お嬢様が来た
朝の追兎天神駅は、いつも通りだった。
改札を抜ける足音。
発車メロディ。
ホームを渡るやわらかな風。
電車が来て、またひとつ日常が動き出していく。
「今日も平和だねー」
マリーが、うーんと背伸びをした。
「平和がいちばんです」
みこが、こくこくとうなずく。
その隣で、うさぎは点検表を閉じながら、小さくため息をついた。
「平和なのはいいけど、ちゃんと確認はしてよね。昨日、みこちゃん去年の時刻表を持ってたでしょ」
「えっ」
みこが目を丸くする。
「気づいてなかったの?」
「うさ姉さまが交換してくれたもん!」
「交換したけど、そういう問題じゃないの」
「えへへ……」
「えへへじゃないわよ」
うさぎがじとっと見つめると、みこはてへっと笑ってごまかした。
マリーがくすっと笑う。
「でもさー、うさちゃんってほんとよく見てるよね」
「見てないと心配なの」
「やっぱりお姉ちゃんだ」
「違うわよ」
「えー、もう半分くらいお姉ちゃんでしょ」
「半分ってなによ」
「みこちゃん専用うさ姉さま成分」
「そんな成分ないから」
みこがぱっと顔を上げる。
「あります!」
「本人が言うの!?」
朝からいつも通りの調子だった。
駅員制服の裾を風が揺らし、ホームの先にはやわらかな光が差している。
何か特別なことが起こる気配なんて、どこにもない。
少なくとも、その瞬間までは。
「……うさちゃん」
ふいに、マリーの声の調子が変わった。
「なに?」
「なんか、すごいの来た」
「すごいのって何よ」
「すごいのはすごいの」
「説明になってないんだけど」
「ほら、あれ」
うさぎが顔を上げる。
みこも、つられてそちらを見た。
駅の入口から、二人の少女が歩いてくる。
ひとりは、小柄な金髪の少女。
朝の光を受けてきらきら揺れる髪は、それだけで目を引いた。
背筋をぴんと伸ばし、少し不機嫌そうな顔で歩いている。
でも、その不機嫌ささえ、妙に絵になっていた。
もうひとりは、その半歩後ろを歩く黒髪の少女。
長い黒髪。
静かな足取り。
乱れのない姿勢。
落ち着いていて、所作がきれいで、見ただけで「ただ者じゃない」とわかる。
そして――
「……ネコミミ?」
みこが、小さな声でつぶやいた。
「え?」
うさぎが目を細める。
「ほんとだ……ネコミミだ」
黒髪の少女の頭には、堂々とネコミミカチューシャがついていた。
しかも、駅員制服の上に白いメイドエプロン。
情報量が多すぎる。
マリーがうさぎの袖を引っ張る。
「うさちゃん、あれ何?」
「わたしに聞かないで」
「でもうさちゃん、こういう時いちばん冷静そうだし」
「冷静でも知らないものは知らないわよ」
「みこ、夢かと思いました」
「夢でネコミミメイド駅員はなかなか見ないでしょ」
「そうでしょうか……?」
「そうよ」
二人はそのまま、うさぎたちの前まで歩いてきた。
近づくにつれて、空気が少し変わる。
金髪の少女は、ただ立っているだけで目を引く。
小さいのに、不思議と“主役”みたいな存在感があった。
黒髪の少女は、そんな彼女を自然に立てるように半歩後ろにいる。
けれど、何かあればすぐ前に出られる距離でもある。
うさぎは、そこが少し気になった。
ただの付き添いにしては、距離の取り方ができすぎている。
まず、黒髪の少女が深く一礼した。
「本日よりお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
きれいだった。
頭を下げる角度も、声の落ち着きも、言葉の選び方も、全部が整っている。
ネコミミがなければ、完璧だった。
いや、ネコミミがあるから逆に忘れられないのかもしれない。
その隣で、金髪の少女がすっと背筋を伸ばす。
小さな顎を少し上げ、いかにも「見られることに慣れています」と言いたげな立ち方。
なのに――
うさぎは、そこで小さな違和感に気づいた。
金髪の少女の手が、黒髪の少女の制服の裾を、ほんの少しだけつまんでいた。
ぎゅっとではない。
でも、確かに掴んでいる。
本人は気づいていないのかもしれない。
気づいていても、離せないのかもしれない。
うさぎは何も言わなかった。
言わないほうがいい気がした。
金髪の少女が口を開く。
「わたしは――」
一瞬、間があく。
その瞬間だけ、指先に少し力が入る。
