制服と、まだ知らない出会い
昼下がりの教室に、新しい布の匂いがふわりと広がっていた。
窓の外では、やわらかな春の光が校庭を照らしている。
部活動の声が遠くから聞こえてきて、放課後らしい少し気の抜けた空気が教室に流れていた。
そんな中で、うさぎの机の上だけが、少し特別な場所みたいになっていた。
そこに置かれているのは、紺色の制服。
地域貢献科――通称、鉄道コース専用の駅員制服だった。
「……これが」
うさぎはそっと両手を伸ばし、制服を持ち上げる。
思っていたよりもずっとしっかりした生地。
ぴしっと整えられた襟元。
まだ新品らしい硬さの残る布から、ほんのりと新しい匂いがする。
制服、という言葉自体は珍しくない。
今だって学校の制服を着ている。
でも、これは少し違った。
勉強のための制服ではなく、“役目”を持つための制服。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
「うさちゃん、似合いそうじゃん!」
横からひょいっと顔を出してきたのは、もちろんマリーだ。
自分の制服も受け取っているはずなのに、そちらより先にうさぎの反応を見るあたりが、いかにもマリーらしい。
「ほらほら、早く着てみなよ!」
「えっ、いきなり?」
「いきなりじゃないよー。せっかく今日渡されたんだから、着るでしょ普通」
「普通っていうか……」
うさぎは少しだけ困ったように制服を見下ろす。
たしかに、着るために渡されたものだ。
でも、“今ここで”となると少しだけ心の準備がいる。
そんなうさぎの迷いをよそに、教室のあちこちではすでに同じコースの生徒たちがざわざわし始めていた。
といっても、地域貢献科の希望者はうさぎとマリーの二人だけだから、着替えるのも結局その二人だけなのだけれど。
「ちょっと待って。ちゃんと着られるかも分からないし……」
「着られるよ、大丈夫大丈夫!」
「マリーちゃんはなんでそんなに自信あるの……」
「だって、かっこいいもん!」
その答えはあまりにもまっすぐで、うさぎは思わず小さく笑ってしまう。
たしかに、かっこいい。
机の上に置かれているだけなのに、少し背筋が伸びるような雰囲気がある。
駅で働く人たちが着る制服。
ついこの前まで、自分にはあまり縁のないものだと思っていた。
それが今、こうして目の前にある。
「……うん」
うさぎは小さくうなずいた。
「着てみる」
「よしっ!」
マリーが小さく拳を握る。
自分が着るわけでもないのに、どうしてそんなにうれしそうなんだろうと思いながら、うさぎは制服を抱えて立ち上がった。
「じゃあ、更衣室行ってくるね」
「アタシも行く!」
「うん、マリーちゃんもだからね」
そんな軽いやり取りをしてから、二人は教室を出る。
廊下を歩く間も、うさぎは制服を抱えた腕に少しだけ力を入れていた。
新品の布の感触が、妙に現実味を連れてくる。
二年次からの専門コースへ向けての準備。
地域貢献科を選んだ時は、まだどこか遠い話みたいに感じていた。
でも、制服があるということは、そこにちゃんと“現場”があるということだ。
机の上の勉強だけじゃない。
本当に駅へ行って、本当に何かをするのだ。
そう思うと、うれしさと一緒に少しだけ緊張も湧いてくる。
更衣室で制服に袖を通した時、その気持ちはさらに大きくなった。
ボタンを留め、襟を整え、スカートのラインを確かめる。
鏡の前に立ったうさぎは、しばらく言葉を失った。
見慣れない。
でも、不思議としっくりもくる。
紺色のジャケットは学校の制服より少しだけきちんとして見えて、胸元の印象もどこか大人っぽい。
ただ着替えただけなのに、さっきまでとは少し違う自分が鏡の向こうにいた。
「……なんだか」
思わず小さく呟く。
「本当に働くみたい……」
その声は、半分は感想で、半分は自分への確認みたいだった。
カーテンの向こうから、ぱたぱたと足音が聞こえる。
「うさちゃん、まだー?」
マリーの声だ。
「う、うん。今出るね」
うさぎは最後にもう一度襟元を整えてから、そっとカーテンを開いた。
「……どうかな」
少し緊張した声でそう言うと、待っていたマリーがぱっと振り向いた。
「おぉー!」
声がそのまま弾む。
「すごい! うさちゃん、めちゃくちゃ似合う!」
「そ、そうかな……」
「そうだよ! なんかもう、ちゃんとしてる駅員さんって感じ!」
それは褒めているのだろうけれど、“ちゃんとしてる”が妙にうさぎらしい評価で、思わず苦笑いしてしまう。
「マリーちゃんは?」
「アタシも着たよ!」
そう言って、マリーは自信満々に一歩前に出た。
たしかに、似合っていた。
明るく元気な雰囲気のマリーが着ると、制服まで少し活発に見えるから不思議だ。
くるり、とその場で回って見せる姿も、いかにもマリーらしい。
……けれど。
うさぎの視線は、そこでぴたりと止まった。
「マリーちゃん……それ」
「え?」
「足元」
マリーはきょとんとしてから、自分の足元を見下ろす。
そこにあったのは、制服とは少し雰囲気の違うルーズソックスだった。
きちんとした紺色の制服に対して、そこだけ少しだけ自由すぎる。
「いいでしょ?」
マリーは満面の笑顔だった。
「制服だってオシャレしたいじゃん」
うさぎは一瞬だけ言葉を失う。
言いたいことはたくさんあるのに、どこから言えばいいか分からない。
「……駅長さんに怒られないといいけど」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
