさぎが言う。


「でも、困ったら聞けばいいでしょ。今日みたいに」


「……いいの?」


「いいわよ」


「みこもいるよ!」


「わたしもいるよー」


「マリーちゃんは、たまに信用できないけど」


「みーちゃん、ちょっと! なんで!?」


 思わず、アリスが笑った。


 本当に自然にこぼれた笑いだった。


 朝の追兎天神駅に、いつもの空気がゆっくり流れていく。


 その中でアリスは、小さく息を吸った。


 そして今度は、誰かに言われたからではなく、自分で確かめるみたいに口を開く。


「……おはようございます」


 その声を、少し離れたところでしおんが聞いていた。

 しおんは何も言わない。

 でも、その目はやわらかかった。


 追兎天神駅の朝に、小さなお嬢様の新しい挨拶が、ひとつ増えた。

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