駅に残る歌声
ミニライブが終わったあとの追兎天神駅は、少しだけ不思議な静けさに包まれていた。
人の流れは、もういつも通りに戻っている。
改札を抜ける人。
ホームへ向かう人。
売店の前で立ち止まる人。
どれも見慣れた光景のはずなのに、
さっきまでここで歌が響いていたせいか、
駅の空気そのものが少しだけやわらかく見えた。
赤い布をかけた簡易ステージは、もう片づけられている。
床も、ロビーも、元の通りだ。
けれど、あの場所に三人が立っていたことだけは、まだ駅のどこかに残っている気がした。
終電前の少し落ち着いた時間。
駅事務室の奥で、駅長は記録簿を開いていた。
その向かいで、若い駅員がペンを走らせている。
書類をまとめる音。
時計の針が進む音。
ときどき聞こえるホームからのアナウンス。
その全部が、夜の駅らしい静けさを作っていた。
駅員がふと、書類から顔を上げる。
「まさか駅でライブをするなんて」
その一言に、駅長は小さく笑った。
「私も、最初に聞いた時は少し驚いたよ」
「少しどころじゃないですよ」
駅員が苦笑する。
「聞き間違いかと思いました」
駅長はペンを置いて、ゆっくり息をついた。
「たしかにね」
その時のことを思い出す。
三人が、真面目な顔で“駅でライブをしたいんです”と言ってきた時、正直なところ、どこまで本気なのか一瞬わからなかった。
でも、あの子たちの目はちゃんと本気だった。
遊び半分ではなく
ただ思いつきでもなく
ちゃんと“自分たちの場所で歌いたい”と思っていた目だった。
だから、無下にはできなかった。
駅員が笑いながら続ける。
「でも、楽しそうでしたね」
駅長はその言葉に、少しだけ目を細める。
「……そうだね」
楽しかった。
それは、たぶん見ていた大人たちの側も同じだった。
最初はどうなることかと思った。
手作りのステージ。
本当に立ち止まってくれる人がいるのかという不安。
でも、三人が歌い始めると、少しずつ空気が変わっていった。
足を止める人が出てきて
拍手が起きて
「もう一曲」と声まで飛んだ。
駅のロビーが、ほんの少しだけ別の場所になったみたいだった。
駅員が、にやっと笑う。
「見ていた駅長も楽しそうでしたよ」
駅長が顔を上げる。
「そうだったかい?」
「そうでしたよ」
駅員は迷わず頷いた。
「ずっと真面目な顔してましたけど、目がやさしかったです」
「それはたぶん、気のせいだね」
「そういうことにしておきます」
駅員の返事に、駅長は苦笑した。
けれど、完全には否定できなかった。
あの三人が並んでいるのを見るのは、たしかに悪くなかった。
いや、むしろ―― ずいぶんよかった。
しっかり者のうさぎ。
明るく引っぱるマリー。
まっすぐついていくみこ。
三人でいると、妙にちゃんと形になる。
まだ危なっかしいところもある。
でも、その危なっかしさごと応援したくなるような、不思議な組み合わせだった。
「駅が、少しだけ広く見えました」
駅員がぽつりと言った。
駅長が視線を向ける。
「広く?」
「はい」
駅員は少し考えるようにしてから続けた。
「いつものロビーなのに、今日だけは別の場所みたいで」
その言葉に、駅長は静かに頷いた。
たしかにそうだった。
特別な会場じゃない。
派手な照明もない。
でも、あの子たちはちゃんとそこを舞台にしていた。
駅で働いていると、ロビーもホームも“日常の場所”になってしまう。
けれど今日だけは違った。
駅の中に、あの子たちの歌うための空間が、ちゃんと生まれていた。
「三人とも、いい顔をしていましたね」
駅員のその言葉に、駅長の表情も少しやわらかくなる。
「ええ」
それは本音だった。
結果がどうだったかより、今日のあの顔の方がずっと大事な気がした。
ちゃんとやりきって、
ちゃんと届いて、
ちゃんと嬉しそうだった。
そのことが、見ているこちらにも伝わってきた。
しばらく、二人は静かに記録簿へ目を戻した。
ペン先の音だけが、夜の事務室に小さく響く。
やがて、駅員がふと思い出したように言う。
「そういえば」
駅長が顔を上げる。
「明日から、お嬢様が来るんですよね」
「ああ」
駅長は短く答える。
「古くからの友人の頼みだからね。断れなかったよ」
「どんな子なんでしょうね」
駅員が少し楽しそうに聞く。
駅長は椅子に座ったまま、ほんの少しだけ遠い目をした。
「世間知らずだから、いろいろ教えてやってほしいと言われているよ」
その言い方には、困っているような、でも少し面白がっているような響きが混ざっていた。
駅員がくすっと笑う。
「それはまた、大変そうですね」
「大変だろうね」
駅長も苦笑する。
「でも」
駅員が記録簿を閉じながら言った。
「ますます賑やかになりそうで、私は楽しみです」
その言葉に、駅長は窓の外へ目をやった。
夜の追兎天神駅。
今は静かだ。
けれど、その静けさは、次のにぎやかさを待っているみたいでもあった。
うさぎと、マリーと、みこ。
そこへ新しく加わる“お嬢様”。
どんな毎日になるのかは、まだわからない。
でも、きっとまた、この駅らしい騒がしさとやさしさが増えるのだろう。
駅長は小さく笑った。
「……そうだね」
やわらかな夜の駅に、まだ少しだけ歌の余韻が残っている気がした。
そしてその余韻の先には、新しい出会いが、静かに近づいていた。