でも、次の瞬間には、もう堂々としていた。
「アリシエル・ルヴィエール・フェルミナ・エステリア・フォン=リュクレシア・ディ・グランメゾンです」
沈黙。
遠くで駅のアナウンスが流れている。
ホームの向こうでドアの閉まる音がした。
でも、うさぎたちの周りだけ、時間が止まったみたいだった。
マリーが、ぱちぱちと瞬きをする。
「……ごめん、もう一回いい?」
「言いません」
即答だった。
「早っ」
「覚える必要はありません」
「そういう問題?」
「そういう問題です」
「でも長かったよ!?」
「長いのが正式名称です」
「正式名称ってそういうものかなあ!?」
アリスはつんと顎を上げた。
「あなたたちには、特別に“アリス”と呼ぶことを許します」
「許された」
「許されたね、うさ姉さま……!」
「なにそのちょっと嬉しそうな反応」
みこがきらきらした目でアリスを見る。
「お嬢さま……!」
「お嬢様じゃないわ。アリスよ」
「わあ……アリスちゃん……!」
その時、うさぎはごく自然に言った。
「アリスちゃん、よろしくね」
一瞬。
アリスの表情が止まった。
「……ちゃん?」
「だめだった?」
「だ、だめではないけれど……」
アリスは言いよどみ、それから少しだけ顔をそむけた。
「別に……その……呼び方に文句があるわけではないわ」
「じゃあいいじゃん」
「よくはないの。よくないわけでもないけれど、そう簡単に認めたみたいになるのは違うというか……」
「めんどくさいタイプだー」
「めんどくさくないわ!」
マリーが吹き出す。
みこも嬉しそうに、何度も繰り返した。
「アリスちゃん……アリスちゃん……」
「そんなに連呼しなくても聞こえているわ」
「かわいいお名前です!」
「そ、そう……」
アリスはちょっとだけ言葉に詰まった。
その反応を見て、うさぎは心の中で少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
なんだ。
見た目はすごくお嬢様だけど、ちゃんと年相応の子じゃない。
マリーが、にやっと笑った。
「そっちの子、ネコミミ似合ってるよ!」
ぴくっと、黒髪の少女の肩がわずかに揺れた。
「これは――」
少女が言いかけて、ほんの一瞬だけ言葉を止める。
その隣で、アリスが先に口を開いた。
「わたしが付けさせたのよ」
「やっぱりアリスちゃんがやったんだ」
「だって、そのほうがかわいいでしょう?」
「理由がまっすぐすぎる」
「よいことです」
しれっと言ったのは、黒髪の少女だった。
マリーが目を丸くする。
「えっ、そこ認めるの?」
「認めてはいません。ですが、アリス様のお考えは理解できます」
「理解できるんだ……」
みこが、おそるおそる黒髪の少女を見る。
「あの……イヤじゃなかったんですか?」
黒髪の少女は、一拍だけ置いて答えた。
「……ご想像にお任せします」
「それ、ほぼ答え言ってるよね」
「マリーちゃん」
「だって絶対ちょっとイヤだったでしょ」
「職務に支障はありません」
「そこだけ強いなあ」
そこでアリスが、ふんと鼻を鳴らした。
「かわいいからよ」
「え?」
うさぎが聞き返す。
「付けたほうが、絶対にかわいいと思ったから。以上」
言い切ったあと、アリスはつんとそっぽを向いた。
でも耳が、ほんの少し赤い。
マリーがにやにやする。
「へえー?」
「なによ」
「いやー? その子のこと、すっごく好きなんだなーって」
「そ、そんな言い方しないでちょうだい!」
「してほしくない言い方ほど当たってるんだよねえ」
「違うわ!」
「違わないんですか?」
みこが無垢な顔で首をかしげる。
「みこちゃん、そこは聞かなくていいの」
「うさ姉さま、むずかしいです」
「世の中には聞かないほうがいいこともあるの」
「今のは聞かれて困ることではありません」
黒髪の少女が静かに言う。
「えっ、そうなの?」
マリーが目を丸くすると、少女は平然と続けた。
「アリス様が私を大切に思ってくださっていることは事実ですので」
「しおん!?」
今度はアリスが真っ赤になった。
「な、なにを勝手に……!」
「事実を申し上げただけです」
「そういう言い方があるでしょう!」
「申し訳ありません。では、訂正いたします」
「できるの?」
「アリス様は非常にわかりやすく私を大切に思ってくださっています」