「大丈夫大丈夫!」
「その“大丈夫”に根拠があるの見たことないんだけど……」
「あるよ。なんとなく!」
「それ根拠じゃないよ……」
うさぎは小さくため息をついたけれど、本気で怒っているわけではなかった。
こういうところも、マリーらしい。
自由で、元気で、少しだけ心配になる。
でも、その明るさに助けられているのも事実だ。
鏡の前に並んで立つと、二人の違いがよく分かる。
同じ制服を着ているのに、
うさぎはきちんとまっすぐ、
マリーは少しだけはみ出すように明るい。
どちらも違って、どちらもちゃんと似合っている。
「……出来るかな」
ぽつりと、うさぎは呟いていた。
「ん?」
鏡越しにマリーがこちらを見る。
「ちゃんと出来るかなって」
うさぎは視線を少し下げる。
「制服を着ると、なんだか急に本物っぽくなって……」
自分でも少し変な言い方だと思った。
でも、それがいちばん近い表現だった。
コースを選んだ時には、まだ“これから”の話だった。
けれど、制服に袖を通した今は、もう少しだけ現実に近い。
本当に駅へ行く。
本当に人の前に立つ。
ちゃんと役に立てるようにしないといけない。
そう思ったら、急に少しだけ不安になった。
そんなうさぎを見て、マリーは一歩近づいた。
それから、にっといつもの笑顔を見せる。
「うさちゃんなら出来るって」
それだけだった。
理由も説明もない。
でも、マリーがそう言うと、不思議と心が軽くなる。
「……そうかな」
「そうだよ。だってうさちゃん、もう“ちゃんとしてる感”すごいもん」
「それ、さっきから褒めてるのか分からないんだけど」
「褒めてる褒めてる!」
マリーはけらけら笑った。
うさぎもつられて少し笑う。
さっきまで胸の中にあった固さが、ほんの少しだけほどけた気がした。
その日の帰り道。
二人は駅員制服のまま、校門を出ていた。
着替えてから帰ってもよかったのだけれど、駅で簡単な説明を受ける都合があって、そのまま向かうことになっていたのだ。
いつもの通学路とは少し違う方向へ向かう。
制服姿で駅へ向かうというだけで、見慣れた景色まで少し違って見えた。
「なんか緊張するね」
うさぎが言う。
「アタシは楽しみ!」
マリーの返事は、いつも通り元気いっぱいだ。
「だと思った」
「だって、駅だよ? 制服だよ? なんかもう、それだけで特別じゃない?」
「それは……うん、ちょっと分かるかも」
うさぎは小さく笑った。
本当に、少し特別だった。
ただの放課後のはずなのに、
今日は“学校の帰り”というより、“どこかへ向かっている途中”みたいな気持ちになる。
駅で働く人たちも、最初はこういうふうに緊張したのだろうか。
「ねえうさちゃん」
「なに?」
「アタシたち、いつかほんとにすごい駅員さんになるかな」
その言い方があまりにも大きくて、うさぎはくすっと笑う。
「いきなり“すごい”は分からないけど……」
「でもなる気はあるよ!」
「気が早いよ、もう」
「夢は大きく、だよ!」
マリーは胸を張る。
うさぎはそんな横顔を見て、やっぱり少し安心する。
自分一人だったら、きっともっと緊張していた。
でも、隣にマリーがいるだけで、不思議と前を向ける。
その少し後ろを、小さな影が歩いていた。
白い巫女服の少女。
足音を消すように、でも確かに同じ方向へ進んでいる。
巫女服の少女は鈴音みこ。
駅の近くにある追兎天神の娘だ。
みこは、二人の背中をじっと見つめていた。
今日もいた。
それだけで、胸の奥がふわっと明るくなる。
紺色の制服。
並んで歩く後ろ姿。
楽しそうに話しながら、同じ道を進んでいく二人。
みこは少し距離を詰めて、また止まる。
近づきたい。
でも、近づけない。
声をかけたい。
でも、そんな勇気はまだない。
だから今日も、後ろからそっと見ることしかできなかった。
それでも、見ているだけで少しうれしい。
みこにとって、その気持ちはもう、どうしようもないくらい大きくなり始めていた。
前を歩くマリーが、いつもの調子で笑っている。
その隣で、うさぎもやわらかく笑う。
その横顔を見ているだけで、胸の奥がきゅっとする。
名前も知らない。
話したこともない。
それなのに、どうしてこんなに気になるのか、みこ自身にもまだよく分かっていなかった。
ただ、あの子を見ていると、心の中が少しあたたかくなる。
それだけは確かだった。
やがて駅前が見えてくる。
夕方の光を受けた駅舎は、いつもより少しだけ立派に見えた。
うさぎとマリーは、そのまま迷いなく駅へ向かって歩いていく。
みこはその少し後ろで立ち止まった。
駅舎を見上げる。
春の風が、巫女服の袖をそっと揺らした。
あの二人は、あの駅に行くんだ。
そう思うと、胸の奥がまた少しだけ高鳴る。
近づきたい。
でも、今日はまだここまで。
みこは小さく息をのみ、それ以上は進めなかった。
前を歩く二人は、そのまま駅の中へ消えていく。
紺色の制服だけが最後にちらりと見えて、それもすぐ見えなくなった。
みこはしばらく、その場に立ったままだった。
遠くで電車の音がする。
見慣れた駅前の景色なのに、今日は少しだけ違って見えた。
たぶんそれは、あの二人がいたからだ。
みこは胸元の前で、そっと両手を握る。
言葉はまだない。
勇気も、まだ小さい。
けれど――
その小さな胸の中で、何かが少しずつ動き始めていた。
まだ誰も、そのことを知らない。




