きっと出来る
駅事務室の奥にある、小さな空きスペース。
昼間は荷物を置いたり、駅員さんが少しだけ休憩したりする場所だけれど、
今日はそこが、三人の即席レッスン場になっていた。
机を少し端へ寄せて。
椅子を壁際にまとめて。
真ん中だけ、なんとか動けるくらいの空間を作る。
広いとはとても言えない。
むしろ、ちょっと手を広げたらすぐぶつかりそうなくらい狭い。
でも、今の三人にはそれで十分だった。
「いくよ!」
マリーがぱんっと手を打つ。
みこがすぐに元気よく頷く。
「うん!」
うさぎも小さく息を整えて、位置についた。
スマホから音楽が流れ始める。
短いイントロ。
その瞬間、みこの空気が少しだけ変わった。
ぱっと体が動く。
腕の流れ。
足の運び。
回る時の重心のきれいさ。
巫女舞で鍛えた動きは、思っていた以上にしなやかで、そして驚くほどきれいだった。
うさぎが思わず呟く。
「みこちゃん、ダンスは本当に上手ね」
「えへへ」
みこが少しだけ照れた顔をする。
でも、足は止まらない。
音に合わせて、くるりと小さく回る。
マリーも負けじと動く。
勢いがあって、見ているだけで楽しくなるような踊り方だ。
細かいところはまだ少し荒いけれど、元気の良さで全部持っていってしまうような強さがある。
そして、歌のパートに入った。
「♪――」
一瞬。
マリーとうさぎの顔がそろって止まる。
音程が、少し外れた。
いや。
少し、ではないかもしれない。
低いところはまだなんとかついていける。
でも高いところへ上がった瞬間、ふっと声が浮いてしまう。
そのまま、さらに外れる。
うさぎは思わず視線をそらした。
マリーは一拍だけ固まって、それから慌てて笑顔を作る。
「も、もう一回!」
「うん!」
みこはすぐに頷いた。
頷いたけれど、その顔にはさっきまでの勢いが少しだけ足りなかった。
もう一度、イントロ。
ダンスはきれいに入る。
でも、やっぱり歌になると外れる。
二回目。
三回目。
四回目。
だんだん、みこの声に迷いが混ざり始める。
正しい音を探そうとするほど、余計にわからなくなる。
最後には、声そのものが少し震えていた。
「……っ」
音が崩れる。
そこで、みこが歌うのを止めた。
静かになる。
スマホの伴奏だけが、少しだけ場違いみたいに流れ続けて、
それもうさぎが慌てて止めた。
しん、と空気が落ちる。
みこは俯いていた。
両手がぎゅっと握られている。
「ごめん」
小さな声だった。
うさぎがすぐに顔を上げる。
「え?」
「……わたしのせいだよね」
みこは俯いたまま続ける。
「わたしがやりたいって言ったのに」
その声は、だんだん弱くなる。
「ダンスは出来るのに……歌が……」
最後まで言い切る前に、涙がぽろりと落ちた。
「みこちゃん」
マリーが慌てて一歩近づく。
「ち、ちがうって!」
でも、次の言葉がうまく見つからない。
「その、えっと……」
こういう時、勢いだけでは足りないことがある。
マリー自身、それがわかってしまって、余計に焦る。
みこの涙は止まらなかった。
ぽろぽろと、
一度こぼれ始めたら、あとは自分でも止められないみたいに落ちていく。
うさぎはゆっくりみこの前へ歩いた。
そして、そっとしゃがみこんで目線を合わせる。
「みこちゃん」
静かな声だった。
みこが涙目のまま顔を上げる。
うさぎは少しだけ微笑んだ。
「出来ないことがあるのは、悪いことじゃないわ」
みこが小さく首を振る。
「でも……」
「でも、じゃない」
うさぎは、今度は少しだけきっぱり言った。
「初めてのことなんだから、うまくいかないのが普通なの」
その言葉は、慰めようとして言ったというより、うさぎの中では本当にそれが当たり前のことだった。
出来ないことがある。
失敗することがある。
最初から全部できるわけじゃない。
それは、べつに恥ずかしいことじゃない。
「わたしだって」
うさぎは少しだけ視線をやわらげる。
「最初は制服を着るだけでも緊張したし、駅で働くのだって、ちゃんと出来るかわからなかったよ」
「それと違うよ」
涙声で、みこが言う。
「違わない」
うさぎはすぐに返した。
迷いのない声だった。
「初めてのことは、うまくいかないのが普通」
小さく間を置いてから、続ける。
「でも」
みこの目を見る。
まっすぐに。
「きっと出来る」
その言葉は、強く言い切るような響きではなかった。
励まそうと飾った優しさでもなかった。
ただ、まっすぐだった。
だからこそ、みこの胸にそのまま落ちた。
マリーもそこで、ようやく言葉を見つけたみたいに隣へ来る。
「そうそう!」
わざと明るく言う。
「音程ちょっとズレてるだけだし!」
みこが涙目のまま聞き返す。
「ちょっと?」
「うん、ちょっと!」
マリーは力強く頷いた。
でもその言い方があまりにも即答で、みこは思わず小さく笑ってしまう。
「ほんとに?」
「ほんと」
今度は、うさぎが頷いた。
「何回でもやればいいの」
マリーがぱんっと手を叩く。
「よーし、特訓だ!」
その言い方がいつも通りすぎて、みこは涙を拭きながら、少しずつ息を整えていく。
「……うん」
袖で目元をこしこしして、深呼吸する。
それから、みこは小さく前を向いた。
「もう一回」
うさぎとマリーが顔を見合わせる。
そして、二人とも頷いた。
もう一度、音楽が流れる。
イントロ。
みこが踊る。
さっきより少しだけ肩の力が抜けていた。
歌に入る。
やっぱり、少し外れる。
でも。
さっきよりは近い。
高い音で迷うけれど、完全には崩れない。
うさぎが小さく呟く。
「ほら」
マリーもにっと笑う。
「いけるいける!」
みこは歌い続ける。
まだ完璧じゃない。
でも、もう涙は出ていなかった。
歌い終わったあと、
みこは自分でも少しだけ驚いた顔をしていた。
「……さっきより」
「うん」
うさぎが頷く。
「近づいてる」
その言葉に、みこの目がほんの少しだけ明るくなる。
できない、で終わりじゃない。
まだ途中だ。
でも、ちゃんと前には進んでいる。
そのことが、今は何より嬉しかった。
駅事務室の奥の小さなスペースに、また三人の声が重なり始める。
何回でも。
少しずつでも。
そうやって近づいていけばいい。
きっと出来る。
今はまだ、その言葉を信じて進むしかないのだから。