「訂正になってない!」
マリーが声を上げて笑った。
みこもつられて笑う。
うさぎも、つい口元がゆるんでしまう。
さっきまで少しだけ張っていた空気が、そこでふっとやわらいだ。
「それで?」
うさぎが、やわらかく問いかける。
「あなたの名前は?」
黒髪の少女は、改めて一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「黒江しおんと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「しおんちゃん、っていうんですね!」
みこがぱっと顔を明るくする。
「よろしくお願いします、しおんちゃん!」
「ありがとうございます」
しおんは静かに微笑んだ。
そのやり取りの最中でも、うさぎは気づいていた。
アリスはまだ、しおんの裾にそっと指先をかけたままだ。
けれど、最初のような強さはもうない。
この駅の空気に、少しずつ慣れようとしている。
たぶん、しおんが隣にいるから。
「うさ姉さま」
みこが小声でうさぎの袖を引く。
「なに?」
「仲間、ですよね?」
「……まだ自己紹介しただけでしょ」
「でも、もうそんな感じします」
「それは……そうかもしれないけど」
そう言いながらも、うさぎの声はやわらかかった。
この子は、たぶん見た目ほど強くない。
でも、強く見せようとしている。
それがなんとなく伝わってくるから、少し放っておけない。
マリーが一歩前に出る。
「じゃあさ、今日から一緒だね!」
「……一緒?」
アリスが、その言葉をゆっくり繰り返した。
「そう。一緒に働くんでしょ?」
「なかまです!」
みこが元気よく言う。
「仲間……」
その言葉は、アリスの中ではまだ少しだけ馴染みが薄そうだった。
でも、拒むような顔ではなかった。
「みこ、鈴音みこです! よろしくお願いします、アリスちゃん! しおんちゃん!」
「咲宮マリー! よろしくね、アリスちゃん、しおんちゃん!」
「追川うさぎです。」
三人が順番に名乗る。
アリスは、その名前をひとつずつ聞いていた。
そして聞くたびに、裾を掴んでいた指先の力が少しずつ抜けていく。
しおんもそれに気づいているはずなのに、何も言わない。
ただ、静かにそこにいた。
「こちらこそよろしく、しおんちゃん」
うさぎがそう言うと、しおんはほんのわずかに目を見開いた。
本当に一瞬だけ。
でもすぐに、静かな微笑みに戻る。
「ありがとうございます」
その表情を見て、うさぎは思った。
この子は、ただ礼儀正しいだけじゃない。
たぶん、自分で望んでここに来ている。
そうでなければ、この立ち方にはならない。
駅の風が、やさしく吹き抜ける。
発車ベルが鳴る。
誰かの足音が通り過ぎる。
いつもの追兎天神駅の朝が、また少しずつ動き出していく。
でも、うさぎにはわかった。
今日の“いつも通り”は、昨日までのそれとは少し違う。
金色の髪をした、小さなお嬢様。
その隣に立つ、ネコミミの黒髪メイド。
にぎやかになる予感しかしない。
平和なままで済む気は、あまりしなかった。
けれど、不思議と嫌ではない。
「……なんか、すごい朝になったわね」
うさぎが小さくつぶやくと、マリーが満面の笑みで言った。
「でしょ? 絶対おもしろくなるよ!」
「おもしろく、で済めばいいけど……」
「みこ、たのしみです!」
「あなたはもう少し緊張しなさいよ」
「えへへ」
「またそれ」
そんなやり取りを聞きながら、アリスはそっと目を瞬かせた。
まだ知らない駅。
まだ知らない人たち。
でも、胸の奥にあった硬さが、ほんの少しだけほどけている。
「……べつに、楽しみにしているわけではないけれど」
小さな声で、誰に聞かせるでもなく言う。
「はい、お嬢様」
しおんが自然に返す。
「お嬢様じゃないわ。ここでは、アリスよ」
「……承知しました、アリス様」
即座に返した声に、マリーが笑い出した。
みこもつられて笑う。
うさぎも、つい肩の力を抜く。
その笑い声が、朝の駅にふわりと広がった。
新しい風が、追兎天神駅に吹いている。
きっとこの子は、これからいろんなものを持ち込むのだろう。
戸惑いも。
騒がしさも。
思いがけない出来事も。
そしてきっと――
小さな変化も。
そうして、追兎天神駅の新しい朝が始まった。




